鐘は「いま」を告げる
祭りの三日前の夕方だった。広場で、五つくらいの男の子が、母親の手を引いて、止まった時計台を指さした。
「かあちゃん、なんで鐘、鳴らないの」
母親は「壊れてるのよ」といつもの答えを言った。男の子は食い下がった。
「なおったら鳴る? おまつりする? ぼく、ことし、はじめて把手さわれる年なんだよ。ねえ、おまつり、いつ?」
広場に、たまたま人が多い時刻だった。買い物帰りの、仕事上がりの、大人たちがそこらじゅうにいて、みんな、聞こえないふりがうまい人たちだった。でも、その子の声は高くて、よく通った。
「ねえ、おまつり、いつ?」
誰も、歩き出せなかった。
聞こえないふりの膜が、子どものまっすぐな一言で、広場ごと破れてしまったのを、ぼくはこの目で見た。母親は答えられずに立ち尽くし、その顔がくしゃりと歪んで、彼女は往来の真ん中で、声を殺して泣き出した。四つの月ぶん、膜の内側に溜まっていたものが、あふれるのに、時間はかからなかった。もらい泣きというにはあまりに深い泣き声が、夕方の広場のあちこちで、ひとつ、またひとつ、上がった。
その晩、時計台の扉が叩かれた。
立っていたのは、市議会の議長だった。恰幅のいい、疲れた顔の男の人だった。議長はイーヴォさんの小部屋で、帽子を膝に置いて、長いこと黙って、それから言った。
「イーヴォ。明日、臨時の寄り合いを開く。……祭りを、どうするか、街のみんなで決める。あんたも来てくれ。時計のことを、いちばんよく知っとるのは、あんただ」
寄り合いは、翌日の晩、聖堂で開かれた。街の人間の半分が詰めかけて、立ち見が扉の外まで溢れた。ぼくらはテッサの隣で、いちばん後ろの壁際に立った。
議論は、割れた。
「祭りはやるべきだ。百年続いた祭りを、儂らの代で絶やしてどうする」
「なら訊くが、あんた、来年の祭りの話ができるのか。大巻きってのは来年のための祭りだろう。来年のない年に錘を巻いて、その鐘は、いったい何を告げる鐘なんだ」
「そうだ。鐘が鳴ったら、うちの年寄りは正気でいられん。四つの月、やっとの思いで穏やかにやってきたんだ。いまさら搔き乱すな」
「搔き乱すなだと? 昨日の広場を見ただろう。もう乱れてるんだよ、儂らはとっくに! 膜の内側で、めいめい独りで乱れてるんだ!」
「では『最後の大巻き』と銘打つのか? その言葉を、あんたは子どもらの前で言えるのか」
やる、やらない。言う、言わない。正しさは、ここでも真っ二つに割れていた。グレンの校門の前と同じだ。どちらの言い分にも、守りたいものの形が、はっきり透けて見えた。
議長が、最後に、イーヴォさんを呼んだ。
老人はゆっくり演壇に上がって、詰めかけた顔ぶれを、端から端まで見た。それから、話し始めた。
「時計を止めたのは、儂だ」
ざわめきが起きて、すぐに静まった。
「議会に頼まれた、というのは、半分だけ本当だ。あとの半分は、儂が止めたかったから止めた。針が終わりに向かって進むのを、儂は見ていられんかった。……あんたらの『知らんぷり』を、儂は責める気になれん。言い出しっぺは、この儂だからだ。街でいちばん先に目をつぶったのは、時計守の儂だ」
老人は、そこで一度、深く息をした。
「だが、六十年、時計の腹の中で暮らして、この歳になって、やっと分かったことがある。……あのな、みんな。時計というのはな、残り時間を数える機械じゃないんだ。時計はな、『いまが何時か』を告げる機械だ。鐘は百年間、一度だって『あと何時間』と鳴ったことはない。『いま六時だ』としか、鳴ったことがない」
聖堂は、水を打ったように静かだった。
「儂は針を進めるのが怖かった。終わりまでの距離を測る針だと思うたからだ。だが、違った。針が指すのは、いつだって『いま』だけだ。終わりの日まで、この街には何千回の『いま』が残っとる。それを一つひとつ告げてやるのが、時計の仕事で、儂の仕事だった。……儂は仕事に戻りたい。手を貸してくれ。あの錘は、儂ひとりでは巻けん。あれを巻けるのは、昔から、この街の全員だけだ」
採決は、挙手だった。
最初に手を挙げたのは、昨日の広場の、あの母親だった。隣で男の子が、意味も分からず、母親の真似をして、小さな手を挙げた。それから、手は、さざ波みたいに増えていった。反対の手も、確かにいくつも挙がった。最後まで挙げなかった人も、確かにいた。それでも、聖堂の中は、挙がった手のほうが、ずっと多かった。
議長は、票を数え終えて、宣言した。
「大巻きの祭りは、今年も行う。……『最後の』とは、銘打たない。ただし、隠しもしない。今年の祭りは、いつも通りの、百一回目の大巻きだ。それだけだ」
祭りの日は、雲ひとつない秋晴れだった。
夜明け前から、街は百年ぶんの手際で動き出した。広場に長机が並び、婆さまたちの大鍋から湯気が上がり、時計台の扉という扉が開け放たれた。塔の腹の巻き上げ機のところには、力自慢の男たちが列を作った。四つの月の空白なんて最初からなかったみたいに、誰もが自分の持ち場を知っていた。祭りというのは、体で覚えるものらしかった。
朝の六時、イーヴォさんが最初の把手に手をかけて、大巻きが始まった。
ぼくは一日中、撮り続けた。軋みながら上がっていく岩みたいな錘。八人がかりで回される巻き上げ機。汗だくの鍛冶屋と入れ替わりに把手を握る、痩せた仕立て屋。抱き上げられて把手に触る、順番待ちの子どもたち。あの五つの男の子が、真っ赤な顔で、生まれて初めての把手を押すところ。外の広場の、湯気と笑い声。フィルムが足りなくなって、ぼくは撮る一枚を選ぶことを覚えた。
昼過ぎ、テッサがイーヴォさんのところへ、小さな包みを持ってきた。開くと、緑色の硝子で作った、小指の先ほどの星だった。
「天測盤の空、直すんでしょ」テッサは言った。「太陽と、月ふたつ。……足りないのが、ひとつあると思って。夜なべして磨いた」
イーヴォさんは、緑の硝子星を、ごつごつした手のひらに載せて、長いこと見ていた。それから、孫娘の頭に、油の染みた手をぽんと置いた。
「……儂の弟子は、儂より時計守に向いとる」
天測盤に緑の星が据えられたのは、日暮れ前だった。イーヴォさんとテッサが二人で盤に上がり、太陽と二つの月の模型のあいだ、東の空の位置に、小さな緑の星を留めた。広場からもよく見えた。見上げた人たちの間に、一瞬、あの膜が戻りかけて――でも、今度は破れなかった。膜は、もう要らなくなっていた。空の絵の中にヴェルデを描き入れたその瞬間から、あれは「見て見ぬふりをするもの」ではなくて、「この空にあるもののひとつ」になったからだ。
日が沈んで、三つ目の錘が天辺に届いた。
イーヴォさんが、六十年やってきた手つきで、脱進機の留め金を外した。
こつん、と小さな音がして――時計が、動き出した。
四つの月ぶん止まっていた何千の歯車が、いっせいに回り始める音を、なんて言えばいいんだろう。雨の音に似ていた。それか、麦の穂が風で鳴る音に。塔ぜんたいが、深く息を吸って、吐いた。そして、大鐘が鳴った。
一つ。二つ。三つ。
鐘は十二、鳴った。谷ぜんたいが鳴った。広場の人たちは、誰も喋らなかった。泣いている人は、たくさんいた。でも、あの夕方の広場の泣き方とは、違う泣き方だった。数え終えた鐘の余韻の中で、あの五つの男の子の声が、澄んで響いた。
「かあちゃん、なおったね」
「うん」母親は言った。「直ったねえ」
時計は何も特別なことを告げなかった。いま七時だ、と告げただけだった。それが、あの街のみんなが、四つの月のあいだ聞けなかった言葉だった。いま、七時。いまが、ある。
ミナは、鐘が鳴り終わるまで、ずっと時計台を見上げていた。それから手帳を開いて、四行目の「世界でいちばん大きな時計台」に、丸をつけた。今度の丸は、一息で書かれた、迷いのない丸だった。
「聞こえた?」ミナはぼくに言った。「母さんの行きたかった時計台、動いてるとこ、音まで聞けた」
ロズナを発つ朝、テッサとイーヴォさんが、駅まで来てくれた。テッサはミナに、小さな包みをくれた。開くと、緑の硝子星の、もうひとつ小さいやつだった。
「お守り。……変かな、あの星のお守りって」
「ううん」ミナは、それを手帳の紐に結びつけた。「ぜんぜん、変じゃない」
汽車が谷を出るまで、時計台はずっと見えていた。金の針は、ちゃんと進んでいた。ぼくは最後にもう一枚だけ撮った。動いている時計は、写真の中では止まっている時計と区別がつかない。でも、いいのだ。ぼくが知っていれば。この一枚の中の針が、いまも進んでいることを、ぼくが覚えていれば。
その夜、ぼくは寝台車の窓から、長いこと空を見ていた。
ヴェルデは、もう誰が見ても分かる星になっていた。緑の頭に、白く煙る短い尾。旅に出た夜、あれはまだ、探さないと見つからない点だった。ソネルの海の上で、カルカの川岸で、トゥーレの平原で、グレンの煙の切れ間で、ロズナの谷で、あの星は少しずつ育って、ぼくらは少しずつ、いろんな人の「いま」を通り過ぎてきた。
毎朝船を出す音で始まる、港町の朝。騒ぎながら祈る、火の街の夜明け。土の下で順番を待つ、何百万粒の種。灰色の街に響く、九九のこえ。そして、いまを告げ直した、大時計の鐘。
ぼくのカメラの中には、そのぜんぶが入っている。ミナの手帳には、四つの丸と、ひとつの約束と、ミナの字で書き足された新しい行が増えた。旅は、まだ半分も来ていない。手帳には、まだ丸のつかない行が、ページの端まで並んでいる。
向かいの寝台で、ミナが手帳をめくる音がした。
「ねえ、ハル。次、どこだと思う?」
ミナが差し出したページの、次の行には、母さんの丸い字で、こう書いてあった。
――ふたつの月が、ならんで沈む岬。
二つの月が並んで沈むのは、一年にたった三日だけ。それも、この星のいちばん西の果ての岬でしか見られないのだと、ミナは母さんから聞いたことがあるという。次の三日は、冬の初めに来る。
「間に合うかな」ミナが言った。
「間に合わせよう」ぼくは言った。「汽車を乗り継いで、駄目なら歩いてでも」
窓の外を、夜のイオルドが流れていく。緑の星に見下ろされながら、それでも今夜も、谷には灯りがともり、どこかで鐘が時を告げている。世界の終わりに、ぼくらはまだ、旅の途中だ。
(第五章 了)
(第一部 了)




