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世界の終わりに  作者: すみっこSE
第六章 劇場の街フェリス

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12/17

嘘と本当のあいだで

 峠をひとつ越えると、街全体が舞台みたいに見える場所があった。

 すり鉢状の谷に、赤や紫や金色に塗られた建物がびっしりと段々畑のように並び、真ん中に、他のどれよりも大きな、白い円柱の並ぶ劇場が建っている。街灯には芝居の看板が何十枚も貼り重ねられて、風に古い糊の匂いを乗せていた。坂道の途中では、仮面をかぶった子どもたちが寸劇ごっこをして遊び、洗濯物の代わりに、色あせた舞台衣装が軒先にずらりと干してあった。

 劇場の街フェリス。ここは母さんの手帳にはない街だった。西の岬へ向かう道が、たまたまこの谷を通っていただけだ。でも駅を降りた瞬間、ぼくらは足を止めて、しばらく声も出せなかった。

 通りという通りで、芝居が起きていた。

 辻に立つ大道芸人が剣を飲み、酒場の軒先で吟遊詩人が弦を鳴らし、噴水の縁では旅役者らしい二人組が、通りすがりの客を相手に即興の寸劇をやっている。露店のおばさんは、野菜の値段交渉すら芝居がかった節回しでやっていて、ぼくらは思わず足を止めて聞き入ってしまった。世界の終わりの気配は、ここでは薄まって、代わりに、もっと騒がしくて、もっと作り物めいた何かで満たされていた。

「なんか、カルカと似てる」ミナが言った。「でも、違う」

 似ているようで違う理由は、宿を探すうちに分かった。カルカの祭りは「今夜だけが本物だ」と叫んで明日を燃やす街だった。フェリスは違う。この街の人たちは、物語を演じることで、今日を生き延びていた。

 宿の代わりに、ぼくらは劇場の裏方仕事にありついた。看板書きの手伝いが要るという貼り紙を見て顔を出したら、衣装係のおばさんに「縫い物はできるか」と聞かれ、ミナが頷いたのがきっかけだった。ぼくは大道具の運び屋になった。寝床は舞台裏の楽屋、飯は座員たちと同じ大鍋の煮込みという条件で、ぼくらはフェリスの一座に紛れ込むことになった。

 一座の座長は、マーゴという老女優だった。

 髪はほとんど白く、背中は少し曲がっているのに、舞台に立った瞬間、二十も若返るような人だった。初めて見た夜の芝居で、ぼくはマーゴの演技に完全に呑まれてしまった。演目は「たそがれの恋歌」。この星でいちばん有名な悲恋劇で、フェリスの一座は百年近く、これを看板演目にしてきたのだという。

 物語はこうだ。戦火に引き裂かれた恋人二人。女は町に残り、男は戦場へ発つ。何年も待ち続けた女のもとに、ある日、男の戦死の報せが届く。本来の結末は、そこで幕が下りる。女は恋人の亡骸のない墓の前で、たった一人、明かりを消す。それが百年間、変わらなかった結末だった。

 でも、ぼくらが観たその夜の舞台は、違う結末だった。

 戦死の報せの直後、舞台の袖から、埃だらけの外套を着た男が現れる。生きていた。奇跡的に生き延びて、故郷への道を歩き通してきた男が、女の名を呼びながら舞台の中央へ駆け出す。抱き合う二人。客席は涙と歓声に包まれ、隣の席のおばあさんは、ハンカチを握りしめて何度も頷いていた。

 幕が下りたあと、ミナがぽつりと言った。

「……なんか、ずるいね。この結末」

「ずるい?」

「気持ちよく泣けるけど、なんか、逃げてる気もする」

 その感想が、ちょうどこの街の隠れた争いの真ん中を突いていたと知るのは、翌日のことだった。

 衣装部屋の仕事は、思っていたよりずっと繊細だった。破れた袖の縫い直し、ほつれた縁飾りの付け直し。ミナは驚くほど手先が器用で、衣装係のおばさんに「あんた、うちに欲しいくらいだよ」と褒められていた。ぼくは、その隣で、糸の通し方すら怪しくて、何度もミナに手を取られて直された。

 指先が触れるたび、ぼくは妙に意識してしまって、自分でもばかみたいだと思った。ミナのほうは平気な顔をしていたけれど、あるとき、袖に針を刺そうとしたミナの手が、ぼくの手にぶつかって、二人同時に「あ」と声を出して、それからどちらも黙って、しばらく手元だけを見ていた。ああいうのを気まずいというんだと、ぼくはそのとき初めて知った気がする。

 昼休み、楽屋の裏で、若い役者と衣装係のおばさんが言い争っているのが聞こえた。

「ユーリ、いい加減にしな。マーゴ様の前でその話をするんじゃないよ」

「隠したまま最後まで行くのかよ」若い役者――ユーリという名らしい――が声を荒らげた。「あと何回、あの嘘の結末をやるつもりだ。世界が終わるまで、ずっとか」

 ユーリは「たそがれの恋歌」の男の主役を演じていた。舞台の上では堂々としていたその人が、楽屋裏では拳を握って、今にも何かを殴りそうな顔をしていた。

「観客が求めてるのは、あの結末なんだよ」おばさんが言い返した。「発表の直後、劇場に人っ子ひとり来なくなったのを、あんた覚えてないのかい。マーゴ様が結末を変えてから、客が戻ってきたんだ。あの結末のおかげで、この一座は食えてる」

「嘘で食ってるってことだろう、それは」

 ユーリは吐き捨てて、ぼくらに気づくと、ばつが悪そうに口をつぐんで、楽屋の奥へ消えていった。

 劇場の裏方仕事が始まってすぐ、ぼくは客席の掃除も任されるようになった。毎晩の公演のあと、座席の間に落ちた紙屑や、忘れ物を拾って回る仕事だ。そこで、ひとりの常連客を知った。

 最前列の端、いつも同じ席に座る、白髪の女の人だった。名前はペトラといって、幕が下りるたびに、誰よりも大きな拍手をする人だった。ある晩、忘れ物のハンカチを届けに行くと、ペトラは涙を拭きながら、ぼくに礼を言った。

「毎晩、来てるんですか」ぼくは、つい訊いてしまった。

「毎晩さ」ペトラは、少し照れたように笑った。「あたしの息子はね、戦争で死んだんだ。ずっと昔の、彗星なんてもの、影も形もなかった頃の話だよ。……あの芝居の、生きて帰ってくる男を見るとね、ほんの一時間だけ、息子が生きて帰ってきたみたいな気持ちになれるんだ。嘘だって分かってるよ。分かってて、毎晩、嘘に会いに来てるのさ」

 ぼくは、その一言をどう受け止めればいいのか分からないまま、頭を下げて客席をあとにした。ユーリの「嘘で食ってる」という怒りも、ペトラの「嘘に会いに来てる」という涙も、どちらも本物だった。この街の争いは、正しさと正しさがぶつかっているんじゃなくて、必要と必要がぶつかっているんだと、ぼくはそのとき、ようやく分かった気がした。

 その翌晩の本番中、ぼくは大道具係として、初めて肝を冷やす出来事に遭遇した。

 二幕目、戦場の場面。頭上に吊るされた巨大な書き割りを支えるロープの一本が、金具の緩みで、ぎしりと嫌な音を立てたのだ。舞台の上では、ちょうどユーリが台詞の山場を迎えていた。気づいたのは、綱元にいたぼくだけだった。

「落ちる――!」

 声を出す間もなく、ぼくは自分の重みだけで、緩んだロープを力いっぱい引いた。腕が抜けるかと思うくらいの重さだった。書き割りは、あと少しで舞台に落ちるところで、ぎりぎり止まった。

 隣にいたミナが、すぐに反対側のロープに飛びついて、ぼくと一緒に体重をかけてくれた。二人がかりで、なんとか書き割りを固定し直すまでの数十秒、心臓が喉から飛び出そうだった。舞台の上では、ユーリが何も気づかない顔で、台詞を言い切っていた。客席からは、割れんばかりの拍手が起きた。誰ひとり、幕の裏で何が起きていたか知らなかった。

 幕間、ロープを固く結び直しながら、ミナがぼくの手を見て、小さく息を呑んだ。

「手、擦りむいてる」

「平気。それより、ミナこそ」

「わたしも平気」

 言いながら、ミナはぼくの手のひらに、そっと自分の指を這わせた。傷の具合を確かめるみたいに。ただそれだけのことなのに、ぼくは舞台装置よりも重い何かに、心臓を押しつぶされそうになった。

「……ありがと、ハル」ミナは、手を離しながら言った。「あの書き割りが落ちてたら、公演、めちゃくちゃになってたよね」

「うん」

「なんか、ハルって、いざってときに動くよね。ソネルの海でも、そうだった」

 褒められているのだと分かるのに、ぼくはうまく返事ができなかった。ただ、擦りむいた手のひらの熱だけが、いつまでも消えなかった。

 その夜の稽古は、いつもよりぴりぴりしていた。ぼくは大道具の合間に稽古場を覗いていたのだけど、ユーリの芝居には、いつもの熱がなかった。決められた台詞を、決められた通りになぞっているだけの芝居だった。マーゴはそれを黙って見ていて、稽古の終わりに、ただ一言、「ユーリ、明日はもっと嘘をつきな」とだけ言った。ユーリは何も言い返さずに、稽古場を出ていった。

 その言葉の意味を、ぼくはまだよく分かっていなかった。嘘をつくことと、芝居をすることが、この街ではほとんど同じ意味を持っているらしいと、ぼんやり気づき始めていただけだった。

 事件が起きたのは、その二日後だった。

 夜の公演、三幕目。戦死の報せが届く場面で、マーゴが舞台の中央で、崩れるように倒れたのだ。

 最初、客席はそれを演技だと思って、静まり返って見入っていた。でも幕袖にいたぼくらには分かった。倒れ方が、明らかに芝居のものじゃなかった。座員たちが慌てて幕を下ろし、客席にどよめきが走る中、マーゴは楽屋に運び込まれた。

 医者が呼ばれ、診断が出るまでの間、楽屋は重い沈黙に包まれていた。マーゴは意識を取り戻していたけれど、顔は紙のように白く、呼吸は浅かった。

「過労だ」駆けつけた老医者が言った。「心臓が弱っとる。……マーゴさん、あんた、この半年、休演日を何日取った」

 マーゴは、弱々しく笑って答えなかった。答えられなかったのだと、あとで衣装係のおばさんが教えてくれた。彗星の発表からこの半年、フェリスの一座は、一度も休まず毎晩公演を続けていたのだ。世界が終わるまでの残り時間、劇場の灯りを絶やすまいと、マーゴ自身が言い出したことだった。

 その夜、ミナは水桶と手拭いを抱えて、マーゴの看病を買って出た。汗を拭き、額を冷やし、寝返りを手伝う。ぼくは水を汲む役で、何度も部屋を出入りした。三度目に部屋に入ったとき、ミナがマーゴの手を握って、何か小さな声で話しかけているのが見えた。何を話しているのかは聞こえなかったけれど、マーゴの口元が、少しだけ緩んでいた。

「うまいね、看病」ぼくは水桶を置きながら言った。

「お母さんの、真似してるだけ」ミナは手拭いを絞りながら、視線を落として言った。「病気の人の手の握り方とか、額の拭き方とか、覚えてるんだ。……こういうとき、役に立つとは思わなかった」

 ぼくは、その一言の重さに、うまく相槌を打てなかった。ミナの旅は、いつも、亡くなった誰かの続きを生きているんだと、あらためて思った。

 ぼくは、水を運ぶ役をもらって、マーゴの寝床のそばに行くことができた。マーゴは薄目を開けて、ぼくの顔を見て、掠れた声で言った。

「小僧……今夜の客は、最後まで観られたかい」

「いえ、幕が下りて……」

「そうかい。……悪いことをしたね」

 マーゴは、天井を見つめて、独り言のように続けた。

「あたしは、あの結末を変えたのを、後悔しちゃいない。発表のあと、客席には誰も来なかった。悲しい話で終わる芝居なんて、誰も見たくなかったんだよ。そんな時に、あたしが変えた。男を生きて帰らせた。……あれは嘘だ。でも、あの嘘を観て泣いて、少しだけ元気になって帰ってく客の顔を、あたしはずっと見てきたんだ」

「じゃあ、どうしてユーリさんは」

「あの子は、正しいんだよ」

 マーゴは、少しだけ首を動かして、ぼくを見た。

「嘘は、いつまでも嘘のままじゃいられない。あたしがこのまま、あと何回、あの嘘を演じられるか。……あたしはね、小僧。本当は、最後の公演では、本当の結末をやりたいんだ。百年間、この一座が守ってきた、あの結末を。嘘で始めて、嘘で終わるのは、なんだか、格好がつかないだろう」

「でも、それだと、お客さんは」

「泣くだろうね。今度は、慰めのない泣き方をする」マーゴは目を閉じた。「それでも、あたしはね、思うんだよ。嘘で笑って終わるのと、本当のことで泣いて終わるのと……どっちが、後に残るかって」

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