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世界の終わりに  作者: すみっこSE
第六章 劇場の街フェリス

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13/23

千秋楽の夜

 マーゴが寝込んでいる間、公演は取りやめになった。それでも一座の暮らしは止まらなかった。裏方仕事は続き、ぼくとミナは、朝から晩まで劇場に入り浸ることになった。

 ある夕方、衣装部屋の仕事が早く終わって、ぼくらは誰もいない客席に忍び込んだ。舞台には、まだ「たそがれの恋歌」の書き割りが立てかけられたままだった。戦場の書き割りと、女の部屋の書き割り。ミナはその真ん中の通路を歩いて、舞台の縁に腰かけた。

「ねえ、ハル。ここに座ってみて」

 ぼくは言われるまま隣に座った。誰もいない客席が、暗く広がっている。灯りの落ちた劇場は、昼間とはまるで違う場所に見えた。

「昔の結末と、今の結末、ハルはどっちが好き?」

「……分かんない。どっちも、なんか分かる気がする」

「わたしも」ミナは膝を抱えた。「でもね、思うの。嘘の結末で泣いてるお客さんも、本当の結末で泣いてるお客さんも、たぶん同じ涙だったんじゃないかなって。……結末が変わっても、誰かを想って泣くってことだけは、変わらないのかも」

 ぼくは、隣に座るミナの横顔を見た。舞台の上の乏しい灯りが、ミナの頬に淡い影を作っていた。旅に出たばかりの頃、こんなふうにミナの顔をじっと見たことがあっただろうかと、ぼくはふいに思った。今のミナは、あのときのミナより、少しだけ大人びて見えた。それとも、ぼくの見方のほうが変わったのか、自分でもよく分からなかった。

「……なに、じろじろ見て」ミナが気づいて、こっちを向いた。

「べ、別に」ぼくは慌てて舞台の書き割りに目を逃がした。「その、書き割りの絵、うまいなって」

 嘘だった。ミナも、それが嘘だと分かっているような顔をしていた。でも、何も言わずに、また膝を抱えて、暗い客席のほうを眺めた。ぼくらは、しばらくそのまま、誰もいない劇場の静けさの中に座っていた。

 その帰り道、劇場を出ると、外はもう夜だった。谷を囲む段々の街灯りが、まるで舞台の客席から見上げる天井のように、ぼくらの頭上に広がっていた。

「星、見える?」ミナが言った。

 空を見上げると、谷の底からでも、緑の光ははっきり見えた。ヴェルデ。尾の先が、心なしか、以前よりくっきりしている気がした。

「あれが全部見えなくなるまで、あとどれくらいだろうね」ミナが呟いた。

「……分かんない」ぼくは正直に言った。「でも、まだ、けっこうある。はず」

「はず、って」ミナは小さく笑った。「ハルらしい」

 少し黙ってから、ミナが続けた。

「ねえ、ハル。旅が終わったら――ううん、終わらなくても、いいや。今度、暇なとき、映画とか観に行く? 普通の、恋の映画。悲しくないやつ」

 唐突な質問に、ぼくは変な声が出そうになった。

「い、いいけど。……それ、今、訊く?」

「今しか、訊けないかもって思ったから」

 ミナはそう言って、それ以上は何も付け加えず、また星を見上げた。ぼくは、その横顔をもう一度盗み見て、それから慌てて自分も星に目を戻した。何と答えるのが正解だったのか、ぼくはその晩、寝床に入ってからも、ずっと考えていた。

 坂道を並んで下りながら、ぼくらの肩は、何度もぶつかりそうな距離にあった。避けようとすればできたはずなのに、ぼくもミナも、そうしなかった。宿の入り口に着くまで、どちらも、それについて何も言わなかった。

 衣装部屋では、ユーリが時々、休憩がてら顔を出した。彼は口は悪いが、面倒見のいい人だった。ぼくの下手な針仕事を見て「おまえ、それは縫うっていうより、傷口を縫合してるみたいだな」と笑い、ミナには「あんたは筋がいい。うちに来ないか、本気で」と何度も誘った。ミナはそのたび、旅の途中だからと笑って断っていたけれど、まんざらでもなさそうな顔をするので、ぼくは少しだけ、面白くない気持ちになった。それが何の感情なのか、名前をつけるのは、まだ怖かった。

 マーゴが床上げしたのは、四日後だった。まだ本調子ではなかったけれど、座員たちを楽屋に集めて、こう言った。

「次の満月の夜。あれを、あたしらの千秋楽にする。フェリスの一座は、その夜を最後に、旅を休む。……そしてその夜だけは、本当の結末をやる」

 異論は出なかった。ユーリは何も言わずに、深く頭を下げた。衣装係のおばさんも、静かに頷いた。嘘をやめる時が来たことを、たぶん、みんなどこかで分かっていたのだと思う。

 その報せは、あっという間に街中に広まった。千秋楽で本当の結末をやると聞いて、客の反応は割れた。楽しみにしていた人、来なくなると宣言する人。ぼくは、ペトラが千秋楽のチケットを買いに来たかどうか、気になって仕方がなかった。

 開演前、客席の見回りをしていると、いつもの最前列の端に、ペトラの姿があった。声をかけずにはいられなかった。

「今夜は、本当の結末なんです。知ってて……」

「知ってるよ」ペトラは、いつもと同じ席で、いつもと違う静かな顔をしていた。「知ってて、来た。……あたしはね、坊や。嘘に会いに来てたつもりだったけど、たぶん違ったんだ。嘘でも本当でも、あの人たちが必死に息子のことを演じてくれる、その一時間に会いに来てたのさ。今夜は、それを、最後まで見届けようと思ってね」

 ぼくは、それ以上、何も言えなかった。ただ深く頭を下げて、幕袖へ戻った。

 千秋楽までの数日、稽古場の空気は一変した。ユーリの芝居に、あの熱が戻ってきていた。決められた台詞をなぞるだけの芝居ではなく、一言ごとに体温のある芝居に。マーゴは客席の隅に座って、それを見守っていた。時々、掠れた声で短い指示を飛ばすだけで、あとはただ、じっと見ていた。

 ぼくは、その稽古の合間を縫って、久しぶりにカメラを構えた。台詞を繰り返すユーリの横顔。舞台袖で衣装を直す座員たちの手元。客席の隅で、じっと舞台を見つめるマーゴの、まだ本調子でない横顔。フェリスに来てから、ぼくはずっと大道具係としての手を動かすばかりで、写真を撮ることをどこかに置き忘れていた。嘘と本当のあいだで揺れる一座の顔を、ぼくはもう一度、ちゃんと撮っておきたいと思った。

 千秋楽の夜、劇場は満席だった。噂を聞きつけた客が、隣町からも押し寄せていた。ぼくとミナは、幕袖から特別に観せてもらえることになった。

 三幕目、戦死の報せの場面。客席が静まり返る。今夜、埃だらけの外套を着た男は、現れなかった。マーゴ演じる女は、たった一人、明かりを吹き消して、幕が下りた。

 拍手が始まるまで、長い長い沈黙があった。それから、劇場中の拍手と、すすり泣きが、同時に湧き上がった。慰めのない泣き方だと、マーゴが言っていた通りの泣き方だった。でも、それは、みっともない泣き方ではなかった。隣の席のおばあさんも、初めて観た夜と同じように、ハンカチを握りしめていた。ただ、その涙の形は、あの夜とは、たぶん少し違っていた。

 幕が下りたあと、マーゴは舞台の中央で、深く、深く一礼した。百年ぶんの嘘と、その夜だけの本当を、両方背負ったお辞儀だった。ユーリは、その隣で、これまで見た中でいちばん静かな顔で頭を下げていた。

 ぼくは、幕袖からその一礼にカメラを向けて、シャッターを切った。指が震えていた。写真に、拍手の音までは写らない。それでも、この一枚だけは、絶対に失敗できないと思った。現像は、あとで薬品を分けてもらって、宿の暗い部屋でやることになる。仕上がりを見るのが、旅に出てから初めて、少し怖かった。うまく撮れていなかったら、この夜のことを、写真なしで覚えていなければならない。

 翌朝、ぼくらはフェリスを発った。マーゴは見送りに来られるほどには回復していなかったけれど、ユーリが駅まで来てくれた。

「旅、続けるんだって?」ユーリが言った。「西の岬まで、まだあるだろう」

「うん」ぼくは頷いた。「間に合わせないといけないから」

「間に合わせろよ」ユーリは、初めて笑った顔を見せた。「……なあ、嘘でもいいから言わせてくれ。おまえら、絶対に間に合う。おれはもう、嘘のつき方を、この一座で嫌というほど覚えたからな」

 ユーリは、そう言って、懐から小さな包みを取り出した。

「マーゴ様からだ。会いに行けなくて悪いって、言付かってる」

 包みの中には、丸まった小さな紙と、色あせた小さな布切れが入っていた。紙には、震える字で、短くこう書いてあった。

 ――嘘をやめる勇気を、あんたらの旅にも。生きて帰ってこい。

 布切れは、「たそがれの恋歌」で女が握りしめる小道具の、あのハンカチの端切れだった。ミナは、それをしばらく手のひらで包んでから、大事そうに手帳の間に挟んだ。

「持ってると、嘘をつく勇気と、嘘をやめる勇気の、両方がもらえる気がする」ミナは言った。

 汽車が動き出す。フェリスの舞台のような街並みが、遠ざかっていく。

 向かいの席で、ミナが手帳を開いた。そこにフェリスの行はない。だから丸はつかない。でもミナは、余白のページに、小さく一行、書き足した。

 ――嘘をやめる勇気の街。

 書き終えて、ミナは顔を上げて、ふいにぼくを見た。目が合って、どちらも、なぜだかすぐには逸らせなかった。数日前の、楽屋での肩の距離を、たぶん二人とも思い出していた。

「……ハル、なんか、最近」

「な、なに」

「ううん」ミナは、耳のあたりを赤くして、手帳に目を戻した。「なんでもない」

 ぼくも、なんでもないふりをして、窓の外を見た。心臓の音が、汽車の車輪の音より、うるさく聞こえた。

 夜になって、車窓の空に、緑の星がはっきりと見えた。尾は、もう肉眼でも長く尾を引いているのが分かる。あの光の下で、ぼくらはまだ、次の街へ向かっている。

 次に向かうのは、療養の街ソラ湯。世界の終わりよりずっと前から、終わりと向き合ってきた人たちが暮らす、山あいの湯治場だと聞いていた。

(第六章 了)

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