終わりに慣れた街
山道を三日かけて登ると、谷の底から白い湯気が幾筋も立ちのぼっているのが見えた。
療養の街ソラ湯。フェリスで聞いた通り、この街は湯治場だった。硫黄の匂いが風に混じり、木造の宿がいくつも斜面に肩を寄せ合うように建っている。通りを歩く人の多くは、ゆったりとした湯上がりの浴衣姿で、杖をついた人や、車椅子を押されている人の姿も、他の街よりずっと多かった。坂道のあちこちに、湯気を吸い込むための木製の樋が渡され、街全体が、ひとつの大きな療養施設のように、静かに機能していた。物売りの声も、ここでは他の街より控えめで、まるで、大声を出すことすら、療養の妨げになると分かっているみたいだった。
ここに来る道すがら、御者が教えてくれたことがある。ソラ湯は、彗星の発表より、ずっとずっと前からある湯治場なのだと。長患いの人、治る見込みのない病を抱えた人たちが、痛みを和らげるためにこの山へ登ってくる。彗星が発表される、そのずっと前から、この街の人たちは、自分の終わりと向き合いながら暮らしてきたのだった。
「変な感じ」ミナが言った。「他の街だと、終わりを知ったのは、みんなこの半年くらいのことでしょう。でもここは、違うんだよね」
その意味は、宿に着いてすぐ分かることになった。
ぼくらが世話になったのは、湯宿「山鳩」という小さな宿だった。主人のトキオさんは、還暦を過ぎたくらいの、物静かな人だった。薪運びと湯番を手伝う条件で、ぼくらは三日ほど泊めてもらえることになった。
「三日で十分かい」トキオさんは、荷物を置くぼくらに訊いた。「若いもんは、たいていもっと長く居たがるが」
「先を急ぐ旅なんです」ミナが手帳を軽く叩いて言った。「見たい景色に、日にちの決まりがあって」
「そうかい。……まあ、ここは、長く居ればいいってもんでもないさ。三日あれば、見えるもんは見える」
湯宿の廊下を通ると、いろんな部屋から、いろんな咳や、寝息や、時折の笑い声が聞こえてきた。この宿は、旅籠であると同時に、療養所でもあるのだった。
最初に目に留まったのは、廊下の奥の部屋にいる、老夫婦だった。
毎朝、判で押したように同じ時間、痩せた体つきの老爺が、車椅子に乗った妻を押して、共同湯へ向かう。老爺の名はダンさん、妻はハンナさんといった。ハンナさんは十年近く、治らない病を患っているのだと、トキオさんが教えてくれた。
「ダンさんは、もう八年、毎年欠かさずここへ通っとる。奥さんの湯治のためにな。……あの人らを見てると、儂は、彗星なんぞ、よそごとみたいに思えてくることがあるよ」
湯番の仕事のあいだ、ぼくは何度もダンさんとハンナさんを見かけた。ダンさんは湯加減を確かめ、タオルを絞り、妻の肩に湯をかけてやる。その手つきには、慣れというより、もっと深い何かが染みついていた。ハンナさんは、あまり多くを話さなかったけれど、ダンさんの手が触れるたび、静かに微笑んでいた。
ぼくは、その光景を撮っていいものか、しばらく迷った末に、湯殿の外から一枚だけ、遠目にシャッターを切った。二人の背中と、湯気だけが写った一枚だった。それでも、あの手つきの記憶は、写真よりずっと鮮明に、ぼくの中に残った。夕食どきになると、療養客たちが宿の広間に集まってくる。長い座卓を囲んで、杖を脇に置いた老人や、車椅子の脇に付き添う若い家族が、思い思いの席に座る。誰かが持ち込んだ古びた弦楽器で、聞いたことのない曲がぽつぽつと弾かれ、それに合わせて誰かが小さく歌う夜もあった。病を抱えた人たちの集まりというより、長い休暇を過ごす親戚の集まりのような、不思議な温かさがそこにはあった。
「ここでは、みんな、病気の話より、明日の天気の話をするんだよ」ある晩、隣に座った療養客のひとりが、ぼくらに教えてくれた。「終わりの話は、湯船の中だけでするのが、ここの流儀さ」
湯番の仕事は、朝の暗いうちから始まった。湯を沸かし、湯加減を確かめ、共同湯へ向かう療養客たちの下駄の音を聞きながら、ぼくは薪をくべ続けた。杖をつく人、車椅子を押される人、若い付き添いに支えられて歩く人。この街の朝は、他のどの街よりもゆっくりと流れていて、それでいて、どこか研ぎ澄まされているようにも感じられた。誰もが、自分の体の限界を知った上で、それでも今日という一日を、大事に運んでいるように見えた。
初日の午後、ぼくは薪割りの合間に、車椅子の老婦人と知り合った。名をセツさんといい、髪はほとんど白く、膝掛けの下の脚は、長年動いていないのだと、あとで聞いた。
「あんた、旅の子だね」セツさんは、日向ぼっこをしながら、ぼくに声をかけてきた。「その顔、見れば分かるよ。まだ、終わりってものに、ちゃんと慣れてない顔をしとる」
「……分かるものなんですか」
「そりゃそうさ。あたしはね、坊や、二十年前に医者から、あと一年、と言われた口だ」セツさんは、笑いながら言った。「二十年前の一年が、こうして今も続いとる。……あたしにとっちゃ、彗星の話も、正直、二番煎じでね。世界のほうが、ようやくあたしに追いついてきたか、って気分だよ」
その言い方に、ぼくは思わず笑ってしまった。セツさんも、声を立てて笑った。
「終わりってのはね、来る来ないの話じゃないんだよ。もう来てるのに、それでも今日を続けるかどうかの話さ。あたしは二十年、それを毎日やってきた。……あんたらの旅も、たぶん、似たようなもんだろう」
セツさんの言葉は、しばらくぼくの中に残り続けた。この街の人たちは、彗星が来るずっと前から、それぞれのやり方で、終わりと折り合いをつけてきたのだ。廊下の奥で見かけた、あの老夫婦の静かな並び方も、セツさんの笑い方も、同じひとつの答えの、違う形なんだと思った。
初日の夕方、トキオさんに頼まれて、ぼくとミナは薬湯の材料を買いに、街の市場まで下りた。ソラ湯の市場は、他の街とは少し違う品揃えだった。乾燥させた薬草の束、湯治用の塩、痛み止めの膏薬。売り子のおばさんたちは、客の顔色を見るなり、症状を言い当てるくらい、療養の心得に詳しかった。
「あんたたち、湯治じゃないね」市場のおばさんが、ぼくらを見て笑った。「顔色がいい。旅の子かい」
「はい」ミナが頷いた。「西の岬まで、行くところです」
「そうかい。……ここいらの連中は、みんな、終わりに向き合いながら生きてる年季が入ってる。あんたらは、まだこれからだろうけど、焦らなくていいよ。終わりと折り合いをつけるのは、慣れの問題だから」
薬草の包みを抱えて宿へ戻る道すがら、ミナがぽつりと言った。
「わたしたちも、いつか、あんな風に言えるようになるのかな。終わりに、慣れました、って」
「なりたいような、なりたくないような」ぼくは、正直に言った。「慣れたら、それはそれで、寂しい気もする」
「うん」ミナは小さく頷いた。「わたしも、そう思う」
夕暮れの坂道を、ぼくらは並んで歩いた。薬草の匂いが、風にほのかに混じっていた。
薪を運んでいたある日、ダンさんに声をかけられた。
「小僧、写真、撮っとったろう」ダンさんは、湯上がりの妻を待合に座らせながら、ぼくに言った。「怒っとらんよ。ただ、訊きたくてな。何を撮りたかったんだ、儂らの」
「……分からないです、うまくは。ただ、なんていうか、続いてるものを、撮りたいと思いました」
ダンさんは、しばらく黙って、それから頷いた。
「儂とハンナは、なんべんも、駄目になりかけた。病が長引くたび、儂も、心が折れかけた。……それでも、ここに来るのをやめなかったのは、大した覚悟があったからじゃない。ただ、来るのをやめる理由が、思いつかなかっただけだ」
「理由が、思いつかない、ですか」
「ああ」ダンさんは、妻の肩に薄い上着をかけながら言った。「愛しとるとか、そういう立派な言葉は、儂には難しくてな。ただ、明日も、あいつの隣に座っとる自分しか、想像がつかんかった。それだけのことだ。……小僧、あんたらもそのうち分かるよ。理由なんぞ、あとから付いてくるもんだ」
ぼくは、その言葉の意味を、うまく飲み込めないまま、頷くことしかできなかった。ただ、ダンさんの言葉は、その後もずっと、ぼくの中で小さな熾火のように残り続けた。
二日目の朝、宿の食堂で、ぼくらは別の客に気づいた。
まだ若い、二十代半ばくらいの女の人だった。旅装のまま、食事にも手をつけず、宿帳を睨むように見つめている。トキオさんが声をかけると、女の人は硬い声で言った。
「ソウという患者が、この宿に、まだいますか」
「エマさん、あんた……」トキオさんの声が、一瞬揺れた。「ソウさんの、娘さんかい」
「はい」
エマと名乗ったその人は、それ以上、多くを語らなかった。トキオさんは、少し考えてから、廊下の奥の一室を指した。三年前から長逗留している、老いた患者の部屋だった。
エマさんは、その部屋の前まで行って、そこで、足を止めてしまった。障子に手をかけたまま、開けることも、立ち去ることもできずに、何分もそこに立ち尽くしていた。
声をかけたのは、ミナだった。ぼくが止める間もなく、ミナは、廊下の反対側の縁側に腰かけて、エマさんに聞こえるくらいの声で、独り言のように言った。
「わたし、母を病気で亡くしたんです。彗星の発表より前に。……最後、ちゃんと話せないまま逝っちゃって。今でも、あのとき何を言えばよかったのか、分からないままなんです」
エマさんが、ゆっくりとこちらを振り向いた。
「だから、扉の前で迷ってる人を見ると、つい、声をかけたくなっちゃって」ミナは、少し照れたように笑った。「余計なお世話だったら、ごめんなさい」
エマさんは、しばらく黙っていた。それから、小さく首を振った。
「……余計なお世話じゃ、ない。ただ、怖いだけ。八年分の怖さを、この扉一枚の前で、全部思い出してる」
「怖くても、開けたほうがいいと思います」ミナは、静かに言った。「わたしは、開ける前に、母がいなくなっちゃったから。……開けられるうちに開けられるのは、それだけで、恵まれてることなんだと思う」
エマさんは、ミナの顔をじっと見て、それから、障子に向き直った。深く息を吸って、彼女は、扉を開けた。
しばらくして、廊下の向こうから、押し殺した声が聞こえてきた。ぼくは薪運びの途中で、聞くつもりもなく、聞いてしまった。
「今さら、何しに来た」
しゃがれた男の声だった。ソウさんの声だと、すぐに分かった。
「今さらだって分かってる」エマさんの声は、震えていた。「でも、来た。……新聞で、彗星の話を読んで、それで」
「彗星のついでか」
「違う」エマさんの声が、初めて大きくなった。「違うよ、お父さん。彗星のことがなくたって、いつかは来るつもりだった。ただ、きっかけが、要ったの。八年間、意地を張り続けてたから」
部屋の中は、それきり静かになった。ぼくは薪を抱えたまま、廊下に立ち尽くしていた。ミナが、いつの間にか隣に来ていた。
「聞こえた?」ぼくは小声で訊いた。
「うん」ミナは、部屋の閉じた障子を見つめて言った。「……八年前に、何があったんだろう」




