隣にいる、という長い返事
答えは、その夜、湯番の仕事のあとにトキオさんから聞くことになった。
「ソウさんはな、昔、腕のいい家具職人だった」トキオさんは、湯殿の掃除をしながら言った。「エマさんが嫁入りする段になって、大喧嘩をしたんだと。相手の男が気に食わなかったのか、何なのか、詳しいことは儂も知らん。ただ、エマさんは家を出て、それきり音信不通になった。ソウさんが病を得て、この宿に来るようになってからも、一度も便りをよこさんかった」
「じゃあ、なんで今」
「彗星さ」トキオさんは、モップを動かす手を止めずに言った。「終わりが決まったとたん、こういう客が、ぐっと増えたよ。何年も便りをよこさなかった息子や娘が、急に訪ねてくる。仲違いした親兄弟が、急に手紙をよこす。……世界が終わるってのはな、皮肉なもんで、こんな山奥の療養所にまで、和解ってやつを運んでくるのさ」
二日目の夜、ぼくとミナは、共同湯のそばの縁側で涼んでいた。少し離れたところに、ダンさんとハンナさんの姿があった。ダンさんが妻の膝に薄い毛布をかけて、二人並んで、無言で夜空を見上げている。何を話すでもなく、ただ隣にいるだけの時間が、そこにはあった。
「今日、ダンさんと話したんだ」ぼくは、ダンさんに言われた言葉のことを、かいつまんでミナに話した。「理由なんて、あとから付いてくるものだ、って」
「なんか、分かる気がする」ミナは、膝を抱えて言った。「わたしたちも、旅を始めたときは、ただ、行かなきゃって思っただけだったよね。理由とか、あとになってから、いろいろ増えていった感じがする」
「増えた?」
「うん。……最初は、母さんの代わりに丸をつけるためだけだったのに、今は、街のみんなに会うのが、それ自体、目的になってる。ハルの写真も、最初は、誰かに見せるためじゃなかったのに、今は、なんか、違う気がする」
ぼくは、その通りだと思った。旅の理由は、街をひとつ巡るたびに、静かに姿を変えていた。
「あんな風になれるのかな、私たち」ミナがぽつりと言った。
「え」
「ううん、変な意味じゃなくて」ミナは、少し慌てたように付け加えた。「あの二人、たぶん、若い頃からずっと一緒にいて、いろんなことがあって、それで、あの静かな感じになったんだと思うの。……時間がかかるものなんだろうなって、思っただけ」
ぼくは、何と返せばいいのか分からなくて、しばらく黙っていた。心臓が、また少し速くなっていた。
「時間、あるかな、私たちに」ミナが、夜空を見上げたまま、独り言のように続けた。
答える代わりに、ぼくはミナの手のすぐ横に、自分の手を置いた。触れるか触れないか、それくらいの距離だった。ミナは何も言わなかったけれど、その手を、少しだけこちらへ動かした。指先が、かすかに触れた。ぼくらは、それ以上何も言わずに、ダンさんとハンナさんの背中越しに、緑の星を見上げていた。ヴェルデは、もう尾の輪郭まではっきりと分かるくらい、育っていた。
事件が起きたのは、三日目の朝だった。
湯番の仕事で井戸端にいたぼくの耳に、悲鳴のような声が届いた。声のするほうへ走ると、共同湯の脱衣所の前で、ダンさんが震える声で誰かを呼んでいた。
「ハンナ! おい、ハンナ、しっかりしろ!」
ハンナさんが、脱衣所の板の間に倒れていた。顔は青白く、唇の色が悪い。ダンさんは老いた手で妻の体を支えながら、助けを呼び続けていた。その手は、いつも湯をかけてやっていたときと同じ手なのに、今はどうしようもなく震えていた。
「先生を! 誰か、お医者様を!」
ぼくは反射的に走り出していた。宿の医者は、村はずれの往診に出ていて、すぐには戻らない。石段だらけの坂道を、ぼくは息が上がるのもかまわず駆け下りた。すれ違う療養客たちが、何ごとかとぼくを見送った。硫黄の匂いのする風を切って走りながら、ぼくの頭にあったのは、ソネルの海で嵐の中に船を出したときと、同じ感覚だった。間に合うか間に合わないか、考える暇なんてなかった。ただ、足を止めるという選択肢だけが、なかった。
村はずれの家で医者を見つけ、事情を話すと、老医者はすぐに往診鞄をつかんで、ぼくと一緒に坂を駆け上ってくれた。ミナは宿に残って、トキオさんと一緒にハンナさんの体を温め、意識を保たせようと声をかけ続けていたと、あとで聞いた。
医者を連れて戻ったとき、廊下には、エマさんの姿もあった。異変を聞きつけて、部屋から飛び出してきたのだろう。エマさんは、ソウさんの手を借りて、慣れない手つきで水を運んでいた。八年の断絶があったとは思えないほど、迷いのない動きだった。
「発作だ」診察を終えた医者が言った。「持病のものだよ。峠を越えられんほどじゃないが、今日は、安静にしないと」
ハンナさんの意識が戻ったのは、昼過ぎだった。布団に横たわったまま、ハンナさんは弱々しく笑って、心配そうに顔を覗き込むダンさんの手を、握り返した。医者が脈を確かめ、大丈夫だろうと言うと、ダンさんは、その場にへたり込みそうになって、慌てて柱に手をついた。八年分の気丈さが、その瞬間だけ、すっかり抜け落ちたような姿だった。
「あんたが、そんな怖い顔するから」ハンナさんは、掠れた声で言った。「あたしのほうが、驚いたよ」
「怖い顔もするさ」ダンさんは、妻の手を両手で包んで言った。「お前がおらんようになったら、儂は、ここに来る理由がなくなる」
その一言に、部屋の隅で見守っていたエマさんが、小さく息を呑んだのが分かった。彼女は、しばらく黙って、それから、父の部屋がある方角を見て、何かを決めたような顔をした。
その晩、ソウさんの部屋の障子越しに、話し声がした。今度は、争う声ではなかった。低く、途切れ途切れの、それでも穏やかな声だった。ぼくは聞き耳を立てたりはしなかったけれど、廊下を通りかかったとき、途切れ途切れの言葉が、少しだけ聞こえた。
「儂も、意地を張った」ソウさんの、しゃがれた声だった。「お前の相手が気に食わんかったんじゃない。お前が、儂の知らんところへ、行ってしまう気がして、それが怖かっただけだ。……年寄りの、しょうもない怖さだよ」
それから、エマさんの笑い声を、確かに聞いた。八年ぶんの声だとしたら、ずいぶん軽い笑い方だった。
翌朝、井戸端で顔を合わせたエマさんは、目の下に隈を作りながらも、どこか憑き物が落ちたような顔をしていた。
「昨日は、ありがとう」エマさんは、ミナに向かって、小さく頭を下げた。「あの一言がなかったら、あたし、たぶん扉を開けられずに、逃げて帰ってた」
「わたしは、ただ、自分が言われたかったことを言っただけです」ミナは、少し照れたように言った。「お父さんとは、話せましたか」
「まだ、全部は。……八年分は、一晩じゃ埋まらないよ」エマさんは、苦笑した。「でも、続きを話す時間は、作ることにした。世界が終わるまでか、父が終わるまでか、どっちが先かは分からないけどね」
翌朝、ぼくらは山鳩を発つことになっていた。荷物をまとめていると、トキオさんが見送りに来てくれた。
「エマさん、しばらくここにいるそうだ」トキオさんは言った。「ソウさんの傍で、看病するとさ。……仲直りできたかどうかは、儂には分からんが、少なくとも、隣にはおる。それだけでも、大したもんだよ」
駅までの道すがら、ダンさんとハンナさんが、宿の前まで見送りに出てきてくれた。ハンナさんは車椅子の上から、ぼくらに小さな包みを差し出した。開くと、干した薬草を編んで作った、小さな匂い袋だった。
「旅の道中、疲れたときに、匂いを嗅ぐといいよ」ハンナさんは言った。「ここの湯の匂いが、少しするから」
「ありがとうございます」ミナは、匂い袋を大事そうに受け取った。「あの、ダンさんとハンナさんは、いつからご一緒なんですか」
「四十二年」ダンさんが、間を置かずに答えた。「長いようで、短かったよ」
その即答ぶりに、ミナが小さく笑った。ぼくも、なんだか胸のあたりが温かくなるのを感じた。
出発前の晩、ぼくは宿の暗い納戸を借りて、湯殿で撮った一枚を現像した。薬品の中に紙を沈めると、ゆっくりと、湯気に包まれたダンさんとハンナさんの背中が浮かび上がってきた。ピントは、正直、完璧ではなかった。それでも、二人の並んだ肩の傾きだけは、はっきりと写っていた。四十二年という即答の重みが、その傾きの中に、確かに写り込んでいる気がした。ぼくは、その一枚を、他のどの写真よりも、そっとカメラケースの奥にしまった。
駅の待合の縁側には、セツさんも、車椅子で見送りに出てきてくれていた。
「坊や」セツさんは、ぼくを手招きした。「終わりに慣れてない顔、まだ少し残っとるね。でも、初日よりはましだ」
「そう、ですかね」
「そうだよ。……ほら、これ」
セツさんは、膝掛けの下から、小さな押し花のしおりを取り出して、ぼくに渡した。この街に咲く、山あいの小さな白い花を、ガラス板に挟んで作ったものだった。
「あたしがまだ歩けた頃に、摘んで作ったもんだ。二十年、部屋に飾ってた。……あんたの旅の記録に、挟んでおくといい。終わりの手前で、ちゃんと綺麗だったもんの証拠に」
ぼくは、しおりを受け取って、うまく礼が言えないまま、何度も頭を下げた。
汽車が動き出す。湯気の立つ谷が、少しずつ遠ざかっていく。向かいの席で、ミナは手帳を開いた。ソラ湯は、母さんの手帳にはない街だ。だから丸はつかない。でもミナは、余白のページに、一行、書き足した。
――隣にいる、という長い返事の街。
「ダンさんの、四十二年、っていう即答が、なんか忘れられなくて」ミナは、書き終えた行を指でなぞりながら言った。「わたしたちも、いつか、そんな風に即答できる何かが、できるのかな」
「……できると、思う」ぼくは、窓の外を見たまま、なんとか声を絞り出した。「時間は、あるかどうか分からないけど。でも、できると思う」
ミナは、それ以上何も言わずに、少しだけ微笑んで、匂い袋を鼻に近づけた。硫黄と、薬草の匂いがした。
ぼくは、旅に出てから出会った人たちのことを、順番に思い出していた。噓の大漁を信じたレンとユナ。送り火を流したセリ。種を蒔き続けたバルドさん。九九を覚えたリゼ。噓をやめたマーゴとユーリ。そして、理由なんてあとから付いてくると言ったダンさんと、二十年を「今日」として生き続けたセツさん。誰ひとりとして、終わりを恐れながらも、目の前の今日を手放さなかった。ぼくらの旅は、たぶん、そういう人たちの隣に、少しずつ座らせてもらう旅なんだと思った。
夜になって、車窓の空に、緑の星が長い尾を引いていた。次に向かうのは、峠向こうのスノウ峠という小さな村だと、行商人が教えてくれた。冬の入り口にあるその村を越えれば、いよいよ、母さんの手帳の四行目、ふたつの月が並んで沈む岬まで、あと少しだという。
(第七章 了)




