案内なくして峠を越えるな
ソラ湯を出て二日、道はだんだんと白くなっていった。
最初は道端に残る雪だまりだったのが、峠に近づくにつれ、木々の枝という枝に雪が積もり、息が白く曇るようになった。乗合馬車の御者が、毛布を余分に貸してくれながら言った。
「この先がスノウ峠だ。峠を越えにゃ、西の岬へは行けん。……もっとも、越えるには、案内がいるがね」
スノウ峠は、切り立った山あいに、身を寄せ合うように建つ小さな村だった。家々の屋根は雪の重みでこんもりと丸く、軒先には氷柱が何本も下がっている。通りには、踏み固められた雪道が一本、村の中心を貫いていて、その両脇に、薪を積んだ軒先や、湯気の立つ煙突が並んでいた。村の入り口には、木の看板が立っていて、そこにはただ一言、こう彫られていた。
――案内なくして、峠を越えるな。
その意味は、宿に着いてすぐに分かった。
ぼくらが泊めてもらったのは、村でただ一軒の宿「峠の宿」だった。女将のノブさんは、恰幅のいい、よく通る声の人だった。
「西の岬に行くんだろう? なら、峠を越えなきゃならないが、今すぐには無理だね」ノブさんは、竈に薪をくべながら言った。「明後日から、風向きが変わって荒れる。それが過ぎるまで、案内人は誰も、旅人を峠に出さないよ」
「金を取らない案内、ですか」ミナが訊いた。
「そう。この村の男衆は、代々、峠の案内をしてきたのさ。金は取らない。それが、この村の掟だ」
村を歩くと、その掟の意味が、あちこちに見て取れた。家々の軒先には、峠道の地図を彫った木札が下がっていて、これは案内人の家系だという印なのだとノブさんが教えてくれた。子どもたちは、雪合戦の合間に、木の枝で地面に峠道の分岐を描いて遊んでいた。案内という仕事が、商売である以前に、村の暮らしそのものに編み込まれているのが、よそ者のぼくにも伝わってきた。
「案内人には、なりたくてなる者もおれば、生まれた家のせいで、なるしかない者もおる」ノブさんは、少し声を落として続けた。「若い衆の中には、都会に憧れて出ていく者もおるよ。それでも、峠を渡り切る技だけは、この村でしか受け継がれん」
金を取らない案内、という言葉に、ぼくは引っかかりを覚えた。理由を教えてくれたのは、宿の食堂で顔を合わせた、老いた案内人だった。
バンジさんという人だった。白い髭を蓄え、片方の足を少し引きずって歩く、七十近い男の人だった。
「儂らの村はな、昔から、儂らにしかできん仕事をやってきたんだ」バンジさんは、ぼくらの向かいに座って言った。「峠道は、地元の者でなけりゃ、読めん。雪の下に隠れた崖、雪崩の起きやすい斜面、風の抜け道。……儂らが案内せにゃ、旅人は峠で死ぬ。金を取らんのは、それが商売じゃなくて、村の仕事だからだ」
「彗星が発表されてから、旅人は増えましたか」ぼくは訊いた。
「増えた。ぐっとな」バンジさんは、少し笑って続けた。「離れて暮らす家族に会いに行く者、行きたかった場所へ向かう者。……儂は、正直に言うとな、小僧。彗星の話を聞いたとき、自分はもう用なしだと思ったんだ。峠の案内なんぞ、世界が終わるってときに、誰が要る、とな。だが、逆だったよ。今ほど、儂らが要られてる時期は、ここ何十年もなかった」
バンジさんの目には、悲壮さより、むしろ静かな誇りのようなものが浮かんでいた。
食堂の隅で、ひとり黙って食事をしている若い男がいた。二十歳そこそこに見える、痩せた体つきの人だった。バンジさんの話を聞いているのかいないのか、ずっと俯いたまま、ほとんど手をつけていない皿を見つめていた。
「あれは、ジンだ」バンジさんは、声を落として言った。「儂の甥っ子でな。……あれの父親、儂の弟は、去年の冬、峠で死んだ。案内の最中に、雪崩に遭ってな」
「案内、中に」
「ああ。旅人は無事だった。弟が、旅人を庇って、自分が呑まれた」バンジさんは、白い髭を撫でながら、静かに言った。「それからジンは、峠に出ておらん。案内人の家系に生まれて、腕は儂よりよかったのに、な」
ジンさんは、ぼくらの視線に気づいたのか、皿を持って、逃げるように食堂を出ていった。
案内が出せるようになるまでの数日、ぼくとミナは、宿の手伝いをすることになった。薪割り、雪かき、湯たんぽの用意。村の暮らしは、他のどの街よりも、雪と正面から向き合う暮らしだった。
合間を縫って、ぼくはカメラを構えた。雪かきをする村の男衆の背中。軒先に下がる氷柱越しの朝日。木の枝で峠道を描いて遊ぶ子どもたち。どの一枚にも、雪という厳しさと、それに慣れた人々の穏やかさが、同時に写り込んでいる気がした。
その子どもたちに、ある日、雪合戦に誘われた。最初は遠慮していたミナも、小さな女の子に手を引かれて、いつの間にか本気になっていた。ぼくは、逃げ惑うミナに向かって放った雪玉が、見事に外れて、逆にミナの投げた雪玉が顔面に命中するという、情けない結果に終わった。雪まみれになって笑うミナを、ぼくはカメラに収めた。旅の記録の中で、いちばん屈託のない一枚になった。
「ハル、弱すぎ」ミナは、雪を払いながら、涙が出るほど笑っていた。
「わざとだよ」ぼくは、負け惜しみを言った。「ミナを喜ばせるための、高等戦術」
「絶対嘘」
子どもたちも、腹を抱えて笑っていた。この村に来てから、初めて聞いた、屈託のない笑い声だった。
二日目の朝、ぼくは雪かきの合間に、村はずれで、雪に埋もれかけた木の道標を直しているバンジさんを見かけた。案内板には、峠道の分岐と、危険な箇所を示す印が刻まれている。ひとつひとつの印は、素人目にも、長い年月をかけて彫り足されてきたものだと分かった。
「これも、ジンの父親が彫ったもんだ」バンジさんは、雪を払いながら言った。「あれの家系は、代々、峠の地図を、頭の中と、こういう道標に刻んできた。……儂も、そろそろ、この足じゃ長く峠には出られん。次の代に渡さにゃならんのだが」
「ジンさんは、もう案内をしないんですか」
「本人に訊いてみりゃいい」バンジさんは、少し寂しそうに笑った。「儂が言っても、聞きゃせんだろうからな」
ぼくは、道標に刻まれた無数の印を、指でなぞってみた。ひとつひとつが、誰かの命を守るために刻まれた印なのだと思うと、その木片の重みが、急に違って感じられた。
その日の午後、ぼくは薪運びの途中、村はずれの作業小屋で、ひとり黙々とロープを編んでいるジンさんを見つけた。声をかけるのを一瞬迷ったけれど、思い切って近づいた。
「手伝います」
ジンさんは、驚いた顔でぼくを見て、それから何も言わずに、編みかけのロープを少しだけこちらへ押しやった。ぼくは見よう見まねで、不器用にロープを編み始めた。
「……下手だな」ジンさんが、初めて口を開いた。
「すみません」
「謝ることじゃない」ジンさんは、手元に視線を戻して言った。「誰だって、最初は下手だ」
それだけ言うと、ジンさんはまた黙り込んだ。でも、その沈黙は、最初に感じたよそよそしさとは、少し違うものになっていた。
しばらく手を動かしたあと、ぼくは思い切って訊いてみた。
「バンジさんから、少しだけ聞きました。お父さんのこと」
ジンさんの手が、一瞬止まった。
「……そうか」
「嫌なら、もう訊きません」
「いや」ジンさんは、ロープを結ぶ手を再び動かしながら言った。「俺の父さんはな、ロープの結び方より先に、俺に、峠の風の読み方を教えた。目より先に、耳と肌で峠を読め、と。……皮肉なもんだよ。その通りにやってたはずなのに、あの日だけ、読み損ねたんだから」
「読み損ねたんじゃなくて、たまたま、悪いことが重なったんじゃないですか」
「そうかもしれん」ジンさんは、小さく息を吐いた。「そうかもしれんが、俺は、父さんの代わりに、あの日、峠に出るはずだった。急な熱を出して、代わってもらったんだ。……だから、ずっと思っとる。俺が出ておれば、とな」
ぼくは、その一言の重さに、何も返せなかった。ジンさんは、それ以上何も語らずに、ロープを編む手を、黙々と動かし続けた。
事件が起きたのは、三日目の昼だった。
その朝は、風もなく、よく晴れていた。ノブさんに頼まれて、ぼくとミナは、村はずれの炭焼き小屋まで、薪の受け取りに出かけることになった。峠の入り口からほんの少し外れた、案内なしでも行き来できるとされている道だった。
「すぐそこだから、大丈夫」ノブさんは、そう言って送り出してくれた。
炭焼き小屋への道は、確かに平坦で、危なげのない道に見えた。受け取りを終えて、薪の束を背負い、宿へ戻ろうとしたとき、山の空気が、急に変わった。
「風が、変な音してる」ミナが、空を見上げて言った。
「気のせいだよ、たぶん」ぼくは、そう言いながらも、風の音に、確かに違和感を覚えていた。
風が唸り始めたかと思うと、あっという間に、視界が白く塗りつぶされた。雪が横殴りに吹きつけ、数メートル先の木すら見えなくなった。
「ハル、道が……」
ミナの声が、風に半分ちぎれて聞こえた。ぼくは、それまで確かにあったはずの足跡が、もう完全に消えているのに気づいた。方角の見当がつかない。ソネルの海で見た嵐とはまた違う、音のない、白い恐怖だった。
「こっちだ、たぶん」ぼくは、確信もないまま、ミナの手を強く握った。「はぐれるな」
ぼくらは、風の弱い方角を選んで、雪の中を進んだ。何度か、足を滑らせて転びかけた。そのたびに、ぼくはミナの体を引き寄せ、風上に自分の背中を向けた。薄い上着一枚のミナが、少しでも風を浴びないように。
「寒くない?」
「大丈夫」ミナの声は震えていた。「ハルの方が、寒そう」
それは、たぶん本当だった。ぼくは風上に立ち続けて、体の芯まで冷えきっていた。それでも、ミナを風下に置くことだけは、譲れない気がした。
やがて、大きな岩陰を見つけて、ぼくらはそこに身を寄せた。ぼくは薪の束を風よけに積み上げ、ミナの体を、自分の腕で覆うようにして囲った。触れ合う体温だけが、その白い世界の中で、確かなものだった。
「ごめんね」ミナが、震える声で言った。「わたしのせいで」
「ミナのせいじゃない」ぼくは、できるだけ落ち着いた声を出そうとした。「誰にも、こんな風になるなんて、分からなかった」
ぼくらは、岩陰で身を寄せ合ったまま、どれくらいの時間が経ったか分からなかった。ミナの吐く息が、ぼくの首筋にかかるくらいの距離だった。恐怖と、寒さと、それから、うまく言葉にできない別の何かで、ぼくの心臓は痛いくらいに鳴っていた。
「見つけてもらえるかな」ミナが、ぼくの肩に額をつけて言った。
「絶対、来る」ぼくは、根拠もなく言い切った。「ジンさんが、絶対に見つけてくれる」
自分でも、なぜジンさんの名前が出たのか分からなかった。ただ、そう信じたかった。
「ハル」ミナが、震える声で、それでも、はっきりと言った。「もし、このまま見つからなかったら、言っておきたいことがあるんだけど」
「言うなよ、そういうこと」ぼくは、思わず強い声を出した。「見つかってから言えばいい」
「……うん」ミナは、小さく笑ったようだった。「じゃあ、見つかってから」
ぼくは、ミナの体を、もう一度、強く抱き寄せた。何を言おうとしていたのか、訊く勇気は、まだなかった。ただ、この腕の中の温もりを、絶対に失いたくないと、初めてはっきりと思った。




