行けた
村では、ぼくらの帰りが遅いことに気づいたノブさんが、宿中に声をかけて回っていた。
「炭焼き小屋に、まだ子どもらが向かってる! 誰か、様子を見に――」
「儂が行く」バンジさんが、杖代わりの雪杖を手に、戸口へ向かった。
「爺さん、その足で、この吹雪の中は無理だ」ノブさんが止めた。「他の案内衆は、みんな今日は峠の見回りで留守だよ」
バンジさんが、それでも戸口に向かおうとしたとき、作業小屋の方から、ジンさんが飛び出してきた。ロープと、雪深を確かめる長い杖を手にしていた。
「俺が行く」ジンさんは、短く言った。
「お前……」バンジさんが、驚いた顔で振り向いた。
「あの二人、今朝、炭焼き小屋に行くって聞いた」ジンさんの声は、震えていたけれど、止まらなかった。「あの道の先に、涸れ沢がある。吹雪だと、沢と道の境目が分からなくなる。……父さんが、俺に、何度も教えてくれた場所だ」
ジンさんは、それだけ言うと、迷いのない足取りで、白い嵐の中へ歩き出した。
ぼくとミナが、岩陰でどれくらい耐えていた頃だろう。白い視界の向こうに、揺れる灯りが見えた。
「――ハル! ミナ!」
声のする方へ、ぼくは残った力を振り絞って叫び返した。
「ここです! ここにいます!」
現れたのは、ジンさんだった。頬を凍らせながら、迷いのない足取りで岩陰までたどり着くと、ぼくらの無事を確かめて、初めて詰めていた息を吐いた。
「よかった……」ジンさんの声は、掠れていた。「この先、涸れ沢がある。あそこに落ちたら、見つけるのに、もっと時間が――」
ジンさんは、そこまで言って、言葉を呑んだ。父親の記憶が、その一瞬、ジンさんの顔をよぎったのが分かった。
ジンさんは、ロープでぼくらの体を結び、自分を先頭に、風の弱い道筋を選びながら、ぼくらを導いた。迷いのない歩き方だった。腕は儂よりよかった、というバンジさんの言葉が、嘘ではなかったと分かる歩き方だった。
村に戻り着いたとき、ノブさんとバンジさんが、灯りを持って戸口で待っていた。ジンさんの姿を見つけると、バンジさんは、何も言わずに、ただ、甥の肩を強く叩いた。ジンさんは、その手の下で、崩れるように膝をついた。
「……行けた」ジンさんは、雪に片膝をついたまま、絞り出すように言った。「俺も、まだ、行けた」
その一言に、バンジさんの目に光るものがあった。ノブさんも、何も言わずに、ジンさんの背中に毛布をかけた。
その晩、ノブさんが、いつもより少しだけ豪華な夕食を用意してくれた。塩漬け肉の煮込みと、雪の下で育てた甘い根菜のスープ。バンジさんも、杯を片手に、静かに卓を囲んだ。
「儂は、もう長くはこの足で峠に出られん」バンジさんは、ぽつりと言った。「だが、これで、心置きなく引退できる」
ぼくは、温かいスープを飲みながら、隣の卓に座るジンさんを見ていた。ジンさんは、まだ体を震わせていたけれど、その震えは、寒さのためだけではないように見えた。
「訊いてもいいですか」ぼくは、思い切って声をかけた。「どうして、来てくれたんですか」
ジンさんは、しばらく黙っていた。それから、スープの湯気を見つめたまま、ぽつりぽつりと話し始めた。
「父さんが死んでから、俺は、峠に出るのが怖かった」ジンさんは言った。「誰かを庇って、自分が死ぬのが怖いんじゃない。……誰かを、庇いきれずに、死なせるのが、怖かったんだ」
ジンさんは、スープの椀を両手で包んだ。
「今日、あんたらが行方知れずだと聞いたとき、体が動かんかった。父さんの顔が、頭に浮かんで。……でも、ノブさんが、爺さんが杖であの吹雪に出ようとするのを見て、俺は、これ以上、誰かに俺の代わりをさせちゃいけないと思った。それだけだ。かっこいい理由なんて、ない」
「かっこいいと思います」ミナが言った。「怖いのに、動けたんだから」
「怖いのは、今も怖い」ジンさんは、初めて小さく笑った。「でも、今日、分かった。俺は、案内をやめたんじゃなかった。ただ、怖くて、逃げてただけだ。……ずっと、それを認めるのが、いちばん怖かったのかもしれん」
バンジさんが、その会話を、少し離れた席で、黙って聞いていた。目が合うと、バンジさんは、静かに頷いた。何かを託すような頷き方だった。
その報せは、あっという間に村中に広まった。翌朝、宿の前には、他の案内人たちや、近所の人たちが、代わる代わる顔を出した。誰も大げさなことは言わなかった。ただ、通りすがりに肩を叩いたり、「よかったな」とだけ声をかけたりして、去っていった。ジンさんは、居心地悪そうにしながらも、その一つひとつに、小さく頭を下げていた。この村の祝福の仕方は、そういう静かなものらしかった。
「これが、この村の流儀なんですね」ぼくが言うと、ノブさんは笑った。
「そうさ。派手に祝うのは、都会の流儀だろう。ここいらじゃ、肩を叩いて、飯を食わせるのが、精一杯の祝い方さ。……それで十分、伝わるもんだよ」
風が収まるまで、さらに二日かかった。峠は再び開いた。
ぼくらの峠越えは、ジンさんが案内してくれることになった。バンジさんの足では、長い峠道はもう厳しいという判断もあったし、何より、村の人たちの誰もが、それを望んでいるようだった。
「一年ぶりの本番だ」出発の朝、ジンさんはロープと杖を背負いながら、少し緊張した声で言った。「下手だったら、悪い」
「大丈夫」ぼくは笑って言った。「ロープの編み方、教えてもらった腕ですから」
宿の前まで、バンジさんが杖をつきながら見送りに来てくれた。
「小僧」バンジさんは、ぼくの肩を軽く叩いた。「あんたらが来る前と、来たあとで、この村は少し変わったよ。……儂は、それを、あんたらの写真の中の、この村の姿として、覚えといてほしい」
「必ず」ぼくは、カメラを軽く叩いて答えた。
バンジさんは、それから、隣に立つジンさんの肩にも、同じように手を置いた。何も言わなかったけれど、ジンさんは、その手の重みを、しっかりと受け止めているようだった。
峠道は、思っていたよりずっと険しかった。切り立った崖沿いの道、雪の重みでしなる木の枝、風の抜け道でひときわ強くなる突風。ジンさんは、その一つひとつを、まるで体に刻み込まれた地図をなぞるように、迷いなく越えていった。父親が遺した道標の意味を、ジンさんは、体で覚えていた。
峠の頂で、ジンさんは足を止めて、後ろを振り返った。
「見てみろ」
振り返ると、ぼくらが越えてきた白い峰々と、その向こうに、うっすらと、海の気配のする青い霞が見えた。西の岬は、まだ遠いけれど、確かにその方角にあった。
「父さんは、いつも、頂で一度、後ろを振り返らせた」ジンさんは、白い息を吐きながら言った。「越えてきた道を見ておけ、とな。……先ばかり見てると、自分がどれだけ歩いたか、忘れちまうから」
ぼくは、その言葉を、静かに胸の中で繰り返した。ソネルの海から、この峠まで。ぼくらが振り返るべき道のりは、もう、ずいぶん長くなっていた。
ぼくは、カメラを構えて、その景色と、それを見つめるジンさんの横顔を一枚に収めた。ロープの結び方も、雪の読み方も、まだ全部は分からない。でも、この一枚には、ちゃんと「行けた」人の顔が写っていると思った。
峠を下りきったところで、ジンさんとはお別れだった。
「世話になりました」ぼくは、頭を下げた。
「俺の方こそだ」ジンさんは、はにかむように笑った。「あんたらのおかげで、俺は、峠に戻れた。……父さんの道標に、恥じない案内になったかどうかは、分からんが」
「なってました」ミナが、迷いなく言った。「絶対に」
ジンさんは、何も言わずに、少しだけ目を伏せた。それから、懐から小さなものを取り出して、ぼくらに差し出した。木を削って作った、小さな道標の形をしたお守りだった。
「父さんが、最初に俺に彫ってくれたのと、同じ形だ。……道に迷ったら、これを握って、進む方角を、自分で決めろ」
ミナは、それを手帳の紐に結んだ。緑の硝子星の隣に、木彫りの小さな道標が並んだ。
汽車が動き出す。白い峰々が、少しずつ遠ざかっていく。ミナは手帳を開いて、余白のページに、一行、書き足した。
――怖さを認めるところから始まる道の街。
「岬まで、もうすぐだね」ミナが、手帳を閉じながら言った。
「うん」ぼくは頷いた。「もうすぐ」
ぼくは、吹雪の岩陰でミナが言いかけた言葉のことを、ずっと考えていた。「言っておきたいことがあるんだけど」――あの続きを、ミナはまだ、言っていない。訊こうとして、何度か口を開きかけて、そのたびに、うまく言葉が出てこなかった。
「ミナ」
「なに」
「……ううん、なんでもない」
ミナは、少し不思議そうな顔をして、それから、窓の外に視線を戻した。ぼくも、同じように窓の外を見た。二人とも、あの日の続きを、たぶん、同じ場所に置いたままにしていた。岬まで着いたら、そのときは、ちゃんと訊こうと、ぼくは思った。
ジンさんの「怖いのは、今も怖い」という言葉を、ぼくは何度も思い返していた。怖さは、消えるものじゃないのかもしれない。ただ、怖さを抱えたまま、それでも一歩を踏み出せるかどうか。峠を越えたジンさんも、あの岩陰でぼくの腕の中にいたミナも、たぶん、同じことをやっていたんだと思う。
窓の外、夕暮れの空に、緑の星が長い尾を引いていた。ヴェルデは、もう見紛いようもなく育っていた。あの光の下で、ぼくらは、母さんの手帳の四行目、ふたつの月が並んで沈む岬まで、あと少しのところまで来ていた。
(第八章 了)




