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世界の終わりに  作者: すみっこSE
第八章 峠の村スノウ峠

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行けた

 村では、ぼくらの帰りが遅いことに気づいたノブさんが、宿中に声をかけて回っていた。

「炭焼き小屋に、まだ子どもらが向かってる! 誰か、様子を見に――」

「儂が行く」バンジさんが、杖代わりの雪杖を手に、戸口へ向かった。

「爺さん、その足で、この吹雪の中は無理だ」ノブさんが止めた。「他の案内衆は、みんな今日は峠の見回りで留守だよ」

 バンジさんが、それでも戸口に向かおうとしたとき、作業小屋の方から、ジンさんが飛び出してきた。ロープと、雪深を確かめる長い杖を手にしていた。

「俺が行く」ジンさんは、短く言った。

「お前……」バンジさんが、驚いた顔で振り向いた。

「あの二人、今朝、炭焼き小屋に行くって聞いた」ジンさんの声は、震えていたけれど、止まらなかった。「あの道の先に、涸れ沢がある。吹雪だと、沢と道の境目が分からなくなる。……父さんが、俺に、何度も教えてくれた場所だ」

 ジンさんは、それだけ言うと、迷いのない足取りで、白い嵐の中へ歩き出した。

 ぼくとミナが、岩陰でどれくらい耐えていた頃だろう。白い視界の向こうに、揺れる灯りが見えた。

「――ハル! ミナ!」

 声のする方へ、ぼくは残った力を振り絞って叫び返した。

「ここです! ここにいます!」

 現れたのは、ジンさんだった。頬を凍らせながら、迷いのない足取りで岩陰までたどり着くと、ぼくらの無事を確かめて、初めて詰めていた息を吐いた。

「よかった……」ジンさんの声は、掠れていた。「この先、涸れ沢がある。あそこに落ちたら、見つけるのに、もっと時間が――」

 ジンさんは、そこまで言って、言葉を呑んだ。父親の記憶が、その一瞬、ジンさんの顔をよぎったのが分かった。

 ジンさんは、ロープでぼくらの体を結び、自分を先頭に、風の弱い道筋を選びながら、ぼくらを導いた。迷いのない歩き方だった。腕は儂よりよかった、というバンジさんの言葉が、嘘ではなかったと分かる歩き方だった。

 村に戻り着いたとき、ノブさんとバンジさんが、灯りを持って戸口で待っていた。ジンさんの姿を見つけると、バンジさんは、何も言わずに、ただ、甥の肩を強く叩いた。ジンさんは、その手の下で、崩れるように膝をついた。

「……行けた」ジンさんは、雪に片膝をついたまま、絞り出すように言った。「俺も、まだ、行けた」

 その一言に、バンジさんの目に光るものがあった。ノブさんも、何も言わずに、ジンさんの背中に毛布をかけた。

 その晩、ノブさんが、いつもより少しだけ豪華な夕食を用意してくれた。塩漬け肉の煮込みと、雪の下で育てた甘い根菜のスープ。バンジさんも、杯を片手に、静かに卓を囲んだ。

「儂は、もう長くはこの足で峠に出られん」バンジさんは、ぽつりと言った。「だが、これで、心置きなく引退できる」

 ぼくは、温かいスープを飲みながら、隣の卓に座るジンさんを見ていた。ジンさんは、まだ体を震わせていたけれど、その震えは、寒さのためだけではないように見えた。

「訊いてもいいですか」ぼくは、思い切って声をかけた。「どうして、来てくれたんですか」

 ジンさんは、しばらく黙っていた。それから、スープの湯気を見つめたまま、ぽつりぽつりと話し始めた。

「父さんが死んでから、俺は、峠に出るのが怖かった」ジンさんは言った。「誰かを庇って、自分が死ぬのが怖いんじゃない。……誰かを、庇いきれずに、死なせるのが、怖かったんだ」

 ジンさんは、スープの椀を両手で包んだ。

「今日、あんたらが行方知れずだと聞いたとき、体が動かんかった。父さんの顔が、頭に浮かんで。……でも、ノブさんが、爺さんが杖であの吹雪に出ようとするのを見て、俺は、これ以上、誰かに俺の代わりをさせちゃいけないと思った。それだけだ。かっこいい理由なんて、ない」

「かっこいいと思います」ミナが言った。「怖いのに、動けたんだから」

「怖いのは、今も怖い」ジンさんは、初めて小さく笑った。「でも、今日、分かった。俺は、案内をやめたんじゃなかった。ただ、怖くて、逃げてただけだ。……ずっと、それを認めるのが、いちばん怖かったのかもしれん」

 バンジさんが、その会話を、少し離れた席で、黙って聞いていた。目が合うと、バンジさんは、静かに頷いた。何かを託すような頷き方だった。

 その報せは、あっという間に村中に広まった。翌朝、宿の前には、他の案内人たちや、近所の人たちが、代わる代わる顔を出した。誰も大げさなことは言わなかった。ただ、通りすがりに肩を叩いたり、「よかったな」とだけ声をかけたりして、去っていった。ジンさんは、居心地悪そうにしながらも、その一つひとつに、小さく頭を下げていた。この村の祝福の仕方は、そういう静かなものらしかった。

「これが、この村の流儀なんですね」ぼくが言うと、ノブさんは笑った。

「そうさ。派手に祝うのは、都会の流儀だろう。ここいらじゃ、肩を叩いて、飯を食わせるのが、精一杯の祝い方さ。……それで十分、伝わるもんだよ」

 風が収まるまで、さらに二日かかった。峠は再び開いた。

 ぼくらの峠越えは、ジンさんが案内してくれることになった。バンジさんの足では、長い峠道はもう厳しいという判断もあったし、何より、村の人たちの誰もが、それを望んでいるようだった。

「一年ぶりの本番だ」出発の朝、ジンさんはロープと杖を背負いながら、少し緊張した声で言った。「下手だったら、悪い」

「大丈夫」ぼくは笑って言った。「ロープの編み方、教えてもらった腕ですから」

 宿の前まで、バンジさんが杖をつきながら見送りに来てくれた。

「小僧」バンジさんは、ぼくの肩を軽く叩いた。「あんたらが来る前と、来たあとで、この村は少し変わったよ。……儂は、それを、あんたらの写真の中の、この村の姿として、覚えといてほしい」

「必ず」ぼくは、カメラを軽く叩いて答えた。

 バンジさんは、それから、隣に立つジンさんの肩にも、同じように手を置いた。何も言わなかったけれど、ジンさんは、その手の重みを、しっかりと受け止めているようだった。

 峠道は、思っていたよりずっと険しかった。切り立った崖沿いの道、雪の重みでしなる木の枝、風の抜け道でひときわ強くなる突風。ジンさんは、その一つひとつを、まるで体に刻み込まれた地図をなぞるように、迷いなく越えていった。父親が遺した道標の意味を、ジンさんは、体で覚えていた。

 峠の頂で、ジンさんは足を止めて、後ろを振り返った。

「見てみろ」

 振り返ると、ぼくらが越えてきた白い峰々と、その向こうに、うっすらと、海の気配のする青い霞が見えた。西の岬は、まだ遠いけれど、確かにその方角にあった。

「父さんは、いつも、頂で一度、後ろを振り返らせた」ジンさんは、白い息を吐きながら言った。「越えてきた道を見ておけ、とな。……先ばかり見てると、自分がどれだけ歩いたか、忘れちまうから」

 ぼくは、その言葉を、静かに胸の中で繰り返した。ソネルの海から、この峠まで。ぼくらが振り返るべき道のりは、もう、ずいぶん長くなっていた。

 ぼくは、カメラを構えて、その景色と、それを見つめるジンさんの横顔を一枚に収めた。ロープの結び方も、雪の読み方も、まだ全部は分からない。でも、この一枚には、ちゃんと「行けた」人の顔が写っていると思った。

 峠を下りきったところで、ジンさんとはお別れだった。

「世話になりました」ぼくは、頭を下げた。

「俺の方こそだ」ジンさんは、はにかむように笑った。「あんたらのおかげで、俺は、峠に戻れた。……父さんの道標に、恥じない案内になったかどうかは、分からんが」

「なってました」ミナが、迷いなく言った。「絶対に」

 ジンさんは、何も言わずに、少しだけ目を伏せた。それから、懐から小さなものを取り出して、ぼくらに差し出した。木を削って作った、小さな道標の形をしたお守りだった。

「父さんが、最初に俺に彫ってくれたのと、同じ形だ。……道に迷ったら、これを握って、進む方角を、自分で決めろ」

 ミナは、それを手帳の紐に結んだ。緑の硝子星の隣に、木彫りの小さな道標が並んだ。

 汽車が動き出す。白い峰々が、少しずつ遠ざかっていく。ミナは手帳を開いて、余白のページに、一行、書き足した。

 ――怖さを認めるところから始まる道の街。

「岬まで、もうすぐだね」ミナが、手帳を閉じながら言った。

「うん」ぼくは頷いた。「もうすぐ」

 ぼくは、吹雪の岩陰でミナが言いかけた言葉のことを、ずっと考えていた。「言っておきたいことがあるんだけど」――あの続きを、ミナはまだ、言っていない。訊こうとして、何度か口を開きかけて、そのたびに、うまく言葉が出てこなかった。

「ミナ」

「なに」

「……ううん、なんでもない」

 ミナは、少し不思議そうな顔をして、それから、窓の外に視線を戻した。ぼくも、同じように窓の外を見た。二人とも、あの日の続きを、たぶん、同じ場所に置いたままにしていた。岬まで着いたら、そのときは、ちゃんと訊こうと、ぼくは思った。

 ジンさんの「怖いのは、今も怖い」という言葉を、ぼくは何度も思い返していた。怖さは、消えるものじゃないのかもしれない。ただ、怖さを抱えたまま、それでも一歩を踏み出せるかどうか。峠を越えたジンさんも、あの岩陰でぼくの腕の中にいたミナも、たぶん、同じことをやっていたんだと思う。

 窓の外、夕暮れの空に、緑の星が長い尾を引いていた。ヴェルデは、もう見紛いようもなく育っていた。あの光の下で、ぼくらは、母さんの手帳の四行目、ふたつの月が並んで沈む岬まで、あと少しのところまで来ていた。

(第八章 了)

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