窓
スノウ峠を越えてから、ぼくらは急いだ。
ふたつの月が並んで沈むのは、年にたった三日だけ。行商人が教えてくれた次の窓は、あと五日しかなかった。峠での足止めが響いて、乗り継ぎの汽車を一本逃し、駅で一晩を明かす羽目にもなった。ミナは、手帳を握りしめたまま、何度も窓の外の空を見上げていた。
「間に合うよね」
「間に合わせる」
ぼくらは、そのやり取りを、旅の合言葉みたいに繰り返した。乗り継ぎの合間、待合室のベンチで肩を寄せ合って仮眠を取り、朝一番の汽車に飛び乗る。そんな日々が、三日ほど続いた。ミナは、道中ずっと手帳を胸に抱いていて、時々、四行目の文字を、指でそっとなぞっていた。
最後は乗合馬車も間に合わず、最終の停留所から岬まで、荷物を担いで歩き通した。西の空が、燃えるような夕焼けに染まる頃、ようやく、岬の集落が見えた。
双月岬。ふたつの月が並んで沈むという、その現象の名で呼ばれる、小さな漁村だった。切り立った崖の先に、白い灯台が立ち、その下に、貝殻のように寄り添う家々があった。家々の壁には、白と青の貝殻を埋め込んだ装飾が施されていて、夕日を浴びると、村全体がうっすらと光っているように見えた。港には、小さな漁船が並び、網を繕う老人たちが、通りすがりのぼくらに気さくに手を振ってくれた。
窓の三日目の前日、ぎりぎりの到着だった。
村の入り口で、ぼくらは息を切らしながら、荷物を下ろした。ミナは、崖の先の灯台を見つめたまま、しばらく動けずにいた。
「着いた」ミナが、掠れた声で言った。「本当に、着いた」
その声には、これまでの街に着いたときとは、違う響きがあった。母さんの手帳の四行目。ここに来るために、ぼくらは、ずいぶん長い距離を歩いてきたのだった。
宿は、村にひとつだけの、小さな漁師宿だった。女将さんに事情を話すと、疲れた顔のぼくらを見て、笑いながら部屋に通してくれた。
「明日と明後日、明々後日が、その窓だよ」女将さんは言った。「今夜のうちに、灯台のフィンさんに挨拶しときな。あの人が、この村の『窓』の元締めだから」
灯台守のフィンさんは、白髪頭の、痩せた老人だった。灯台の下の小屋で、古い天測儀を磨いていた彼は、ぼくらを見ると、手を止めて微笑んだ。
「遠くから来たね。窓に、間に合ったか」
「はい、ぎりぎり」ぼくは答えた。「あの、『窓』というのは」
「ふたつの月が並んで沈む、あの三日間のことを、儂らはそう呼んどる」フィンさんは、天測儀を撫でながら言った。「岬の暮らしはな、一年三百六十いくつの日を、この三日のために回っとると言っても、大げさじゃない」
「そんなに、大事な三日間なんですか」
「大事、というより……儂らにとっては、暦の要みたいなもんだ」フィンさんは、窓の外の、まだ明るい夕焼けの空を見た。「岬の連中は、大事な約束や、誓いごとを、みんなこの窓に合わせる。結婚の誓い、船出の前の願かけ、……別れた者への、最後の挨拶」
「フィンさんも、何か、誓ったことが」
ぼくの質問に、フィンさんは、少し遠い目をした。
「四十年前、ここで、女房に求婚した。月がふたつ並んで、海に溶けていく瞬間にな。……あれから毎年、儂は灯台からこの三日を見てきた。女房が逝ってからも、な。あの光を見るたび、あの夜の、女房の顔を思い出す」
「奥様は、いつ」ぼくは、訊いていいものか迷いながら、尋ねた。
「十年前だ」フィンさんは、静かに言った。「病でな。……最後の年も、女房は、窓の夜を見たがった。儂は、寝台ごと見晴らし場まで運んでな。二人で、並んで月を見た。それが、最後に見た、まともな景色だったよ」
「寂しく、ないですか」
「寂しいさ」フィンさんは、あっさりと認めた。「だが、儂は、毎年この窓が来るたび、女房ともう一度会っとる気がするんだ。……人が誰かを想うってのはな、たぶん、そういうことだ。会えなくても、同じ景色を見れば、隣にいる」
フィンさんは、それから、少し悪戯っぽく笑って、ぼくらの顔を見比べた。
「あんたらも、誓いごとの一つや二つ、持ってきたんじゃないのか」
ぼくは、思わずミナの顔を見て、ミナも同時にこちらを見て、二人して慌てて視線を逸らした。フィンさんは、それだけで何かを察したように、声を立てて笑った。
窓の初日は、あいにく、雲が厚かった。
夕方から集落の人々が、崖沿いの見晴らし場に集まり始めた。毛布や、湯気の立つ薬缶を手に手に持ち寄って、まるで小さな祭りのような雰囲気だった。子どもたちは、大人たちの間を駆け回り、老人たちは、折りたたみの椅子に腰掛けて、思い思いに空を見上げていた。フィンさんは、灯台の上から、双眼鏡片手に、空模様を睨んでいた。
「今夜は、厳しいかもしれんな」フィンさんは、下りてきて言った。「雲が、いちばん厚い層で居座っとる」
日が暮れて、月の昇る時刻になっても、空は分厚い雲に覆われたままだった。集落の人たちは、それでも見晴らし場を離れずに、焚き火を囲んで、歌ったり、話したりしていた。
「窓を逃したら、どうなるんですか」ミナが、隣に座る老婆に訊いた。
「来年まで、待つのさ」老婆は、あっさりと答えた。「でもね、嬢ちゃん。待つこと自体が、この村の暮らしなんだよ。窓が見えても見えなくても、こうしてみんなで空を見上げる夜は、悪くないもんさ」
「毎年、待つのって、辛くないですか」ぼくは、つい訊いてしまった。
「辛いと思ったことは、ないねえ」老婆は、湯気の立つ薬缶を抱えながら、笑って言った。「この村の子どもはみんな、物心つく前から、窓を待つ夜の焚き火を見て育つんだ。待つことは、退屈な時間じゃない。仕込みの時間さ。誓いごとを、心の中で何度も練り直す時間だよ。……あんたらだって、五日、急いで来たんだろう。その五日の間、ずっと同じことを考えてたんじゃないかい」
図星だった。ぼくは、何も言い返せなかった。
その夜、月は、とうとう姿を見せなかった。集落の人たちは、落胆した様子もなく、それぞれの家路についた。
「明日がある」フィンさんは、ぼくらの肩を叩いて言った。「窓は、三日あるんだ。今夜が駄目でも、まだ二晩ある」
その夜、宿の部屋で、ミナは手帳を開いたまま、なかなか寝つけずにいるようだった。
「もし、三日とも駄目だったら」ミナが、天井を見上げて言った。「母さんとの約束、また来年まで、お預けになっちゃう」
「明日は、きっと晴れる」ぼくは、根拠もなく言った。スノウ峠のときと、同じ台詞だった。ミナは、少し笑って、「ハルは、いつもそう言うね」と呟いた。
窓の二日目も、朝から雲が厚かった。
昼過ぎ、ぼくとミナは、フィンさんに誘われて、灯台の手伝いをすることになった。ガラス窓を磨き、油を差し、レンズの傷を確かめる。フィンさんの手つきは、この灯りを何十年も守ってきた人の手つきだった。
螺旋階段を上りながら、フィンさんはぼくらに、灯台の仕組みを説明してくれた。巨大なレンズの中心には、油を燃やす灯芯があり、それを取り囲むように、幾重にも重なったガラスの環が、光を遠くまで届くように屈折させている。
「このレンズひとつで、二十海里先まで、光が届く」フィンさんは、誇らしげに言った。「儂の仕事は、突き詰めれば、この光を絶やさんことだけだ。単純だろう」
単純、という言葉を、フィンさんは、何度も使った。灯りを絶やさない。窓の夜を待つ。単純なことを、何十年も続けること。それが、この人の生き方そのものだった。
「儂がこの灯台を継いだのは、二十歳のときだ」フィンさんは、レンズを磨きながら言った。「先代は、儂の父親でな。父親は、儂に、灯りの絶やし方を教える代わりに、灯りの守り方だけを、しつこいくらい叩き込んだ」
「絶やしたことは、一度もないんですか」
「一度もない」フィンさんは、少し誇らしげに言った。「嵐の夜も、病で寝込んだ夜も、儂は誰かに頼んで、灯りだけは絶やさんかった。……この灯りはな、船を導く灯りだ。同時に、岬の連中にとっちゃ、今日という日が、ちゃんと続いとるっていう証でもあるんだ」
ぼくは、その言葉に、これまでの旅で聞いてきた、いろんな人の声を思い出していた。大漁の嘘をついたガンテさん。灯りを絶やすまいとしたマーゴさん。理由なんぞあとから付いてくると言ったダンさん。峠に戻ったジンさん。みんな、それぞれの灯りを、それぞれのやり方で守っていた。
夕方、また崖沿いの見晴らし場に、村人たちが集まり始めた。二日目の空は、一日目よりわずかに雲が薄かった。
「今夜は、望みがあるかもしれん」フィンさんは、双眼鏡を覗きながら言った。
月の昇る時刻、雲の切れ間から、ひとつめの月が、ちらりと姿を見せた。集落から、小さなどよめきが起きた。でも、もうひとつの月は、まだ雲の中だった。
みんなが固唾を呑んで見守る中、雲がゆっくりと流れていく。ふたつめの月が、雲の端からのぞきかけて――また、厚い雲に隠れてしまった。
ため息とも安堵ともつかない声が、見晴らし場に広がった。今夜も、窓は完全には開かなかった。それでも、誰も声を荒げなかった。子どもたちは「明日こそ」と口々に言い合いながら、眠そうな目をこすって、親の背中に負ぶわれていった。
「最後の夜だ」フィンさんは、それでも、落胆した様子はなかった。「明日は、風向きが変わる。儂の長年の勘だが、たぶん、晴れる」




