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世界の終わりに  作者: すみっこSE
第九章 ふたつの月の岬

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19/41

ふたつの月

 窓の最後の夜、村中が、朝から、どこか静かな緊張に包まれていた。

 夕方、見晴らし場に向かう道すがら、ミナが、ふいに足を止めた。

「ハル、先に行ってて。……ちょっとだけ、一人で、心の準備がしたい」

 ぼくは、少し迷ったけれど、頷いて先に行った。振り返ると、ミナは、崖沿いの小道に立ち止まって、海を見つめていた。その背中は、これまでの旅のどの瞬間よりも、まっすぐに見えた。

 ぼくは、歩きながら、この旅の始まりのことを考えていた。墓地で手帳を押さえた、あの風の強い日。ミナは、母の代わりに丸をつけると言った。ぼくは、なぜだか分からないまま、ついていくと言った。あれから、ずいぶん長い距離を、ぼくらは一緒に歩いてきた。今夜、その距離の意味が、少しだけ、はっきりする気がした。

 見晴らし場では、フィンさんが、いつもより念入りに双眼鏡を磨いていた。

「今夜は、いけそうだ」フィンさんは、空を見上げて言った。「風が、雲を全部、東へ押し流しとる」

 日が沈み、空の色が、藍色から濃紺へと変わっていく。星々が、ひとつ、またひとつと瞬き始めた。緑の尾を引くヴェルデも、いつもよりくっきりと見えた。

 ミナが、見晴らし場に着いたのは、月が昇り始める、ちょうどその頃だった。息を切らして駆けてきたミナは、ぼくの隣に並んで、まだ乱れた息のまま、東の空を見上げた。

 雲は、フィンさんの言った通り、きれいに払われていた。

 ひとつめの月が、地平線からゆっくりと顔を出した。少し遅れて、もうひとつの月が、寄り添うように昇ってくる。ふたつの月は、次第に高度を揃え、まるで示し合わせたように、並んで夜空を渡り始めた。

 村中から、歓声とも、溜息ともつかない声が上がった。フィンさんは、双眼鏡を目に当てたまま、何も言わずに、じっと空を見つめていた。

 ふたつの月は、夜を渡りきり、やがて、西の海に向かって、静かに沈み始めた。ひとつが海に触れ、もうひとつが、それを追いかけるように、寄り添って沈んでいく。銀色の光の帯が、海の上に、ふたすじ、重なるように伸びていた。海面は、まるでもうひとつの空のように、月の光を映して揺れていた。潮の匂いと、集落の人々の静かなざわめきと、波の音とが、ひとつに溶け合っていた。

「……綺麗」ミナが、声を震わせて言った。

 ぼくは、カメラを構えていたことを、一瞬忘れていた。慌ててファインダーを覗いたときには、ふたつの月は、もう海に半分ほど沈んでいた。ぼくは、震える指で、シャッターを切った。うまく撮れているかどうかは、分からなかった。それでも、撮らずにはいられなかった。

 ミナは、手帳を開いていた。ページの四行目、母さんの丸い字。

 ――ふたつの月が、ならんで沈む岬。

 ミナの手が、震えていた。鉛筆を握る指に、力が入りすぎて、白くなっていた。

 月が完全に沈みきる、その瞬間。ミナは、丸を、書いた。

 これまでのどの丸とも違う、深く、何度もなぞられた、大きな丸だった。ミナは、手帳を胸に抱えて、しばらく、声を殺して泣いた。ぼくは、何も言わずに、その隣に立っていた。何か言葉をかけるより、ただ隣にいることのほうが、今は大事な気がした。

 村人たちが、三々五々、家路につき始めた。見晴らし場に、やがて、ぼくらとフィンさんだけが残った。フィンさんは、何も言わずに、双眼鏡をしまうと、静かに灯台の方へ歩いていった。ぼくらだけを、その場に残すように。

 波の音だけが聞こえる、静かな時間だった。ミナは、涙を拭って、手帳を閉じた。ぼくは、カメラをケースにしまい、ミナの隣に、腰を下ろした。海の匂いと、まだ耳の奥に残る歓声の余韻の中で、ぼくらは、しばらく、どちらも何も言わなかった。何かを言おうとするたびに、言葉が、波の音に溶けて消えていくような気がした。

「お母さん、見れたよ」ミナは、夜空に向かって、小さく呟いた。「遅くなったけど、ちゃんと、見れたよ」

 しばらくの沈黙のあと、ミナが、ぼくの方を向いた。

「ハル。スノウ峠で、言いかけたこと、覚えてる?」

 ぼくの心臓が、大きく跳ねた。

「覚えてる」

「あのとき、見つからなかったら言おうと思ってたこと。……今、言ってもいい?」

 ぼくは、頷くことしかできなかった。

「わたし、旅を始めたとき、これは母さんの代わりの旅だと思ってた」ミナは、手帳を胸に抱えたまま、ゆっくりと言葉を選んだ。「でも、いつからか、違う気持ちが混ざってきて。……街を巡るたびに、ハルの隣にいることが、丸をつけること自体と同じくらい、大事になっていって」

 ミナは、一度、深呼吸をした。

「好きだよ、ハル。母さんの旅だけじゃなくて、わたし自身の気持ちとして、ハルのことが、好き」

 風が、ふたりの間を静かに通り抜けた。ぼくは、何度も口を開きかけて、うまく言葉にならなかった。それでも、今度こそ、逃げたくなかった。

「ぼくも」ぼくは、やっとの思いで声を出した。「ずっと前から、たぶん、フェリスの劇場の頃から。……ミナのことが、好きだ」

 ミナは、少し驚いたように目を見開いて、それから、くしゃりと笑った。泣き笑いの顔だった。

「フェリスって、けっこう前だね」

「気づくのに、時間かかったんだ」

「わたしも、似たようなもん」

 ぼくらは、どちらからともなく、手を伸ばして、指を絡めた。ソラ湯の縁側で触れた、あの遠慮がちな距離とは違う、はっきりとした距離だった。星空の下、ふたつの月が沈んだあとの海を、ぼくらは、しばらく、手をつないだまま眺めていた。ミナの手は、まだ少し震えていて、それが、寒さのせいなのか、それとも別の何かのせいなのか、ぼくには判別がつかなかった。たぶん、その両方だったんだと思う。

 言葉にしてしまうと、拍子抜けするくらい、単純なことだった。ずっと前から、たぶん、お互い分かっていたことだった。ただ、それを言葉にする勇気が、旅の中で少しずつ育っていっただけなのだと思う。

 その夜は、ふたりとも、なかなか寝つけなかった。翌朝、宿の朝食の席で顔を合わせたとき、ミナは、いつもと同じ顔をしていたけれど、目が合うと、少しだけ耳を赤くして、視線を逸らした。ぼくも、うまく顔が作れなくて、パンをやたらと丁寧にちぎることに集中するふりをした。

「……なんか、変な感じ」ミナが、小声で言った。

「変な感じ」ぼくも頷いた。「でも、悪い変な感じじゃない」

「うん」ミナは、小さく笑った。「悪くない」

 女将さんが、そんなぼくらを見て、何も言わずに、にやにやしながら、多めのおかわりのパンを置いていった。

 朝食のあと、宿を発つ前に、フィンさんが見送りに来てくれた。

「昨日の夜は、いい月だったろう」フィンさんは、悪戯っぽく笑いながら言った。「儂は、灯台の窓から、ちゃんと見とったよ。月だけじゃなく、あんたらのことも、な」

 ぼくとミナは、同時に赤面した。フィンさんは、声を立てて笑って、それから、懐から小さなガラスの小瓶を取り出した。中には、砂浜の砂と、貝殻のかけらが入っていた。

「双月岬の砂だ。窓の夜に集めたもんを、旅立つ者に渡す習わしがあってな。……次の窓まで、あと一年。だが、あんたらがこの砂を持っとる限り、どこにいても、この岬の夜空は、あんたらのものだ」

 ミナは、その小瓶を、大事そうに両手で受け取った。ぼくは、その小瓶と、それを受け取るミナの手を、カメラに収めた。旅のあいだに集めた餞別の品々――ユナの流木のお守り、テッサの硝子星、ジンさんの木彫りの道標――と並べたら、この小瓶は、いちばん小さくて、いちばん重い品になる気がした。

「ありがとうございます。……あの、フィンさんは、これからも、ここで」

「ああ。次の窓まで、灯りを絶やさず待つさ」フィンさんは、灯台を見上げて言った。「儂の仕事は、それだけだ。単純だろう。だが、単純なことを、四十年続けるのも、悪くない人生だったよ」

 汽車の駅まで、ぼくらは、繋いだ手を離さずに歩いた。振り返ると、白い灯台が、朝日を受けて、静かに立っていた。

 汽車が動き出す。双月岬が、少しずつ遠ざかっていく。ミナは、手帳を開いて、四行目の丸を、もう一度、指でなぞった。

「ここまで、長かったね」ミナが言った。

「うん」ぼくは頷いた。「でも、まだ半分も来てない気がする」

「うん」ミナは、繋いだ手に、少し力を込めた。「まだまだ、行こう」

 ぼくは、旅に出た日の朝のことを思い出していた。母さんに見送られて、始発の汽車に乗った、あの日。あのときのぼくは、まだ、ミナの隣にいることの意味を、ちゃんと分かっていなかった。

 ソネルの海で、ガンテさんは、大漁が来るという嘘を、子どもたちのために抱え続けていた。カルカの街で、セリは、帰れない理由を、火の街の喧騒に隠していた。トゥーレの畑で、バルドさんは、来ない収穫のために種を蒔いていた。グレンの学校で、ゲルダ先生は、盗まなくてよくなった日のために、九九を教えていた。ロズナの時計は、残り時間ではなく、「いま」を告げるために、また動き出した。フェリスの舞台では、嘘と本当の結末が、両方とも本物の涙を流させた。ソラ湯では、理由なんぞあとから付いてくるという言葉に、ぼくは何度も助けられた。スノウ峠で、ジンさんは、怖さを抱えたまま、それでも一歩を踏み出した。

 そのすべてを一緒に見てきたから、今、ここにいる。ミナの隣にいることの意味が、双月岬の夜、ようやく、はっきりと形になった。

 窓の外、夕暮れの空に、緑の星が、長い尾を引いていた。ヴェルデは、もう、誰の目にも明らかなくらい、大きく育っていた。世界が終わるまでの時間は、確実に短くなっている。それでも、ぼくらの手帳には、まだ空白のページが、たくさん残っていた。

 汽車の音に紛れて、ミナが、小さく呟いた。

「次は、どこに行こうか」

 ぼくは、繋いだ手を握り返して、答えた。

「まだ見ぬ場所へ、二人で」

(第九章 了)

(第二部 了)

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