カメラを盗んだ少女
グレンの街は、匂いから始まった。
北へ向かう幹線に乗り換えて半日、窓の外の空が、だんだん低くなってきた。曇っているのではなかった。煙だった。石炭の煙が空の低いところに溜まって、蓋みたいになっている。汽車が街に入る頃には、昼だというのに、車内の灯りがついた。
工業都市グレン。時計台の街へ行くには、ここで汽車を乗り換えて、一晩待たなければならない。
駅は、大きくて、暗かった。天井の高いホールに人はまばらで、その半分は、床に座り込んで動かない人たちだった。壁には古いポスターが残っていた。「グレンの鉄が、イオルドを支える」。誇らしげな字の上に、誰かが炭で大きくバツを描いていた。
御者の爺さんの忠告を、ぼくらは守った。荷物は体の前に抱え、カメラは上着の下に入れた。それでも、駅を出て十歩も歩かないうちに、ぼくらは「それ」を見た。
市場通りの角で、パン屋の店先から、小さな影が飛び出した。八つか九つの男の子だった。腕にパンをふたつ抱えて、露地の奥へ走っていく。店の主人が怒鳴って追いかけ、けれど角のところで足を止めて、荒い息のまま、追うのをやめた。
そのすぐ横に、警官が立っていたのだ。
年老いた巡査だった。彼は一部始終を見ていた。見ていて、動かなかった。パン屋の主人が何か食ってかかると、巡査は帽子のつばに手をやって、疲れた声で言った。
「……捕まえて、どうする。留置場はもう飯が出ん。裁判所は判事が逃げた。あの子を捕まえたら、儂が飯を食わせにゃならんが、儂の給金は三月前から止まっとる」
パン屋は拳を握って、それから力なく開いて、店に戻っていった。巡査は、何もなかったように、また通りに目を戻した。
法律が死ぬところを見たのは、生まれて初めてだった。
宿は駅前の安宿が取れた。ベッドはふたつとも斜めに沈んでいたけれど、鍵はかかった。荷物を置いて、明るいうちに食料を買っておこうと、ぼくらは市場通りに出た。
市場は、開いている店より閉まっている店のほうが多かった。開いている店の値札は、どれも書き直した跡が三重四重になっていて、いちばん新しい数字は、どれも目を疑うような値段だった。工場が止まり、賃金が消え、金持ちは南へ逃げ、残された人間の数だけが変わらない街。値段というのは、こういうふうに壊れていくのかと、ぼくは店先で立ち尽くした。
事件は、その市場で起きた。
ミナが芋の露店で銅貨を数えていた、その一瞬だった。ぼくの上着の下から、すっとカメラの重みが消えた。
振り向いたときには、小さな背中が人混みを縫って走っていた。肩から提げた革ケースの紐が、切られてぶら下がっている。ぼくの体は、考えるより先に走り出していた。
「待て!」
父さんのカメラだった。ほかの何を盗られてもいい。あれだけは駄目だった。
小さな背中は露地に折れ、干し場の下をくぐり、崩れた塀を跳び越えた。ぼくは必死で追った。距離は開くいっぽうだった。あの子はこの迷路を、体で覚えている。
それで終わるはずだった。でも、次の角を曲がったところで、その子は、道の真ん中に、うずくまっていた。
十二、三の女の子だった。カメラを胸に抱えたまま、膝をついて、荒い息をしている。逃げ足が尽きたのではなかった。近づいて分かった。顔が真っ赤で、額に汗が浮いて、目の焦点が合っていない。熱だ。それも、かなり高い。
「……返す、から」女の子は掠れた声で言った。「殴らないで。顔は、やめて。腫れると、仕事に、さわる」
仕事、という言葉の意味を理解した瞬間、ぼくは、追いかけてきた自分の足の速さが、まるごと恥ずかしくなった。
追いついたミナが、女の子の額に手を当てて、息を呑んだ。
「燃えてる。……ねえ、家はどこ。家の人は」
女の子は答えなかった。代わりに、細い腕でカメラを差し出して、それきり、ずるずると崩れた。
ぼくらは顔を見合わせた。医者の場所も分からない。そもそもこの街に、まだ医者がいるのかも。そのとき、露地の奥から声がした。
「リゼ!」
さっきのパン屋から走り出た、あの小さな男の子だった。男の子はぼくらを見て一瞬身構え、それから倒れている女の子を見て、顔色を変えた。
「姉ちゃんに何した!」
「何もしてない。熱があるの」ミナが早口で言った。「寝かせられる場所は? この子の家でも、どこでもいい」
男の子は、ぼくらを疑いの目でしばらく睨んで、それから、看病と敵意を天秤にかけるのをやめた。
「……ついてきて。学校に運ぶ」
「学校?」
「先生のとこだよ」
その「学校」は、街の東の外れにあった。
正門の看板には「グレン第四小学校」とあり、その上から板が打ちつけられて、「閉鎖」の貼り紙が残っていた。男の子は正門を素通りして、裏手の穴の開いた金網をくぐった。ぼくはリゼを背負ったまま、それに続いた。
校舎の中は、外から見るのとは、まったく別の場所だった。
廊下に洗濯物が干してある。教室のひとつからスープの匂いがする。板張りの床は掃き清められ、割れた窓には板と布が丁寧に張ってある。そして、そこらじゅうに、子どもがいた。廊下を走る子。壁際で芋の皮を剥く子。小さい子に靴の紐の結び方を教えている子。全部で、三十人はいた。
スープの教室から、大柄な女の人が出てきた。白髪まじりの髪をひっつめて、袖をまくっている。彼女はぼくの背中のリゼを見ると、廊下の奥へ向かって、よく通る声で言った。
「保健室に運んで。水と、手拭いと、柳の皮の煎じたやつ。――話はそれからだ」
それが、ゲルダ先生だった。




