宛先のない手紙
村に小さな図書館があると教えてくれたのは、バルドさんの奥さんだった。雨の日は畑仕事が休みになる。四日目がその雨だった。
図書館は、楡の木の広場に面した石造りの建物で、村役場の半分を間借りしていた。本棚は六つ。それだけなら、どこの村にもある読書室だ。トゥーレの図書館が変わっているのは、その奥だった。
本棚の奥に、鉄の扉があった。扉の向こうは石積みの半地下になっていて、壁一面に、小さな木の引き出しがびっしりと並んでいた。引き出しには一つひとつ、ラベルが貼ってある。「トゥーレ百八十日麦」「赤穂麦」「オルガ蕎麦」「豆・つる有り・白花」――。
「種子の図書館です」
司書のノラさんが言った。三十くらいの、静かな話し方をする人だった。
「この村では、昔から不作に備えて、種を村で貸し借りしてきました。持ち寄って、記録して、必要な家が借りて、収穫から倍にして返す。台帳は、わたしで六代目です」
ノラさんは、分厚い革表紙の台帳を開いて見せてくれた。何十年ぶんの筆跡が、ページごとに変わりながら続いている。どの家が、いつ、何の種を、どれだけ借りて、どれだけ返したか。数字の欄の隅に、時々小さな書き込みがあった。「この年、大旱魃」「西の畑に新種試す、良」「息子生まれる」。
台帳というより、村の日記だった。
「彗星の発表のあと」ノラさんは、引き出しの並ぶ壁を見上げた。「わたし、決めたんです。この部屋の種を全部、選り分けて、乾かして、蜜蝋で封をして、石の櫃に収めようって。台帳の写しと、育て方の覚え書きも一緒に。それで、村のいちばん深い穴蔵に、仕舞っておこうって」
「……誰のために、ですか」
ぼくの質問に、ノラさんは少し困ったように笑った。
「分かりません。ヴェルデが落ちて、それでも星のどこかに誰かが残るのか。残らないのか。学者にも分からないことが、わたしに分かるはずもないでしょう。でも、もし――もしですよ。ずっとずっと先に、誰かがこの穴蔵を開けたら。そこに種と、育て方と、六代ぶんの台帳があったら。その誰かは、麦を作れる。……種っていうのはね、手紙なんです。宛先の分からない、いちばん確かな手紙」
そのとき、図書館の入り口の扉が、乱暴に開いた。
入ってきたのは、ぼくと同じ年頃の若者だった。雨に濡れた頭陀袋を肩に担いで、旅装をしている。彼はノラさんを見つけると、投げつけるように言った。
「姉さん。明日の朝の馬車で発つから。挨拶だけしに来た」
「リオ」
「テオもマルクスも一緒だ。若いのは、これでこの村から全員いなくなるよ。みんな都会に行く。カルカだかグレンだか知らないけど、最後の時間くらい、明るい場所で――」
リオはそこで、壁の引き出しと、開かれた台帳と、ぼくらに気づいた。そして、なぜだか急に怒りの置きどころを失くしたような顔になって、それでも言った。
「……まだやってるのか、それ。宛先のない手紙だなんて、よく言うよ。未来なんてないんだ。ないものに宛てて書く手紙は、手紙じゃない。ただの、諦めの悪さだ」
「そうかもしれないね」ノラさんは、静かに言った。「気をつけて行きなさい。都会は物騒だから」
言い返されなかったことが、いちばん応えたみたいだった。リオは唇を噛んで、来たときと同じ乱暴さで、雨の中へ出ていった。
その夜のことだった。
半鐘の音で、ぼくらは跳ね起きた。納屋を飛び出すと、夜の底が赤かった。広場の方角だ。バルドさんが怒鳴った。
「図書館だ! 風で野焼きの火が飛んだ!」
昼間の雨は上がって、夜には乾いた強風に変わっていた。村を発つ家のひとつが、日暮れに畑の枯れ草を焼いた。始末したはずの火が、風で熾って、飛んだ。よりによって、広場の図書館の屋根に。
駆けつけたとき、屋根の端がもう燃えていた。村人が井戸から列を作り、桶が手から手へ飛んだ。ぼくもミナも列に入った。夜の空気の中で、火の粉が雪みたいに舞った。
「種子室だ! 奥の種子室に火を入れるな!」
誰かが叫んだ。屋根裏の梁が焼け落ちて、火が奥へ這おうとしていた。そのとき、燃える建物に、真っ先に飛び込んだ人間がいた。
リオだった。
旅装のままだった。彼は濡らした外套をかぶって煙の中へ消え、石の櫃をひとつ抱えて出てきて、また入った。二度目は台帳を抱えて出てきた。三度目に入ろうとして、バルドさんに襟首を掴まれ、地面に転がされた。
「馬鹿息子! 種は湿気にゃ強いが、おまえは煙で死ぬんだよ!」
夜明け前に、火は消えた。
図書館は、屋根の半分と本棚を二つ失った。でも石積みの種子室は、鉄の扉の内側で、無事だった。リオが運び出した石の櫃と台帳は、煤だらけで、広場の楡の木の下に置かれていた。
リオは楡の根方に座り込んで、煤で真っ黒な顔のまま、膝の上の台帳を見ていた。ノラさんが隣に座った。姉弟はしばらく何も言わなかった。ぼくは少し離れたところにいて、聞くつもりはなかったのだけど、風向きのせいで、声は届いてしまった。
「……体が勝手に動いたんだ」リオが言った。「意味なんてないと思ってるのは、ほんとだ。今もそう思ってる。それなのに、火を見た瞬間、あれが燃えるのだけは駄目だと思った。自分でも、わけが分からない」
「わけなら、簡単だよ」ノラさんが言った。「あんたも六代目の孫だからさ」
リオは、翌朝の馬車で発った。それは変わらなかった。
ただ、彼の頭陀袋には、一晩かけてノラさんと二人で書き写した、台帳の写しが一冊、入っていた。育て方の覚え書きと、蜜蝋で封をした麦の種の小袋も。
「都会で配ってやるよ」リオは馬車の上から、憎まれ口の形をした別の何かを言った。「宛先のない手紙なんだろ。なら、配達人がいたほうがいい」
馬車が小さくなるまで、ノラさんは手を振っていた。
ぼくらがトゥーレを発ったのは、その二日後だ。種蒔きは、村中の畑ぶんが終わっていた。荒れた畑は荒れたままだったけど、バルドさんの畑と、村の共有地は、湿った濃い茶色に生まれ変わって、雨上がりの匂いをさせていた。
別れ際、バルドさんは、ぼくらの前に立って、こう言った。
「百八十日後。ここは地平線まで黄金になる。……戻ってこい、二人とも。嬢ちゃんの手帳の丸は、そのときつけりゃいい」
ミナは、手帳を開いた。三行目、「麦の海が黄金になるところ」。ミナは丸をつける代わりに、その横に小さく、こう書いた。
――やくそく。百八十日後。
「初めてだね」馬車の上で、ぼくは言った。「丸をつけないで発つの」
「うん」ミナは手帳を胸に当てた。「でも、変なの。丸をつけた街より、つけられなかったこの村のほうが、また来るのが楽しみ」
ぼくは、出発前に撮った一枚のことを考えていた。種を蒔き終えたばかりの、まだ何も生えていない、地平線までの茶色い畑。あの一枚には、何も写っていない。でも、あの土の下で、いま何百万粒の種が、いっせいに順番を待っている。写真に写らないものを撮ったのは、あれが初めてだった。
夜、乗合馬車の荷台から見上げた東の空に、ヴェルデがいた。もう瞬きもしない。緑の光は夜ごと太って、平原の果てで、静かにこちらを見ている。あの光が空いっぱいになる半月前、この平原は黄金になる。ぼくは、そのことを何度も思い返した。終わりの手前に、約束がひとつあるというだけで、夜空の緑は、少しだけ怖くなくなった。
手帳の次の行には、こう書いてある。
――世界でいちばん大きな時計台。
時計台のある北の街へ行くには、大陸を縦に走る幹線に乗り換えて、途中、灰色の煙を吐き続けるという工業都市グレンを通らなければならない。御者の爺さんは、グレンの名を出したとき、少しだけ声を低くした。
「あの街じゃ、荷物から手を離すなよ。……あそこはいま、大人より、腹を減らした子どもが怖い街だ」
(第三章 了)




