種を蒔く男
汽車を降りて、乗合馬車に半日揺られると、世界から壁がなくなった。
オルガ平原。地平線まで、さえぎるものが何もない。空が大きすぎて、自分がどこに立っているのか分からなくなるような場所だった。ぼくは馬車の荷台から身を乗り出して、何度もシャッターを切った。でも、あとで分かったことだけど、この平原の大きさは、写真には写らない。人間の目玉というやつは、カメラよりずっと欲張りにできている。
ミナは、手帳を開いたまま、ずっと黙っていた。
――麦の海が黄金になるところ。
母さんの字は、そう書いている。でも馬車の窓の外に広がっているのは、黄金の海ではなかった。刈り跡の残る茶色い畑と、背の高い草に呑まれかけた灰色の畑が、どこまでも続いているだけだった。
「季節が、違うんだね」ミナが小さく言った。「麦が金色になるのって、いつ」
「刈り入れ前だから……夏の終わり、かな」
ぼくは言いながら、頭の中で数えて、口をつぐんだ。次の夏の終わり。それは、ヴェルデが落ちてくる頃と、ほとんど同じだった。
御者の爺さんが、前を向いたまま言った。
「嬢ちゃん、金色の麦が見たくて来たのかね。そりゃあ、来る時季を間違えたな。……いや、時季だけじゃねえか。あんたら、見な」
爺さんは鞭の先で、草に呑まれた灰色の畑を指した。
「この辺りの畑はな、半分がもう死んどる。種を蒔かなきゃ、畑ってのは一年で野に戻っちまうのさ。どうせ刈り入れの日は来ねえ、蒔くだけ無駄だと、みんな手を止めちまった。トゥーレの村も、ずいぶん人が減ったよ」
馬車は夕方、トゥーレの村に着いた。石積みの家が三十ばかり、大きな楡の木を囲むように建っている、小さな村だった。
そして村の入り口で、ぼくらは足を止めた。
村の東側に、一枚だけ、まるで櫛で梳かしたように美しく耕された畑があったのだ。荒れた畑の海の中で、そこだけが濃い茶色をして、湿った土の匂いを立てていた。畑の真ん中に、人がひとりいた。腰に木の種箱を提げ、右腕を大きく振って、歩いている。振られた手から何かが霧のように散って、夕陽を受けて一瞬きらめき、土に落ちた。
種を蒔いているのだ、と気づくまで、少しかかった。ぼくは反射的にカメラを構えた。地平線と、耕された畑と、種を蒔くひとりの人間。ファインダーの中のその光景は、なぜだか分からないけれど、胸の奥の深いところを、ぐっと掴んできた。
それが、バルドさんだった。
バルドさんは五十がらみの、樫の木みたいな体つきの農夫だった。宿を探していると言うと、じろりとぼくらを眺めて、それから畑を顎で指した。
「うちの納屋でよけりゃ、寝床と飯は出す。そのかわり、明日から手を貸せ。種蒔きは、腕が多いほどいい」
こうしてぼくらは、麦の村で、種を蒔くことになった。
種蒔きは、思っていたよりずっと難しくて、ずっと単純だった。
腰の種箱から一掴み。歩幅に合わせて、腕を振る。握りすぎれば固まって落ち、開きすぎれば風に流れる。指の隙間の加減ひとつで、種は霧になったり、塊になったりした。ぼくは午前中いっぱい失敗し続けて、昼過ぎにようやく、一度だけ、種が綺麗な霧になって土に散った。そのときの、手のひらの中で何かがほどけていく感じを、ぼくはたぶん一生忘れない。
ミナは、ぼくより筋が良かった。夕方には、バルドさんが「嬢ちゃんは農家の生まれか」と真顔で訊いたくらいだ。ミナは笑って首を振った。旅に出てから、ミナがいちばん長く笑っていた日だった。
三日目の昼、畑の縁で麦茶を飲みながら、ぼくはとうとう訊いた。
「バルドさんは、どうして蒔くんですか」
訊いてから、ソネルの海の上でも同じことを訊いたな、と思った。ぼくの旅は、どうやら同じ質問を続ける旅らしかった。
バルドさんは、麦茶を飲み干して、しばらく黙っていた。
「小僧。麦ってのはな、蒔いてから百八十日で穂が実る。この村で作っとるのは、昔からそういう麦だ」
バルドさんは、土の上に指で数字を書いた。今日の日付。そこから百八十日。ぼくは頭の中でその日付を暦に置いて、息が止まった。
百八十日後。それは、終わりの半月前だった。
「刈り入れの日は、ぎりぎり来るんだ」バルドさんは言った。「誰も彼も、来ねえ来ねえと言って手を止めたがな、暦を数えてみりゃいい。麦は間に合う。半月の差で、間に合うんだよ」
「でも……」ぼくは言葉を選びそこねた。「実っても、その、食べる時間は」
「ねえな。刈って、脱穀して、粉に挽いて、パンにして――まあ、二、三度は食えるか。それで終いだ」
バルドさんは、あっさりと言った。そして、荒れ果てた隣の畑を眺めて、続けた。
「知っとるか、小僧。麦ってのは、人間の暦なんぞ知らんのだ。あいつらは蒔かれりゃ芽を出す。芽を出しゃ伸びる。伸びりゃ実る。世界が終わるからって、途中でやめたりせん。……なら、人間の側の都合で、あいつらの暦を止めるのは、筋が通らんだろう。俺は麦に生かされてきた男だ。最後の代金くらい、耳を揃えて払わにゃな」
ぼくは、その言葉をどう受け止めればいいのか分からないまま、隣のミナを見た。ミナは、握った麦の種を、じっと見つめていた。
「あの」ミナが顔を上げた。「この畑、金色になるんですか。終わる前に、ちゃんと」
「なる」バルドさんは即答した。「終わりの半月前、ここは地平線まで黄金だ。……なんだ嬢ちゃん、泣くほど麦が好きか」
ミナは、泣いてなんかない、という顔で笑って、少しだけ泣いた。




