ハウデンへ
トゥーレを発つ朝、バルドさんと、ノラさんが、駅まで見送りに来てくれた。
「これから、どこへ」バルドさんが訊いた。
「ハウデンに」ぼくは、答えた。「ぼくの、生まれた町です。母さんに、会いに行きたくて」
「いい選択だ」バルドさんは、深く頷いた。「残りの日々を、大事な人と過ごす。それに勝ることは、そうそうない」
ノラさんが、ミナを、強く抱きしめた。
「あなたのお母さんは」ノラさんは、涙声で言った。「きっと、誇りに思ってる。こんなに立派に、約束を果たした娘を」
「ありがとうございます」ミナも、涙をこらえながら、抱擁を返した。
汽車が動き出す。黄金の麦畑と、村の人々の姿が、少しずつ、遠ざかっていく。ミナは、窓に手をついて、見えなくなるまで、村の方角を見つめていた。
「また、来られるかな」ミナが、ぽつりと、呟いた。
「分からない」ぼくは、正直に、答えた。「でも、来られなくても、あの村は、ずっと、ぼくらの中に、残ると思う」
ミナは、その言葉に、静かに、頷いた。
ハウデンまでの道のりは、三日だった。汽車を乗り継ぐたび、車窓の景色は、少しずつ、見覚えのあるものに変わっていった。丘の形、川の流れ、遠くに霞む山並み。何もかもが、旅立った日の記憶と、ぴったり重なっていく。
「緊張する」ミナが、汽車の揺れに身を任せながら、ぽつりと言った。
「ぼくも」ぼくは、正直に言った。「母さんに、どんな顔をして、会えばいいか」
「大丈夫だよ」ミナは、微笑んだ。「ハルは、ちゃんと、行ってきますって、言って出た。それだけで、十分だと思う」
三日目の午後、汽車は、ついに、ハウデンの駅に滑り込んだ。赤い屋根の家々が、ぎゅうぎゅうと立ち並ぶ、見慣れた町並み。ぼくは、汽車を降りた瞬間、足がすくむのを感じた。
改札の向こうに、一人の女性が、立っていた。
「母さん」
その人は、ぼくの声に、ゆっくりと、振り返った。皺の増えた顔、白髪の交じった髪。それでも、その目は、旅立った日と、少しも変わらない、温かい光を、湛えていた。
「ハル」母さんは、震える声で、ぼくの名を呼んだ。「帰って、きたのね」
ぼくは、何も言えずに、母さんのもとへ、駆け寄った。母さんは、ぼくを、強く、強く、抱きしめた。あの日、駅で交わした抱擁より、ずっと、長い抱擁だった。
母さんの体は、記憶の中よりも、少し、小さく感じられた。それでも、その腕の強さは、少しも、衰えていなかった。ぼくは、その温もりの中で、旅の疲れが、一気に、溶けていくのを感じた。
「この子が」母さんは、ぼくから体を離して、ミナの方を見た。「あなたが、ミナさんね」
「はじめまして」ミナは、緊張した面持ちで、頭を下げた。「ハルさんと、ずっと、一緒に、旅をしてきました」
「知ってるわ」母さんは、優しく微笑んだ。「ハルの手紙で、何度も、あなたの話を読んだもの。……本当に、ありがとう。あの子と、一緒にいてくれて」
「こちらこそ」ミナは、目に涙を浮かべながら、答えた。「ハルさんが、いなかったら、わたしの旅は、続けられませんでした」
母さんは、ミナの手を、そっと、両手で包んだ。
「うちに、いらっしゃい」母さんは言った。「あなたたちが帰ってくる日のために、ずっと、部屋を、綺麗にしておいたのよ」
ぼくらは、母さんに連れられて、あの、懐かしい家へ向かった。町並みは、あの日から、随分と、様変わりしていた。閉まったままの店、色褪せた看板。それでも、ハウデンは、静かに、日々の営みを、続けているようだった。
家に着くと、あの日と同じ、パンの焼ける匂いが、出迎えてくれた。台所には、あの日と同じ、木べらが、置かれていた。
「変わらないね」ぼくは、思わず、呟いた。
「変わらないように、頑張ったのよ」母さんは、少し笑って言った。「あんたが帰ってきたとき、ちゃんと、同じ場所に、同じものがあるように」
台所のテーブルには、あの日と同じ、少し傷のついた木のテーブルが、置かれていた。ぼくは、そのテーブルに触れながら、旅立つ前の、何気ない日々のことを、鮮やかに、思い出していた。
それから、残された日々を、ぼくらは、ハウデンの家で、静かに、過ごした。
朝は、母さんの作った朝食を、三人で囲んだ。昼は、ミナと二人で、町を歩いた。パン屋のおじさんは、あの頃と変わらず、かまどの火を焚いていた。薬品屋のおじさんは、ぼくのカメラを覚えていて、最後の現像を、快く手伝ってくれた。
旅の記録を、現像し終えた写真を、ぼくらは、母さんと一緒に、順番に、見返した。ソネルの海、カルカの祭り、トゥーレの畑、グレンの学校、ロズナの鐘。フェリスの舞台、ソラ湯の湯けむり、スノウ峠の雪、双月岬の月。そして、ラゼル、エイル島、メリノ、カリス、エアリオ。クレア、ルミナ、ドーバ、フロリス、ノラ、ロア。何十枚、何百枚という写真が、母さんの前で、次々と、めくられていった。
「こんなに、たくさんの場所を」母さんは、涙を拭いながら、何度も、呟いた。「こんなに、たくさんの人に、出会ったのね」
「うん」ぼくは、頷いた。「みんな、それぞれの場所で、それぞれの終わりに、向き合ってた」
ミナの手帳も、母さんに、見せた。丸のついた行、丸のついていない行。それから、余白に書き足された、いくつもの街の記憶。
「あなたのお母さんも、きっと、この手帳を通して、ずっと、一緒に旅をしてたのね」母さんは、手帳を、そっと、撫でながら言った。
「そう思います」ミナは、微笑んで、答えた。
日を追うごとに、夜空のヴェルデは、大きく、明るくなっていった。もう、誰の目にも、はっきりと、彗星の姿と分かるほどに、その尾は、夜空の半分近くを、覆うようになっていた。
街の様子も、少しずつ、変わっていった。多くの店が、静かに、店じまいをした。それでも、暴動や、混乱は、起きなかった。人々は、それぞれの場所で、それぞれの人と、最後の日々を、静かに、過ごしているようだった。
ぼくとミナは、丘の上で作ったリストを、一つずつ、実行していった。星を見る夜。焚き火を囲む夜。ミナの好きな歌を、口ずさむ夕暮れ。市場で、お揃いの、小さな木彫りの飾りを買った日。雨の日に、一つの傘で、寄り添って歩いた日。
母さんも、その一つ一つに、静かに、寄り添ってくれた。時折、昔のハルの話――父さんとの思い出、幼い頃のぼくの失敗談――を、聞かせてくれた。ミナは、その話を、いつも、目を輝かせて、聞いていた。
「もっと、聞かせてください」ミナは、何度も、そう言った。「ハルさんの、知らなかった顔、もっと、知りたいです」
「いくらでも、話すわ」母さんは、嬉しそうに、笑った。「あの子、小さい頃は、本当に、泣き虫でね」
「母さん」ぼくは、思わず、抗議した。それでも、その笑い声の中に、ぼくは、深い安らぎを感じていた。
こんな、何でもない夜が、こんなにも、愛おしいものだったのだと、ぼくは、旅の中で、何度も、思い知らされてきた。そして今、その気持ちを、いちばん身近な場所で、あらためて、噛みしめていた。
そして、ついに、その日が来た。




