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世界の終わりに  作者: すみっこSE
第二十五章 世界の終わりに

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世界の終わりに

 ヴェルデが、夜空のほとんどを覆い尽くすほどに、大きくなった、その日の朝。誰に教えられるでもなく、ぼくらは、それが、最後の一日になることを、悟っていた。

 母さんは、朝から、いつも通りに、パンを焼いた。台所には、あの日と同じ、香ばしい匂いが、満ちていた。

「今日は、特別なことは、しないわ」母さんは、静かに言った。「いつも通りに、朝を迎えて、いつも通りに、パンを焼く。……それが、わたしにできる、いちばんのことだから」

「うん」ぼくは、頷いた。「それが、いちばん、いいと思う」

 窓の外から差し込む朝日が、台所いっぱいに、柔らかく、広がっていた。その光の中で、パンを焼く母さんの後ろ姿は、いつもと、少しも、変わらなかった。

 朝食のあと、ぼくとミナは、町を、最後に、歩いた。パン屋のおじさん、薬品屋のおじさん、幼馴染だった子どもたち。みんなが、それぞれの場所で、それぞれの家族と、静かに、その日を、過ごしていた。誰もが、ぼくらに気づくと、小さく、手を振ってくれた。言葉はいらなかった。その仕草だけで、十分だった。

 夕方、ぼくらは、町を見渡せる、あの丘へ登った。子どもの頃、何度も遊んだ、思い出の場所だった。母さんも、一緒に、来てくれた。

 三人で、並んで、腰を下ろした。眼下に、赤い屋根の町並みが、夕日を浴びて、静かに、輝いていた。あの日、旅立つ汽車の窓から見た景色と、同じ町が、今、ぼくらの足元に、広がっていた。

「ハル」母さんが、静かに、口を開いた。「あなたが旅立った日、わたしは、あなたに言ったの。ちゃんと見てきなさい、あんたの目は、お父さん譲りなんだからって」

「覚えてる」ぼくは、頷いた。

「見てきたのね、ちゃんと」母さんは、ぼくの手を、そっと握った。「あなたの写真、全部見せてもらったわ。……お父さんに負けないくらい、いい目を、持ってる」

「母さんのおかげだよ」ぼくは、声を詰まらせながら、言った。「母さんが、送り出してくれたから」

 母さんは、それから、ミナの方を向いた。

「ミナさん。ハルを、選んでくれて、ありがとう」母さんは、優しく言った。「この子の隣にいてくれる人が、あなたで、本当に、よかった」

「わたしの方こそ」ミナは、涙をこらえながら、言った。「ハルさんが、隣にいてくれて。……この旅の全部が、宝物です」

 母さんは、そっと、ミナの頭を、撫でた。その仕草には、実の娘に向けるような、深い愛情が、こもっていた。

 日が、地平線の向こうに、沈んでいく。空の色が、橙から、深い藍へと、移り変わっていった。

 母さんは、しばらくして、静かに、立ち上がった。

「わたしは、少し、先に、戻るわね」母さんは、微笑んで言った。「二人だけの時間も、大事でしょう」

「母さん」

「大丈夫」母さんは、ぼくの頭を、そっと撫でた。「すぐそこに、いるから」その手は、幼い頃から、少しも変わらない、温かさを持っていた。

 母さんは、丘を下りていった。その後ろ姿が、夕闇の中に、静かに、溶けていった。

 丘の上に、ぼくとミナだけが、残された。夜空には、もう、ヴェルデの緑の光が、地平線の半分近くを、覆い尽くしていた。それでも、不思議なくらい、恐怖は、なかった。

「ハル」ミナが、静かに、ぼくの名を呼んだ。

「なに」

「この旅、始まりは、母さんの代わりだった」ミナは、手帳を、胸に抱きながら、続けた。「でも、今は、はっきり、言える。……この旅は、わたし自身の旅だった。わたしが、わたしの意志で、選び取った旅」

「うん」ぼくは、頷いた。「ぼくも、同じだよ。父さんのカメラで始まった旅だったけど、今は、ぼく自身の旅になってる」

 ミナは、ぼくの方を向いた。夕闇の中で、その瞳が、ヴェルデの緑の光を、静かに映していた。

「ハル。好きだよ」ミナは、まっすぐに、言った。「双月岬で言った、あの気持ち。今も、少しも、変わってない。……むしろ、もっと、深くなってる」

「ぼくも」ぼくは、ミナの手を、そっと握った。「ミナが、好きだ。ずっと、隣にいたい」

 ぼくらは、どちらからともなく、顔を、近づけた。夕闇に包まれた丘の上で、ぼくらの唇は、そっと、重なった。それは、短い、それでいて、この旅の、すべての瞬間が、詰まっているような、キスだった。

 顔を離すと、ミナは、少し照れくさそうに、それでいて、幸せそうに、微笑んだ。

「今の、リストに、書き足しておかなきゃ」ミナが、小さく、笑いながら言った。

「もう、叶っちゃったけどね」ぼくも、笑った。

 ぼくらは、寄り添って、夜空を見上げた。ヴェルデの光が、もう、夜空のほとんどを、覆い尽くしていた。それでも、その光の合間に、これまでと変わらない、いくつもの星が、瞬いているのが見えた。

「怖くない?」ミナが、ぼくの肩に、頭を預けながら、訊いた。

「怖くない、って言ったら、嘘になる」ぼくは、正直に、答えた。「でも、ミナが、隣にいてくれるから。……それだけで、十分、心強い」

「うん」ミナは、頷いた。「わたしも、同じ」

 村の灯りが、麓に、暖かく、灯っていた。母さんの家からも、小さな明かりが、漏れているのが見えた。あの家で、母さんが、今も、ぼくらのことを、想ってくれているのだと思うと、胸が、温かくなった。

 夜が更けていく。ぼくらは、手を繋いだまま、ただ、静かに、その時間を、過ごしていた。言葉は、もう、いらなかった。ただ、隣にいる。それだけで、十分だった。

 どれくらいの時間が経った頃だろうか。

 夜空の彼方、ヴェルデの緑の光の奥に、一瞬、これまでとは違う、鋭い、白い閃光が、走った。

「ハル……」ミナの声が、震えた。

「うん」ぼくは、ミナの手を、強く、握り返した。「大丈夫。ぼくが、ここにいる」

 その光は、音もなく、夜空いっぱいに、静かに、広がっていった。まるで、この星全体が、深く、息を吸い込んでいるようだった。ぼくらは、その光を、ただ、じっと、見つめていた。恐怖よりも、不思議な、静けさが、ぼくらを、包んでいた。

 しばらくして、遠く、地の底から響くような、低い、長い音が、聞こえてきた。それは、これまで、ぼくが聞いてきた、どんな音とも違う音だった。海の轟きにも、鐘の音にも、太鼓の音にも似ていて、それでいて、そのどれでもなかった。

「聞こえる?」ミナが、囁いた。

「聞こえる」ぼくは、答えた。

 その音は、まるで、この星が、ぼくらに向けて、最後の、大きな声で、何かを伝えようとしているようだった。ぼくは、ミナの手を、もう一度、強く、握った。ミナも、同じ強さで、握り返してくれた。

 光は、次第に、優しい色に、変わっていった。緑から、金色へ。まるで、あの日、トゥーレで見た、地平線までの黄金の麦畑のような、そんな、温かい光だった。

 ぼくは、その光の中で、ミナの横顔を、見つめた。恐れも、悲しみもなく、ただ、静かで、穏やかな、美しい横顔だった。

「ミナ」

「なに」

「一緒にいてくれて、ありがとう」

 ミナは、その光に照らされながら、静かに、微笑んだ。

「こちらこそ」

 光は、ぼくらを、優しく、包み込んでいった。

(第二十五章 了)

(第五部 了)

(世界の終わりに 了)

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