これは、通過点
ミナは、震える手で、手帳を取り出した。ページをめくり、あの、いちばん大事な一行を、開いた。
――やくそく。百八十日後。
ミナは、しばらく、その文字を、じっと見つめていた。それから、涙を拭いながら、鉛筆を握った。
丸が、ゆっくりと、描かれていく。これまでの、どの丸よりも、深く、何度も、何度も、なぞられた丸だった。まるで、その一筆一筆に、旅の全部が、込められているようだった。
ぼくは、その手元を、じっと見つめていた。ソネルの海で、初めてついた、少し歪んだ丸。カルカの祭りで、盗まれかけた手帳に、もう一度つけた丸。世界でいちばん大きな時計台の前で、迷いなくつけた丸。双月岬で、涙とともについた、いちばん深い丸。そして今、この、百八十日の約束に、ミナは、それらすべてを、上回るほどの、思いを込めていた。
「お母さん」ミナは、丸をつけ終えた手帳を、両手で、胸に抱きしめて、空に向かって、声を上げた。「見えてる? 地平線まで、金色だよ。約束、守れたよ」
その声は、震えていて、涙で、掠れていた。それでも、はっきりと、確かな響きを持っていた。
ぼくは、その光景を、夢中で、カメラに収めた。手帳を抱きしめるミナと、その向こうに広がる、地平線までの黄金の海。ファインダーを覗く目にも、涙が滲んで、視界がぼやけた。それでも、ぼくは、シャッターを切る手を、止めなかった。この一枚だけは、絶対に、失敗できないと思った。
バルドさんが、ぼくらのそばに、静かに歩み寄ってきた。
「約束、果たしたな」バルドさんは、しゃがれた声で言った。「あんたらの母さんも、きっと、この景色を、見てるはずだ」
「はい」ミナは、涙を拭いながら、頷いた。「見てくれてると、思います」
バルドさんは、それから、少し照れくさそうに、付け加えた。
「儂も、正直、こんな日が、本当に来るとは、半信半疑だった」バルドさんは、続けた。「百八十日麦を蒔いたときは、意地みたいなもんだった。世界がどうなろうと、麦は、麦の暦で生きる。それを、証明したかっただけだ。……でも、あんたらが、こうして、約束を果たしに戻ってきてくれたことで、あの意地が、ちゃんと、意味のあるものになった気がする」
「バルドさんの意地が、わたしたちの旅を、支えてくれたんです」ミナが、涙声で言った。「何度も、あの言葉を、思い出しました。理由なんぞ、あとから付いてくるって」
バルドさんは、何も言わずに、ただ、大きく、頷いた。
夕日が、地平線に沈んでいく。金色の畑が、次第に、深い橙色、そして、紫がかった藍色へと、色を変えていった。それでも、その光は、ぼくらの心の中に、いつまでも、鮮やかに、焼きついて離れなかった。この景色を見た日のことを、ぼくは、生涯、忘れないだろうと思った。
その夜、村の広場では、盛大な収穫祭が催された。刈り取ったばかりの麦から作った、焼きたてのパンが振る舞われ、村中総出の宴が、夜遅くまで続いた。太鼓が鳴り、誰もが、踊り、笑い、この一年でいちばんの喜びを、分かち合った。
ぼくとミナも、村の輪の中で、下手なりに、精一杯、踊った。「収穫祭で、村のみんなと、思いっきり踊る」——丘の上で作った、ぼくらだけのリストの、最初の項目が、こうして、叶えられた。
子どもたちが、ぼくらの周りを、はしゃぎながら、駆け回っていた。年老いた村人たちも、杖をつきながら、リズムに合わせて、体を揺らしていた。誰もが、この夜だけは、世界の終わりのことを、忘れているようだった。
「上手だったよ、今のダンス」ミナが、息を切らしながら、笑って言った。
「絶対、嘘」ぼくも、笑いながら、答えた。「でも、楽しかった。踊り方なんて、下手でも、いいんだって、分かった気がする」
宴もたけなわの頃、バルドさんが、村中に向かって、声を張り上げた。
「今年の麦は、格別だ!」バルドさんは、杯を高く掲げて、言った。「終わりの半月前まで、律儀に実ってくれた麦に。そして、その約束を、忘れずに、戻ってきてくれた、この二人に。乾杯!」
「乾杯!」
村中の声が、夜空に、響き渡った。ぼくは、その声に包まれながら、ふと、旅立った日のことを思い出していた。始発の汽車の窓から見た、小さくなっていく故郷の町。あの日から、随分と、遠くまで来た。そして今、こうして、約束の場所で、大勢の人々に囲まれて、笑っている。
ノラさんが、ぼくらのところへ、パンを一切れずつ、手渡してくれた。まだ温かい、焼きたてのパンだった。
「食べてみて」ノラさんは、涙を浮かべながら、微笑んで言った。「今年の麦で作った、最初のパンよ」
ぼくは、そのパンを、一口、齧った。素朴な味だったけれど、これまで食べてきた、どんなパンよりも、深い味わいがあるように感じられた。麦が育つまでの、百八十日の時間が、そのまま、口の中に、広がっていくようだった。
「美味しい」ミナも、涙ぐみながら、パンを頬張っていた。「こんなに、美味しいパン、初めて」
「涙の味が、混ざってるからじゃないか」ぼくは、少しからかうように言った。
「もう、ハルったら」ミナは、笑いながら、ぼくの肩を、軽く叩いた。
宴が落ち着いた頃、ぼくとミナは、そっと輪を抜けて、あの丘へ、もう一度、登った。眼下に、収穫を終えた畑と、灯りの灯る村が、静かに広がっていた。
「終わったね」ミナが、丘の上に座って、村を見下ろしながら言った。
「うん」ぼくは、隣に腰を下ろした。「いちばん大事な約束が、ようやく、果たせた」
「不思議な気持ち」ミナは、手帳を、そっと、開いた。「ずっと、この日を目指して、旅をしてきたのに、いざ、その日が来たら……終わりって感じが、しないの。ほっとした気持ちと、まだ、何かが続いていく気持ちと、両方ある」
「うん」ぼくは、頷いた。「むしろ、始まりみたいな気がする」
「始まり?」
「うん」ぼくは、夜空を見上げながら、続けた。「この約束が果たせたから、旅が終わるわけじゃない。……手帳には、まだ、丸のついていない行が、たくさんある。それに、ぼくらだけのリストも、まだ、始まったばかりだ」
ミナは、その言葉に、静かに、微笑んだ。
「そうだね」ミナは、頷いた。「これは、通過点」
「うん」ぼくは、答えた。「次は、どこへ行こうか」
村の灯りが、丘の下で、暖かく揺れていた。祭りの余韻は、まだ、風に乗って、微かに聞こえてくる太鼓の音とともに、続いていた。
「明日には、また、旅に出るんだね」ミナが、少し寂しそうに、それでも、前向きな声で言った。夜風が、丘の草を、そっと揺らした。
「うん」ぼくは、頷いた。「でも、今度は、何かを目指す旅じゃなくて……ぼくらだけの旅、って感じがする。誰かのためじゃなく、ぼくらのための旅」
「二人だけの、リストを、埋めていく旅」ミナは、微笑んだ。「悪くないね、そういうの。むしろ、いちばん、楽しみかもしれない」
ミナは、手帳をめくって、まだ丸のついていない行の一つを、指でなぞった。夜空には、緑の星が、これまでのどの夜よりも、大きく、鮮やかに、輝いていた。それでも、ぼくらの心には、恐れよりも、確かな希望が、静かに、灯っていた。
(第二十四章 了)




