地平線まで、黄金に
夜明け前、まだ星の瞬く空の下で、ぼくは、目を覚ました。
隣で、ミナも、すでに、目を開けていた。どちらも、昨夜、あまり深くは眠れていなかった。それでも、体の芯には、不思議なくらい、力がみなぎっていた。
「行こうか」ミナが、手帳を、しっかりと胸に抱きながら、静かに言った。
「うん」
ぼくらは、身支度を整えて、納屋を出た。外には、すでに、バルドさんが立っていた。手には、使い込まれた鎌が、二本、握られていた。
「早いな」バルドさんは、口元に、笑みを浮かべた。「儂も、同じだ。この日ばかりは、寝ていられん」その顔は、これまで見てきた、どのバルドさんの表情よりも、若々しく、輝いて見えた。
東の空が、わずかに、白み始めていた。村の広場には、ぽつぽつと、人影が集まり始めていた。誰もが、まだ眠そうな顔をしていたけれど、その目には、確かな輝きが宿っていた。ノラさんも、大きな籠を抱えて、広場に姿を見せた。籠の中には、収穫祭で使う、飾り布や、道具が、山のように詰まっていた。
「おはよう、二人とも」ノラさんは、眠そうな目をこすりながら、それでも、晴れやかに、微笑んだ。「今日という日を、一緒に迎えられて、嬉しいわ」
「わたしたちも、嬉しいです」ミナが、朝日の差し込む空を見上げながら、答えた。
村人たちと一緒に、ぼくらは、東の畑へ向かった。畑の縁に立ったとき、太陽が、ちょうど、地平線から顔を出した。
その瞬間を、ぼくは、一生、忘れないと思う。
朝日を浴びた麦畑が、地平線の果てまで、一斉に、黄金色に輝き出したのだった。風が吹くたび、その黄金の海は、波のように、うねり、揺れた。光と色が、絶え間なく、姿を変えていく。まるで、大地そのものが、太陽に向かって、歓喜の声を上げているようだった。
ミナが、隣で、息を呑む音が聞こえた。彼女の目には、涙が、いっぱいに浮かんでいた。手帳を握る手が、小刻みに、震えていた。
「綺麗……」ミナは、それだけしか、言えなかった。
ぼくも、言葉を失っていた。旅の中で、いろんな絶景を見てきた。ソネルの朝焼けの海、地底の光る鍾乳石、双月岬に沈むふたつの月。それでも、この黄金の麦畑は、それらのどの景色とも違う、特別な重みを持っていた。それは、ただ美しいだけの景色ではなく、百八十日という時間と、一人の男の意志と、そして、ぼくらの約束が、すべて実を結んだ、その証だった。
周りの村人たちも、毎年見ているはずの光景のはずなのに、誰もが、息を呑んで、その輝きに、見入っていた。今年の黄金は、いつもの年とは、違う重みを持っているのだと、その表情から、伝わってきた。
「さあ」バルドさんが、ぼくらに、鎌を差し出した。「約束通り、最初の一株は、あんたらのものだ」
ぼくは、震える手で、鎌を受け取った。ミナも、もう一本の鎌を、両手で、大事そうに握った。
「せーの、で、いくか」バルドさんが、優しく言った。
村人たちが、固唾を呑んで、見守っていた。ぼくとミナは、顔を見合わせて、頷き合った。
「せーの」
二つの鎌が、同時に、黄金の穂の根元に、差し込まれた。かさり、という、乾いた音。抵抗は、思っていたより、ずっと小さかった。まるで、麦の方が、ぼくらに、刈られることを、待っていたかのようだった。
手のひらに伝わる、その一瞬の感触を、ぼくは、しっかりと、覚えておこうと思った。土を耕し、種を蒔き、水をやり、そして、こうして、刈り取る。その一連の営みの、最後の一片に、ぼくらは今、確かに、触れていた。
最初の一株が、ぼくらの手の中に、収まった。ずっしりと重い穂が、朝日を受けて、まばゆく輝いていた。
村中から、歓声と拍手が沸き起こった。バルドさんが、大きく息を吸って、村人たちに、声を張り上げた。
「収穫、始めるぞ!」
その号令とともに、村人たちが、一斉に、畑へ散らばっていった。鎌の音、笑い声、時折混じる歌声。トゥーレの収穫が、いよいよ、本格的に、始まった。
ぼくとミナも、鎌を手に、収穫に加わった。麦を刈る手つきは、あの日、種を蒔いたときよりも、ずっと様になっていた。この数日の畑仕事で、体が、すっかり、その動きを覚えていたのだった。
「暑いね」ミナが、額の汗を拭いながら、それでも、楽しそうに言った。麦の穂が擦れる音と、村人たちの掛け声が、絶え間なく、畑いっぱいに、響いていた。
「うん、でも」ぼくは、次の穂に、鎌を入れながら言った。「なんか、気持ちいい」
太陽は、次第に高くなり、麦畑は、朝の澄んだ金色から、昼の、燃えるような黄金色へと、色を変えていった。刈り取られた麦の束が、次々と、畑のあちこちに、積み上げられていく。村人たちの額に、汗が光り、それでも、誰の顔にも、疲労より、達成感が、色濃く浮かんでいた。あちこちから、鎌を研ぐ音や、束ねた麦を運ぶ掛け声が、絶え間なく聞こえてきた。
昼過ぎ、村の女たちが、畑のそばに、大鍋を運んできて、収穫の合間の軽食を、振る舞い始めた。ぼくとミナも、村人たちに混ざって、麦畑を見渡しながら、簡素なパンと、スープを口にした。
「あの隅の畑、覚えてる?」ミナが、麦畑の一角を指しながら言った。「わたしたちが、最初に、種を蒔かせてもらった場所」
「覚えてる」ぼくは、頷いた。「あそこだけ、なんか、特別に見える」
実際には、他の場所と、何も変わらない、ただの一区画だった。それでも、そこには、ぼくらの手の記憶が、確かに、刻まれていた。
「あの日、種を蒔く手つき、本当に、下手だったよね」ミナが、懐かしそうに、笑って言った。
「言うなよ」ぼくは、苦笑した。「一日中、握りすぎたり、開きすぎたりで、全然、うまく撒けなかった」
「でも、最後は、ちゃんと、綺麗な霧になった」ミナは、優しく言った。「あの瞬間のこと、覚えてる。ハルの手のひらから、種が、ふわっと、散っていったの」
ぼくは、その言葉に、胸が熱くなった。あの瞬間の感覚を、ミナも、ちゃんと、覚えていてくれたのだと思うと、なんだか、無性に、嬉しかった。
夕方、日が傾き始める頃、畑の刈り取りは、ほぼ終わりに近づいていた。最後の一区画を刈り終えたとき、村中から、大きな歓声と、拍手が沸き起こった。
「終わったぞ!」バルドさんが、鎌を高く掲げて、叫んだ。「今年の収穫、無事、終わったぞ!」その声は、夕暮れの畑に、大きく、響き渡った。
村人たちが、抱き合い、肩を叩き合い、涙を流す者もいた。長い長い、百八十日の道のりが、この瞬間、ついに、実を結んだのだった。誰もが、その喜びを、隣にいる誰かと、分かち合わずにはいられないようだった。
ノラさんが、ぼくらのところへ、駆け寄ってきた。
「さあ、約束の時間よ」ノラさんは、涙声で言った。「地平線まで、見渡してごらんなさい」
ぼくとミナは、刈り取られた畑の真ん中に立って、辺りを見渡した。まだ刈られていない、遠くの畑の縁まで、夕日を浴びた金色が、地平線の彼方まで、途切れることなく、続いていた。刈り取られた畑には、束ねられた麦の山が、規則正しく並び、それもまた、夕日を受けて、輝いていた。




