明日だね
ミナは、リストの最後に、小さく、こう書き足した。「――ハルに、ちゃんと、ありがとうを言う」
「なんで、それを、リストに」ぼくは、驚いて訊いた。
「言葉にするの、いつも、照れくさくて。だから、リストに書いておけば、いつか、ちゃんと言える気がして」ミナは、頬を赤らめながら、恥ずかしそうに言った。
「今、言えばいいのに」
「今は、まだ、無理」ミナは、笑いながら、目を逸らした。「でも、近いうちに、ちゃんと言う。約束する」
その言葉に、ぼくは、なんだか、無性に、嬉しくなった。約束というものが、こんなにも、心を軽くしてくれるのだと、あらためて、実感した。
日が傾き始めた頃、ぼくらは、丘を下りて、村へ戻った。道すがら、ミナが、ふと、足を止めた。
「ハル、覚えてる? 出発の日、母さんの手帳を見せてもらったとき」ミナが、静かに言った。「あの頃のわたし、旅の意味を、うまく、言葉にできなかった。母さんの代わりに、丸をつけること。それだけしか、考えられなかった」
「今は、違う?」
「違う」ミナは、はっきりと言った。「今は、丸をつけることより、ハルと一緒に、いろんな人に出会って、いろんな景色を見てきたこと自体が、旅の意味になってる。……母さんが遺してくれたのは、行き先のリストだけじゃなくて、この旅そのものだったんだって、今なら、分かる」
ぼくは、その言葉に、深く頷いた。ぼく自身の旅の意味も、いつからか、変わっていた。父さんのカメラで、終わる世界を記録すること。それだけだったはずの目的が、今では、ミナと一緒に生きる、その一瞬一瞬を、大切に刻むことに変わっていた。
「ハルの写真も、変わったよね」ミナが、言った。「最初の頃は、なんていうか、記録するための写真、って感じだった。でも、最近の写真は、なんか、もっと、温かい」
「自分では、あんまり、意識してなかった」ぼくは、正直に言った。「でも、そう言われると、確かに、そうかもしれない」
「撮る対象が、風景から、人の表情に、変わっていった気がする」ミナは、続けた。「トウジさんの涙も、ミミの複雑な顔も、リンさんの踊りも。……ハルは、いつからか、人の心を、撮るようになった」
ぼくは、その分析に、なるほど、と思った。旅を通して、ぼくのカメラの使い方も、確かに、変わっていた。
「変わったね、ぼくらも」ぼくは、感慨深く、言った。
「うん」ミナは、静かに微笑んだ。「でも、いい方に、変わったと思う」
村に近づくと、収穫祭の準備をする村人たちの、賑やかな声が聞こえてきた。誰かが、太鼓の調子を確かめていた。子どもたちが、飾りつけ用の花を摘んで、走り回っていた。その光景は、これから訪れる、大きな一日の、序章のようだった。ぼくとミナは、顔を見合わせて、微笑み合った。
その夜、収穫祭の前夜祭が、村の広場で、ささやかに催された。大掛かりなものではなかったけれど、村中の人々が集まり、明日への期待を、分かち合っていた。
焚き火の周りでは、村の若者たちが、明日の収穫の手順を、確認し合っていた。老人たちは、長椅子に腰掛けて、昔の収穫祭の思い出話に、花を咲かせていた。ぼくは、その賑やかな光景を、何枚も、カメラに収めた。
ノラさんが、ぼくらのところへやってきて、小さな包みを差し出した。
「明日のために」ノラさんは言った。「用意しておいたの」
包みの中には、麦の穂を模した、小さな刺繍の飾りが、二つ、入っていた。
「わたしが、若い頃から続けてる、村の伝統でね」ノラさんは、説明してくれた。「収穫の日に、大切な人に、この飾りを贈るの。……あなたたちに、贈りたくて」
「ありがとうございます」ミナは、その飾りを、大事そうに受け取った。
「この飾り、リオにも、渡したことがあるの」ノラさんは、懐かしそうに言った。「あの子が、村を出る前の年ね。……今も、持ってるといいけど」
「きっと、持ってると思います」ミナが、微笑んで言った。「リオさんの手紙、読んでると、そんな気がします」
「明日は、朝早くから、村総出の収穫になるわ」ノラさんは、続けた。「あなたたちの手帳の丸は、収穫が終わったあと、地平線まで染まった畑の前で、つけてもらいましょう。……その方が、きっと、いい」
ぼくは、その提案に、胸が熱くなるのを感じた。ただ麦を見るだけでなく、村の人々と一緒に、その日を作り上げてから、丸をつける。それは、母さんの願いを、村全体で叶えることに、他ならなかった。
バルドさんも、話に加わってきた。
「明日は、日の出前に、集合だ」バルドさんは、腕まくりをしながら言った。「儂が、先頭を切って、鎌を入れる。……あんたらにも、いちばん最初の一株を、任せようと思っとる」
周りにいた村人たちからも、賛同の声が上がった。誰もが、この特別な収穫を、心待ちにしているようだった。
「ぼくらが、ですか」ぼくは、驚いて訊いた。
「そうだ」バルドさんは、力強く頷いた。「この麦は、あんたらのために、蒔いた麦でもある。最初の一株を刈る権利は、あんたらにこそ、あると思う」
その言葉に、ミナが、涙ぐんだ。
「ありがとうございます」ミナは、声を詰まらせながら言った。
「礼を言うのは、こっちの方だ」バルドさんは、少し照れくさそうに、目を逸らした。「約束を、忘れずにいてくれて、ありがとうな」
夜が更けて、ぼくとミナは、納屋の前で、最後に、もう一度、夜空を見上げた。ヴェルデは、もう、夜空の広い範囲を、緑がかった光で、覆い始めていた。それでも、その光の下で、ぼくらは、静かに、明日への期待を、胸に抱いていた。
「今日、本当に、いい一日だったね」ミナが、しみじみと言った。
「うん」ぼくは、頷いた。「丘に登って、リストを作って。……何でもない一日のはずなのに、特別な一日になった。忘れないと思う、今日のことは」
「明日は、もっと、特別な日になる」ミナは、確信を込めて、微笑んだ。
ぼくは、ミナの手を、そっと握り返した。指先から伝わる温もりが、これから訪れる、大きな一日への、確かな支えになっている気がした。星明かりの下、ぼくらは、しばらく、そのまま、動かなかった。
「ねえ、ハル」ミナが、ふいに、思い出したように言った。「今日作ったリストの、『ハルに、ちゃんと、ありがとうを言う』の項目……もう、言ってもいいかな」
「うん」ぼくは、少し驚きながら、頷いた。
「ありがとう」ミナは、まっすぐに、ぼくの目を見て言った。「わたしの旅に、付き合ってくれて。わたしの、隣にいてくれて。……この旅の、全部に、ありがとう」
ぼくは、その言葉に、胸がいっぱいになって、うまく、返事ができなかった。それでも、ミナの手を、もう一度、強く握り返すことで、精一杯の返事に代えた。
「明日だね」ミナが、ぼくの手を握って言った。
「明日だ」ぼくは、静かに、頷いた。旅の終着点が、すぐそこまで、近づいていた。
(第二十三章 了)




