二人だけのリスト
収穫を明日に控えた朝、村は、すでに、祭りの前のような、浮き立った空気に包まれていた。
女たちは、収穫祭のための料理の下ごしらえを始め、男たちは、脱穀の道具を、丁寧に手入れしていた。子どもたちは、大人たちの周りを、興奮した様子で、走り回っていた。
「今日は、特に、することもないな」バルドさんが、朝食の席で言った。「麦は、もう、儂らの手を離れて、自分の力で、色づいてる。……あんたらは、好きに過ごすといい」
「本当に、何もしなくていいんですか」ミナが、少し落ち着かない様子で訊いた。
「ああ」バルドさんは、笑いながら言った。「農家にとって、一年でいちばん、手持ち無沙汰になる日だ。……種を蒔いてから、収穫までの間、儂らにできることは、実は、そう多くない。あとは、麦の力を、信じて待つだけだ」
その言葉に、ぼくは、なんだか、この旅そのものを、言い当てられているような気がした。準備をして、種を蒔いて、あとは、その先を、信じて、進むしかない。
ぼくとミナは、久しぶりに、何の予定もない一日を、手に入れることになった。旅の間、絶えず何かに追われてきたぼくらにとって、それは、思いのほか、贅沢な時間だった。
「どうしようか」ミナが、少し照れくさそうに言った。
「あの丘に、行ってみない?」ぼくは、提案した。「初めてこの村に来たとき、遠くに見えた、あの丘」
ミナは、頷いた。ぼくらは、朝食のあと、水筒とパンだけを持って、村の外れの、小高い丘へ向かった。
丘の上からは、トゥーレの村と、その向こうに広がる麦畑が、一望できた。緑と金色が入り混じった畑は、風が吹くたび、波のように、色を揺らめかせていた。空は、雲一つない、澄み渡った青さで、その青と、麦畑の色合いが、絶妙な対比を作っていた。
「初めて村に着いた日、この丘は、遠すぎて、登る余裕もなかったね」ミナが、息を整えながら言った。
「うん」ぼくは、頷いた。「あのときは、種蒔きの手伝いで、精一杯だった」
「綺麗だね」ミナが、丘の上に腰を下ろしながら言った。
「うん」ぼくは、隣に座った。「明日には、この景色が、全部、金色になる」ぼくは、目を細めて、その未来の光景を、想像した。
ぼくらは、しばらく、無言で、その景色を眺めていた。やがて、ミナが、静かに、口を開いた。
「ねえ、ハル。収穫が終わったら、わたしたち、どうしよう」
その質問は、アルドの庭で交わした会話の、続きのようなものだった。でも、今度は、もっと、具体的な響きを持っていた。
「まだ、決めてない」ぼくは、正直に答えた。「でも、考えてはいる。ちゃんと、真剣に」
「わたしも」ミナは、膝を抱えて、続けた。「手帳には、まだ、丸のついていない行が、いくつも残ってる。……全部、回りきれるとは、思えない」
「それでも、いい」ぼくは、続けた。「全部、回れなくても、回った場所の一つ一つが、ちゃんと、意味を持ってる。……それは、確かなことだと思う」
「うん」ミナは、頷いた。「丸がつかなかった場所も、きっと、ちゃんと、心のどこかに、残ってる」
「それでも、行けるところまで、行こうと思ってる」ぼくは、言った。「それが、ぼくらにできる、いちばんのことだから」
ミナは、小さく頷いて、それから、少し違う話を、切り出した。
「もし……もし、時間が、本当に、少なくなってきたら」ミナの声が、わずかに震えた。「わたしたちは、どこで、最後の日を、迎えたいと思う?」
ぼくは、その質問に、すぐには、答えられなかった。これまで、意識的に、考えないようにしてきた問いだった。風が、丘の草を、さらさらと揺らして、通り過ぎていった。
「分からない」ぼくは、正直に言った。「でも、一つだけ、はっきりしてることがある。……ミナの隣であること。それだけは、譲れない」
「うん」ミナは、涙ぐみながら、微笑んだ。「わたしも、同じ気持ち」
「場所は、まだ、決めなくていいと思う」ぼくは、続けた。「双月岬みたいに、綺麗な景色のある場所かもしれないし。ハウデンの、ぼくの生まれた町かもしれない。ソネルの、あの海かもしれない。……それとも、この、トゥーレの丘かもしれない」
「今、この瞬間も、候補の一つ?」ミナが、少し笑って訊いた。
「うん」ぼくは、頷いた。「悪くない候補だと思う。……静かで、見晴らしがよくて、ミナと一緒にいられる。それだけで、十分な条件だ」
ミナは、声を上げて、笑った。深刻な話のはずなのに、その笑い声は、不思議なくらい、明るかった。丘を渡る風が、その笑い声を、遠くまで、運んでいくようだった。
「わたしね」ミナは、笑いを収めて、続けた。「怖くないと言ったら、嘘になる。でも、こうやって、ハルと、真剣に、その話ができることが、なんだか、救いになってる」
「救い?」
「うん。一人で抱えてたら、たぶん、怖さに、押しつぶされてた」ミナは、丘の下の麦畑を見つめながら言った。「でも、二人で分け合うと、怖さも、半分になる気がする。……いや、半分どころか、もっと軽くなる気がするの」
「不思議だよね」ぼくは、言った。「怖さは、消えないのに、軽くなる」
「消えなくても、いいんだと思う」ミナは、静かに言った。「ソラ湯のセツさんが、言ってたよね。終わりってのは、来る来ないの話じゃなくて、それでも今日を続けるかどうかの話だって。……怖さを抱えたまま、それでも、今日を、大事に生きる。それでいいんだと思う」
ぼくは、その言葉に、深く頷いた。旅の中で出会った、いろんな人たちの言葉が、こうして、ミナの中に、しっかりと根を張っているのを感じた。
「ぼくらだけの、リスト、作ってみない?」ぼくは、思いついて言った。「ミナのお母さんの手帳とは、別に。ぼくらが、二人で、やりたいこと」
「いいね」ミナは、目を輝かせた。「何を、書く?」
ぼくは、手近な紙切れを取り出して、鉛筆を構えた。ミナも、身を乗り出して、覗き込んできた。
「まず、一つ目」ぼくは、指を折りながら言った。「収穫祭で、村のみんなと、思いっきり踊る。……フェリスの舞台みたいに、上手じゃなくてもいいから」
「それ、いいね」ミナは、声を立てて、笑った。「二つ目は、わたしが決めていい?」
「もちろん」
「ハルが撮った写真を、全部、順番に並べて、見返す時間を作る」ミナは、少し照れながら言った。「旅の記録、まだ、ちゃんと、最初から最後まで、見たことないから」
「いいね、それ」ぼくは、頷いた。「三つ目は……」ぼくは、少し考え込んで、続けた。「トゥーレの、この村の、収穫祭の料理を、心ゆくまで、味わい尽くす」
ぼくらは、それから、しばらく、リストを作り続けた。大袈裟なことは、一つもなかった。星を見る。焚き火を囲む。手紙を書く。ミナの好きな歌を、一緒に口ずさむ。市場でお揃いの何かを買う。雨の日に、傘を一つで、寄り添って歩く。どれも、旅の中で、すでに何度もやってきたことばかりだったけれど、それを、あらためて、意識的に、大切にしようという気持ちが、ぼくらの中に、芽生えていた。
「こういうの、いいね」ミナが、リストを見返しながら言った。「特別なことじゃなくて、当たり前のことを、当たり前じゃないものとして、大事にする」
「うん」ぼくは、頷いた。「たぶん、それが、いちばん、大事なことなんだと思う」
「あと、もう一つ、書いていい?」ミナが、少し照れながら言った。
「もちろん」




