もうすぐ、地平線まで黄金に
ノラさんも、涙ぐみながら、話に耳を傾けていた。
「あなたたちの手帳、見せてもらってもいい?」ノラさんが、遠慮がちに訊いた。
ミナは、頷いて、手帳を差し出した。ノラさんは、その手帳を、丁寧にめくりながら、一つ一つの丸を、確かめるように見ていった。
「こんなに、たくさんの場所に、丸がついてる」ノラさんは、感慨深そうに言った。「お母さんも、きっと、喜んでるわ」
「あと少しで、また一つ、増えます」ミナは、東の畑の方角を見つめながら、静かに言った。
夜が更けて、バルドさんとノラさんが、それぞれの家へ戻ったあと、ぼくとミナは、納屋の前で、二人きりになった。焚き火の炎が、静かに、ぱちぱちと爆ぜていた。虫の声が、遠くから、途切れ途切れに聞こえていた。
「五日後だね」ミナが、炎を見つめながら言った。
「五日後」ぼくは、静かに、頷いた。
「怖い?」ミナが、ふいに訊いた。
「怖くはない」ぼくは、少し考えてから、答えた。「でも、緊張はしてる。……ずっと、目指してきた場所だから」
「わたしも」ミナは、膝を抱えて、小さく頷いた。「母さんの手帳を持って、ここまで来た。あと五日で、ようやく、いちばん大事な約束が、果たせる」
ぼくは、ミナの横顔を、そっと見つめた。旅立った日のミナと、今のミナと。表情も、佇まいも、確かに、何かが変わっていた。それでも、手帳を大事に抱える仕草だけは、あの日から、少しも変わっていなかった。
「ミナ」ぼくは、思い切って言った。「この五日間、ゆっくり、村で過ごそう。急ぐ理由は、もうない」
「うん」ミナは、微笑んだ。「久しぶりに、何もない時間を、過ごそうか」
焚き火の向こうに、緑の星が、長い尾を引いて、輝いていた。あの夜、初めて見上げたときよりも、ずっと大きく、ずっと近くに、その光は、迫っていた。それでも、ぼくらの心は、不思議なほど、静かだった。
翌日から、ぼくらは、村での穏やかな日々を、大切に過ごした。朝は、バルドさんと一緒に、畑の見回り。昼は、ノラさんの図書館で、種子の整理を手伝った。夕方には、村の子どもたちと、楡の木の下で遊ぶこともあった。あの火事の夜に助けたリオの姿と、今、無邪気に駆け回る子どもたちの姿が、ぼくの中で、静かに重なった。
図書館の種子室には、あの火事の焦げ跡が、うっすらと、まだ残っていた。ノラさんは、その跡を、あえて塗り直さずに、残しているのだという。
「忘れないための、印よ」ノラさんは、焦げ跡を撫でながら言った。「あの夜、リオが、命がけで運び出してくれた種と台帳。……その重みを、忘れたくないの」
三日目の朝、村に、一通の手紙が届いた。差出人の名前を見て、ノラさんの顔が、ぱっと明るくなった。
「リオからだわ」
手紙には、几帳面な字で、近況が綴られていた。南の街での種配りの様子、出会った人々のこと、そして、最後に、こう書かれていた。
――収穫の日には、間に合わないと思う。でも、心は、いつも、あの畑と一緒にいる。姉さんと、あの旅の二人に、よろしく伝えてくれ。
「間に合わないんですね」ミナが、少し残念そうに言った。
「仕方ないわ」ノラさんは、手紙を、大事そうに胸に抱いた。「あの子は、あの子の旅を、続けてるんだもの。……それでいいのよ」
ぼくは、その言葉に、深く頷いた。旅の途中で出会った誰もが、それぞれの場所で、それぞれの選択をしながら、生きている。誰の旅も、間違っていない。ただ、それぞれの答えが、あるだけなのだと思った。
「わたしたちの旅も、いつか、誰かに、そう思ってもらえるといいな」ミナが、手紙を見つめながら、ぽつりと言った。
「なると思う」ぼくは、答えた。「少なくとも、この村では、もう、そうなってる」
四日目の午後、ぼくは、カメラを持って、村のあちこちを歩き回った。あの日、初めてこの村を訪れたときに撮った写真と、同じ構図で、今の村を撮ってみたくなったのだ。楡の木、村役場、種子の図書館。同じ場所なのに、写る光の色が、なんだか、少し違って見えた。
「何を撮ってるの」ミナが、後ろから、声をかけてきた。
「あの頃と、今の村を、比べてみたくて」ぼくは、答えた。「同じ場所なのに、なんか、違う気がして」
「変わったのは、村じゃなくて、わたしたちかもね」ミナは、隣に立って、同じ景色を見つめながら言った。
その通りかもしれない、とぼくは思った。景色は、あの日から、そう大きくは変わっていない。変わったのは、それを見る、ぼくらの目の方だった。
ぼくは、あの日撮った、種蒔きを終えたばかりの、何も生えていない畑の写真を思い出していた。あのとき、写真には何も写っていないと思っていたけれど、今なら分かる。あの土の下には、この日のための、何百万粒もの種が、確かに、眠っていたのだ。
夕暮れ、東の畑に、二人で足を運んだ。麦の穂は、まだ、青々としていたけれど、よく見ると、穂先に、ほんのわずかに、金色の兆しが、覗き始めていた。
「もうすぐだね」ミナが、その穂に、そっと触れながら言った。
「うん」ぼくは、頷いた。「もうすぐ、地平線まで、黄金になる」
風が、畑を渡って、麦の葉を、さらさらと揺らした。その音は、まるで、何かを、静かに祝福しているようだった。ぼくらは、しばらく、手を繋いだまま、その音に、耳を澄ませていた。夕日が、畑の向こうに、ゆっくりと沈んでいくのを、二人で、黙って見送った。
その夜、バルドさんが、珍しく、酒瓶を片手に、納屋を訪ねてきた。
「明後日には、いよいよ、収穫だ」バルドさんは、杯を傾けながら言った。「儂も、正直、この日を、迎えられるとは、思っとらんかった」
「思ってなかった、って」ぼくは、訊いた。
「百八十日麦を蒔いたときは、な」バルドさんは、少し遠い目をした。「終わりの半月前に実る麦を蒔くなんて、正気の沙汰じゃないと、自分でも思っとった。……それでも、蒔いた。理由は、あんたらに話した通りだ。麦は、人間の都合で、暦を止めたりせん」
「後悔、してませんか」ミナが訊いた。
「これっぽっちも」バルドさんは、きっぱりと言った。「あと二日で、あの畑は、地平線まで、黄金になる。それを、あんたらと一緒に見られる。……こんな幸せなことが、他にあるか」
バルドさんの声には、迷いも、後悔も、微塵も感じられなかった。ただ、深い満足だけが、そこにあった。
ぼくは、その言葉に、胸が熱くなるのを感じた。約束の日は、もう、すぐそこまで、迫っていた。
「ノラさんも、明後日は、朝から、畑に来るそうだ」バルドさんは、続けた。「村中総出で、収穫を祝う。……あんたらも、もちろん、主役の一人だ」
「主役だなんて、そんな」ミナは、照れくさそうに言った。
「いいや」バルドさんは、きっぱりと言った。「あんたらが、あの約束を、覚えてて、戻ってきてくれたから、今年の収穫は、いつもと違う意味を持つんだ。……胸を張って、主役をやってくれ」
窓の外、夜空に、緑の星が、大きく、輝いていた。その光を見上げながら、ぼくは、この五日間の穏やかな時間を、心の奥に、しっかりと刻みつけた。明後日、麦畑が黄金に染まるとき、ぼくらの旅は、一つの、大きな到達点を迎える。
(第二十二章 了)




