二十五日
ロアを発って三日、ぼくらは、小さな中継の街アルドに降り立った。
これといって特別な名所もない、ただの乗り換えの街だった。それでも、ここで一晩を明かさなければ、次の便には間に合わない。
駅前には、小さな市場と、数軒の宿があるだけだった。旅人たちが、ひっきりなしに行き交い、荷物を担いだ人々が、足早に、乗り換えの列車を探して歩いていた。誰もが、それぞれの目的地を持って、それぞれの理由で、この街を通り過ぎていく。ぼくらも、その中の、ただの一組に過ぎなかった。
宿の窓から見上げた夜空で、ぼくは、思わず、息を呑んだ。
ヴェルデが、もう、緑の点ではなかった。尾を引く彗星そのものの形が、肉眼で、はっきりと見える大きさになっていた。旅に出た夜、あんなに小さかった光が、今は、夜空の四分の一近くを、緑がかった靄で覆っていた。
「大きくなったね」ミナが、隣で、同じ空を見上げながら言った。
「うん」ぼくは、頷いた。声が、少し掠れた。
夕食を終えたあと、ぼくらは、宿の食堂の隅で、久しぶりに、手帳を広げて、これまでの旅を、じっくりと、数え直した。丸のついた行、丸のついていない行。
ソネルの海。カルカの火の祭り。世界でいちばん大きな時計台。ふたつの月が、ならんで沈む岬。クレアの孤児院。光る鍾乳洞の、地底の星空。彩り谷。世界でいちばん大きな滝。ページをめくるたび、いろんな街の顔が、いろんな人たちの声が、蘇ってきた。ガンテさんの錆びた船。セリの流した送り火。ゲルダ先生の教室。トウジさんの、名乗らない優しさ。数えきれないほどの出会いが、この手帳の余白に、刻まれていた。
そして、あの、いちばん大事な約束。
「――やくそく。百八十日後」
ミナが、その文字を、指でなぞった。声には出さなかったけれど、二人とも、頭の中で、同じ計算をしていた。
宿の主人が、ぼくらの手元の手帳に気づいて、声をかけてきた。
「トゥーレに、向かうのかい」主人は、老齢の男だった。「あそこの麦は、今年、えらい評判だよ。……行商人仲間から聞いた話じゃ、もうじき、色づき始めるころだろうってな」
「トゥーレを、ご存じなんですか」ミナが、思わず、身を乗り出して訊いた。
「知ってるも何も、儂の従兄弟が、あの村の出でな」主人は、懐かしそうに言った。「百八十日麦の噂は、この辺りでも、ちょっとした話題になってるよ。世界が終わる直前まで、律儀に実る麦があるってな」
「不思議な噂ですよね」ミナが、少し嬉しそうに言った。
「不思議というより、あの村の連中らしい話だよ」主人は、笑った。「損得抜きで、律儀なことを、最後までやり通す。……儂の従兄弟も、似たような気質だったからな」
ぼくは、その言葉に、バルドさんの、土の上に指で日付を書いた、あの日のことを思い出していた。あのとき、百八十日という数字は、まだ、遠い未来の話のように感じられた。ずいぶん遠い昔のことのように感じたけれど、指折り数えれば、まだ、そう長い月日は経っていなかった。
「あと、どれくらいで、着けますか」ぼくは、地図を広げながら訊いた。
「乗り継ぎがうまくいけば、十日ってところだろう」主人は、答えた。「オルガ平原まで出て、そこから、馬車で二日ばかりだ」
「十日……」ミナが、小さく呟いた。
「急いでるのかい」主人は、ぼくらの顔を見比べて言った。
「約束があるんです」ぼくは、答えた。「麦の収穫まで、間に合わせたい約束が」
「そうかい」主人は、少し目を細めた。「なら、急いだ方がいい。この時季は、天候が荒れやすくてな。予定通りに行くとは、限らんから」
その忠告に、ぼくらは、思わず、顔を見合わせた。順調にいって十日。もし、何か、遅れが生じたら。
十日。ぼくは、頭の中で、その数字を、何度も繰り返した。約束の日まで、二十五日。間に合う。ぎりぎりだけれど、間に合う。
翌朝、アルドの街を歩くと、これまでの街とは、また違う変化に気づいた。店の棚には、空の商品棚が目立ち、閉めたままの店も、いくつかあった。それでも、人々の表情には、悲愴感よりも、むしろ、静かな覚悟のようなものが浮かんでいた。
「この街も、変わってきてるね」ミナが、静かに言った。
「うん」ぼくは、頷いた。「グレンで見た、壊れ始めた頃の街と、少し似てる。……でも、あのときみたいな、混乱はない」
「みんな、もう、覚悟を決めてるからかな」
「かもしれない」
市場の隅で、老婆が、大きな鍋で、何かを煮込んでいた。近づいてみると、それは、炊き出しだった。並んでいる人々は、みな一様に、静かな表情をしていた。
「食べていくかい」老婆が、ぼくらに気づいて、声をかけてきた。「旅の者だろう。遠慮はいらないよ」
温かいスープを受け取りながら、ぼくは、この旅で見てきた、いくつもの炊き出しの光景を思い出していた。グレンのスープ。エアリオの配給。ドーバの食事会。形は違っても、誰かが誰かに、食べ物を分け与える光景は、旅のあちこちで、繰り返し目にしてきた。
「美味しいです」ミナが、スープを口にして言った。
「そうかい。それは、よかった」老婆は、皺だらけの顔で、微笑んだ。
広場の掲示板には、色褪せた「衝突推定日時、更新のお知らせ」の貼り紙があった。ラゼルで、カイさんたちが、命がけで公表させた情報の、その後の姿だった。日付は、誤差の幅こそあれ、以前よりずっと、具体的なものになっていた。
ぼくは、その貼り紙の前で、しばらく、立ち尽くした。数字として突きつけられる終わりの日付は、これまでの旅で感じてきた、緑の星の大きさよりも、ずっと、生々しい実感を伴っていた。
貼り紙の周りには、他にも、いくつかの掲示があった。避難経路の案内、共同墓地の案内、そして、「最後まで、日常を大切に」と書かれた、街の役場からの呼びかけ。それぞれの街が、それぞれのやり方で、終わりへの向き合い方を、模索しているのが伝わってきた。
「ここも、いろんな人が、いろんな覚悟を、抱えて生きてるんだね」ミナが、掲示板を見上げながら言った。
「うん」ぼくは、頷いた。「通り過ぎるだけの街にも、ちゃんと、暮らしがある」
その当たり前のことを、ぼくは、この旅で、何度も、思い知らされてきた気がした。
「セイラ博士たちの頑張りが、こうして、ちゃんと、街の隅々まで届いてるんだね」ミナが、貼り紙を見上げながら言った。
「うん」ぼくは、頷いた。「知ることが、怖いことばかりじゃないんだって、あの街で、教えてもらった気がする」
広場を離れる道すがら、ぼくらは、何度も、立ち止まっては、夜空を見上げた。ヴェルデは、もう、昼間でも、薄っすらと輪郭が見えるほどになっていた。旅の記録のために、ぼくは、その空を、また一枚、カメラに収めた。旅を通して、何十枚と撮ってきた同じ空の写真だったけれど、どの一枚も、少しずつ、違う大きさの光を、写し取っていた。
夕食のあと、出発を翌日に控えて、ぼくとミナは、宿の裏手の、小さな庭に出た。ヴェルデの光が、庭の敷石を、うっすらと緑色に染めていた。虫の音も、心なしか、いつもより静かに聞こえた。
「ハル」ミナが、静かに、切り出した。「トゥーレに着いたら、麦を見て、丸をつけて。……そのあとの旅、どうする?」




