伝説と現実のあいだで
リンさんは、それでも、不安げな表情を、崩さなかった。
水門の調整は、丸一日続いた。ノエルさんの的確な指示と、街中総出の作業のおかげで、施設は、なんとか、持ちこたえた。
「乗り切ったぞ」ノエルさんが、疲れ果てた声で、それでも、力強く言った。「土砂崩れによる増水は、峠を越えた。あとは、水が引くのを待つだけだ」
その夜、リンさんが、宿を訪ねてきた。
「ノエルさんに、ちゃんと話を聞いた」リンさんは、少し落ち着いた様子で言った。「上流の地図と、雨量の記録。……今回のことは、完全に、自然現象による説明がつくって」
「よかった」ミナが、ほっとした顔で言った。
「うん」リンさんは、頷いた。それから、少し考えて、続けた。「でも、今回のことで、はっきりしたことがある。……わたしは、迷信を信じてたわけじゃなかったんだ。ただ、街のみんなが、不安になったとき、何かのせいにしたくなる気持ちが、怖かった。わたし自身も、その『何か』にされることが」
「今年の踊りは」ぼくは、訊いた。
「やるよ」リンさんは、はっきりと言った。「でも、今までとは、違う気持ちで。……ティア様の涙を鎮めるため、じゃなくて。この街のみんなが、毎年、同じ時期に、同じ場所に集まって、同じ景色を見る。その習わし自体に、意味があるんだって、今は思ってる」
「伝説を、信じてるわけじゃ、ないんですね」ミナが、確かめるように訊いた。
「信じてない、とも言い切れない」リンさんは、少し笑った。「不思議なものだよ。理屈では、迷信だって分かってる。でも、踊りを捧げるたび、なんだか、心が軽くなる瞬間があるんだ。……それが、ティア様のおかげなのか、ただの儀式の効果なのか、正直、どっちでもいい気がしてきた」
三日後、水位が落ち着いた滝のふもとで、鎮魂の踊りが、執り行われた。街中の人々が、滝のふもとに集まり、静かに、その瞬間を待っていた。リンさんは、代々伝わる、水色の衣装に身を包み、滝の轟音に負けないほどの、力強い踊りを、披露した。
その動きは、荒々しくもあり、同時に、優雅でもあった。まるで、滝そのものと、対話をしているようだった。
ぼくは、その姿を、夢中でカメラに収めた。轟く滝と、舞い踊るリンさんと、それを見守る街の人々。何百年と続いてきたであろう光景が、今、目の前で、確かに息づいていた。
踊りが終わると、街中から、盛大な拍手が起きた。リンさんは、息を切らしながら、それでも、晴れやかな顔をしていた。
「どうだった?」リンさんが、汗を拭いながら、ぼくらに訊いた。
「綺麗でした」ミナは、素直に言った。「伝説がどうとか、関係なく。……リンさんが、心を込めて踊ってるのが、伝わってきました」
「うん」リンさんは、微笑んだ。「これからは、その気持ちだけを、大事にしていこうと思う」
踊りのあと、リンさんは、ぼくらに、意外なことを打ち明けた。
「実はね、この踊りを最後に、街を出てみようと思ってるんだ」リンさんは、少し照れくさそうに言った。「役目は、続けるよ。でも、年に一度、この日だけは、必ず街に戻ってくる。それ以外の時間は、自分の好きに使っていいって、家族とも、話し合った」
「それは」ぼくは、驚いて言った。
「家族も、最初は、渋ってたよ」リンさんは、続けた。「でも、今回の土砂崩れの一件で、みんな、気づいたんだと思う。役目を果たすことと、わたしを閉じ込めることは、本当は、別のことだったんだって」
「窮屈だった殻を、少しだけ、破ってみることにしたんだ」リンさんは、晴れやかに笑った。「あなた達の旅の話を聞いて、勇気をもらったよ」
翌朝、ぼくらは、ロアを発つことになった。リンさんと、ノエルさんが、駅まで見送りに来てくれた。
「あなた達が来てくれて、いろんなことが、一気に動いた気がする」リンさんは言った。「土砂崩れも、街のみんなの不安も、わたし自身の迷いも。……全部、乗り越えられた」
「ぼくらは、何も」
「いてくれただけで、十分だったんだよ」リンさんは、微笑んだ。「一人で抱え込んでたことを、誰かに話せただけで、随分、楽になったから」
ミナが、ぼくの手を、そっと握った。
「わたしたちも、いつか、誰かに、抱え込んでたことを、話せる場所を、見つけられるといいね」ミナが、小さく言った。
「ここまでの旅で、もう、十分、話せてる気がするけど」ぼくは、少し笑って言った。
「それもそうか」ミナも、笑った。
ノエルさんも、頭を下げた。
「発電施設のことも、助かりました」ノエルさんは言った。「街の暮らしは、この滝の力で、これからも、支えられていきます。……ロズナや、他の街にも、電気を送り続けられる限り」
「ノエルさんは、これからも、ここに」ぼくは訊いた。
「ええ。この施設を、最後まで、動かし続けるのが、私の役目ですから」ノエルさんは、迷いなく言った。「リンの踊りと、私たちの技術と。……形は違っても、この街を支えるという意味では、同じことをしているんだと思います」
汽車が動き出す。轟音を響かせる大瀑布が、少しずつ遠ざかっていく。ミナは、手帳を開いて、あの一行に、丸をつけた。
――世界でいちばん大きな滝、その轟き。
「母さんも、この音、聞いたら、きっと、しばらく言葉を失ってたと思う」ミナが、丸をなぞりながら言った。
「うん」ぼくは頷いた。「あの轟音、耳の奥に、まだ残ってる気がする」
ぼくは、この旅で見てきた、いろんな「縛られた場所からの一歩」を思い出していた。ジンさんが、峠に戻った一歩。トビさんが、慎重さを覚えた一歩。そして、リンさんが、殻を破った一歩。伝統も、役目も、決して、悪いものじゃない。ただ、それに押しつぶされそうになったとき、少しだけ、はみ出してみる勇気も、同じくらい、大切なのだと思う。
窓の外、夕暮れの空に、緑の星が、長い尾を引いていた。ぼくは、踊るリンさんを撮った、あの一枚を、そっと確かめた。伝説と、現実と、その両方を受け入れながら生きる、一人の女性の強さが、そこには写っていた。
(第二十章 了)




