窮屈だった殻
ノラを発って四日、地響きのような轟音が、遠くから聞こえ始めた。
ミナが、手帳を開いて、声を上げた。
――世界でいちばん大きな滝、その轟き。
「ここも、母さんの手帳にあった」ミナは、興奮を抑えきれない様子で言った。
街の名は、ロアといった。街に近づくにつれ、轟音は、体の芯まで響くほどの大きさになっていった。街の外れに立つと、白銀の大瀑布が、目の前に、その全貌を現した。轟音と、絶え間なく舞い上がる水しぶきに、ぼくらは、しばらく、言葉を失った。
滝のそばには、大きな施設が建っていた。案内してくれた技師長のノエルさんが、その施設を、誇らしげに指した。
「この滝の力で、周辺のいくつもの街に、電気を送っているんです」ノエルさんは、三十代くらいの、聡明な目をした女性だった。「彗星の発表以来、燃料が手に入りにくくなった今、この水力発電は、この地域にとって、命綱のようなものになっています」
「すごい水量ですね」ぼくは、圧倒されながら言った。
「ええ。でも、その水量が、時々、厄介の種にもなるんです」ノエルさんは、少し表情を曇らせた。
施設の中を案内してもらうと、巨大な水車と、それに連動する発電機が、絶え間なく回り続けていた。轟音のせいで、会話は、ほとんど、身振り手振りになった。
「この施設、いつからあるんですか」ぼくは、大声で訊いた。
「私の祖父の代からです」ノエルさんは、声を張り上げて答えた。「代々、技師の家系でしてね。……滝の力を、いかに安全に、無駄なく引き出すか。それが、私たちの仕事です」
その夜、宿で、ぼくらは、街に伝わる、ある伝説の話を聞いた。
「この滝はね、大昔、女神ティアの涙が、そのまま川になったと言われてるんだよ」宿の主人が、教えてくれた。「愛した人を失った悲しみが、尽きることなく流れ落ちてる、ってね。……ロアの街には、代々、ティア様の涙を鎮める役目を負う家系があるのさ。今は、リンという娘が、その役目を継いでる」
「役目、というのは」ミナが訊いた。
「年に一度、滝の真下で、鎮魂の踊りを捧げるのさ」主人は言った。「その踊りが絶えると、ティア様の涙が、荒れ狂うと言われてる。……もっとも、今どきの若いもんは、迷信だと笑う者も多いがね」
翌日、ぼくらは、滝のそばで、リンさんに出会った。ぼくらと同じ年頃の、静かな目をした女性だった。
「観光の人?」リンさんは、ぼくらの荷物を見て言った。
「はい。母の、行きたかった場所なんです」ミナが、手帳を見せながら言った。
「そう」リンさんは、少し複雑な表情を浮かべた。「いいね、旅ができるのは。……わたしは、生まれてから一度も、この街を出たことがないから」
「一度も、ですか」ぼくは、驚いて訊いた。
「うちの家系は、代々、この街を出ないのが、決まりだから」リンさんは、静かに言った。「ティア様の涙を鎮める役目は、片時も、街を離れられない。……小さい頃から、そう教えられて育った」
「窮屈じゃ、ないんですか」
「窮屈だよ」リンさんは、初めて、素直な本音を漏らした。「正直、迷信だと思ってる部分もある。……でも、代々続いてきた役目を、自分の代で、投げ出すのも、怖いんだ。もし、本当に、何か意味があったとしたら。わたしがやめたせいで、街に何かあったら」
リンさんの言葉には、伝統への誇りと、それに縛られる息苦しさが、同時に滲んでいた。
「友達とか、いないんですか」ミナが、心配そうに訊いた。
「街の中には、いるよ」リンさんは、寂しそうに笑った。「でも、街の外に、憧れたことがない、って言ったら、嘘になる。……旅の話とか、聞くたび、少し、胸が痛くなるんだ」
「彗星のことは」ミナが、遠慮がちに訊いた。
「複雑だよ」リンさんは、ため息をついた。「世界が終わるなら、この役目にも、意味がなくなるんじゃないかって、思うようになった。……でも、それを認めるのも、なんだか、怖くて」
「認めたら、何が、怖いんですか」ぼくは、訊いた。
「役目のために、我慢してきた時間が、全部、無駄だったって、認めることになる気がして」リンさんは、俯きながら言った。「だったら、いっそ、最後まで、信じ切ったふりをしていた方が、楽なんじゃないかって、思うときもある」
その本音には、若さゆえの葛藤と、それでも捨てきれない誇りが、複雑に絡み合っているように見えた。
事件が起きたのは、その二日後だった。
上流で、大規模な土砂崩れが発生し、川の流れが、一時的に、大きく変化した。滝の水量が、異常に増し、発電施設が、危険な状態に陥った。
「このままだと、施設が、水に呑まれる」ノエルさんは、青ざめた顔で、指示を飛ばしていた。「水門を、手動で調整するしかない。……危険な作業だが、やるしかない」
ぼくとミナも、土のうを運び、水門の操作を手伝う作業に加わった。轟音の中、怒号のような指示が飛び交い、誰もが、必死だった。水しぶきが、容赦なく全身に降り注ぎ、足元は、絶えず滑りやすかった。一歩間違えば、増水した川に、呑まれかねない状況だった。
「気を抜くな! 声を掛け合って進め!」ノエルさんの声が、轟音を切り裂いて響いた。
その騒動の最中、街の人々のあいだで、不穏な噂が広まり始めた。
「リンが、今年の踊りを、迷ってるって聞いたぞ」誰かが言った。「それで、ティア様が、お怒りになったんじゃないか」
「そんな馬鹿な」別の誰かが言い返した。「土砂崩れだろう。ただの自然現象だ」
「いや、分からんぞ。昔から、踊りが乱れた年は、悪いことが起きるって、言い伝えがある」
賛否入り混じった声が、水しぶきの中、飛び交った。長年信じられてきた言い伝えは、こういう時、思いのほか、強い力を持つものらしかった。
噂は、あっという間に、リンさんの耳にも届いた。彼女は、青ざめた顔で、施設の外に立ち尽くしていた。
「わたしのせいなのかな」リンさんは、震える声で、呟いた。「踊りを、迷ったから」
「違います」ぼくは、きっぱりと言った。「上流の土砂崩れです。ノエルさんも、そう言ってました。……ティア様のせいじゃない」




