手放すことも、愛の形
ミミは、何も言わずに、ユキの毛並みに、顔を埋めた。
「わたしは、シンって子に、会ったことがある」ミナが、静かに言った。「孤児院の子でね。ミミと同じで、大事なものを、失うのが、怖い子だった。……でも、あの子は、期待することを、諦めないって、選んだんだ」
「ユキを手放すのと、それ、同じなの」
「同じじゃないかもしれない」ミナは、正直に言った。「でも、ミミが、ユキを、本当の意味で、大好きだったら……ユキが、いちばん幸せになれる場所に、送り出してあげることも、大好きの一つの形だと思う」
「怖いよ」ミミは、涙をぼろぼろこぼしながら言った。「ユキがいなくなったら、また、独りになる。また、独りで、寂しい思いをするの、嫌だよ」
ぼくは、その言葉に、何も言えなかった。代わりに、レイラさんが、小屋の入り口から、静かに歩み寄ってきた。
「ミミ」レイラさんは、ミミの前に、膝をついた。「独りには、させません。約束します。ユキがいなくなっても、私がいます。ここにいる、みんなが、あなたの味方です」
「本当に」
「本当です」レイラさんは、ミミの手を、そっと握った。「あなたは、もう、独りぼっちじゃないんですよ、ミミ」
ぼくとミナも、その場に、しゃがみこんだ。
「わたしたちも」ミナが、優しく言った。「今日、ここにいるあいだだけかもしれないけど……ミミの味方だよ」
ミミは、ぼくらの顔を、順番に見て、それから、小さく、洟をすすった。
ミミは、長い間、黙っていた。それから、震える声で、ユキに向かって言った。
「……ユキ。行きたい? 新しい群れのところ」
ユキは、答える代わりに、ミミの頬を、そっと舐めた。それが、答えなのだと、ミミにも、分かったようだった。
その二日後、ミナが世話をしていた若鷹の、翼の包帯が取れた。試しに、柵の外に出してみると、鷹は、一度、大きく羽ばたいて、青空に飛び立っていった。
「行っちゃった」ミナは、少し寂しそうに、それでも、晴れやかな顔で、空を見上げた。
「寂しい?」ぼくは訊いた。
「うん、寂しい」ミナは、頷いた。「でも、あの子が、ちゃんと自分の力で飛んでるのを見たら、寂しさより、嬉しさの方が、勝った気がする」
その光景を、少し離れた場所で、ミミも、じっと見つめていた。
三日後、ユキを送り出す日が来た。ミミは、朝から、ユキの毛並みを、丁寧に整えていた。まるで、旅立つ家族を見送るときのように。手には、小さな布切れを持っていて、それを、ユキの首輪に、そっと結びつけた。
「これ、わたしの服の切れ端。……新しい群れで、寂しくなったら、匂いを嗅いでね」ミミは、涙をこらえながら、ユキに囁いた。
レイラさんが、荷馬車の準備をしながら、ぼくらに、道中の話をしてくれた。
「ユキが向かう保護区は、山を三つ越えた先です」レイラさんは言った。「そこには、群れを率いる資格を持つ、雌の狼がいます。相性が良ければ、いずれ、ユキが、次のリーダーになるでしょう」
「相性が悪かったら」ミナが訊いた。
「別の群れを、探すだけです」レイラさんは、あっさりと言った。「狼だって、一度で運命の相手に出会うとは、限りません。……それは、人間も、同じでしょう」
「格好よく、行ってきてね」ミミは、ユキの首元に、顔を埋めて言った。「新しい群れで、いちばん、強いリーダーになるんだよ」
ユキを運ぶ荷馬車が、保護区を出発する。ミミは、涙を堪えながら、最後まで、手を振り続けた。荷馬車が見えなくなるまで、彼女は、その場から、一歩も動かなかった。
「寂しく、なりますね」ぼくは、隣に立つレイラさんに言った。
「なるでしょうね」レイラさんは、頷いた。「でも、ミミは、今日、大事なことを、学んだと思います。……大好きな相手を、自分のそばに留めておくことだけが、愛情の形じゃないということを」
その夜、レイラさんは、ミミに、新しい役目を与えた。保護区に新しく運ばれてきた、怪我をした子ぎつねの世話を、任せることにしたのだった。
「これで、寂しさが、すぐに埋まるわけじゃありません」レイラさんは、ぼくらに言った。「でも、また、誰かの役に立てるということが、あの子には、必要な気がして」
ミミは、最初、子ぎつねに、あまり関心を示さなかった。それでも、次の日の朝、そっと様子を見に行くと、彼女は、震える子ぎつねに、毛布をかけてやっているところだった。
「まだ、ユキの代わりじゃ、ないけど」ミミは、ぼくらに気づいて、少し照れくさそうに言った。「この子も、独りぼっちみたいだから」
その姿に、ぼくは、ミミの中で、何かが、少しずつ動き始めているのを感じた。
その日の午後、ぼくらは、ノラを発つことになった。ミミが、小さな子ぎつねを抱いて、駅まで見送りに来てくれた。
「ユキのこと、覚えててね」ミミは、少し照れくさそうに言った。
「もちろん」ぼくは、頷いた。「絶対、忘れない」
「わたしも、ユキのこと、忘れない」ミミは、腕の中の子ぎつねを、そっと抱き直しながら言った。「でも、忘れないのと、寂しいのは、別々に、あっていいんだって、レイラさんが、教えてくれた」
その言葉は、八歳の子どもが口にするには、随分と大人びた言葉だった。それでも、ミミの顔には、確かな成長の跡が、見て取れた。
汽車が動き出す。緑豊かな保護区が、少しずつ遠ざかっていく。ミナは、手帳を開いて、余白のページに、一行、書き足した。
――手放すことも、愛の形だと知った街。
ぼくは、この旅で見てきた、いろんな「手放し方」を思い出していた。フェリスのマーゴが、嘘の結末を手放した強さ。ミラさんが、十五年間、足を踏み入れなかった場所を、また歩き出した強さ。そして、ミミが、ユキを送り出した強さ。手放すことは、失うこととは、たぶん、少し違う。大事なものを、大事なまま、自分の手の届かない場所へ、送り出す勇気なのだと、ぼくは思った。
ミナが、ぼくの手を、そっと握った。
「わたしたちも、いつか、何かを手放す日が、来るのかな」ミナが、静かに言った。
「来るかもしれない」ぼくは、答えた。「でも、今は、まだ、手放す日のことより、隣にいる今のことを、大事にしたい」
「うん」ミナは、少し微笑んで、ぼくの肩に、頭を預けた。
窓の外、夕暮れの空に、緑の星が、長い尾を引いていた。ぼくは、ユキを見送るミミの、あの複雑な表情を撮った一枚を、そっと確かめた。悲しみと、誇らしさが、同時に浮かんだ、忘れられない顔だった。
(第十九章 了)




