独りぼっちになるのが怖い
フロリスを発って三日、ぼくらが降り立った街の外れには、木々に囲まれた、広大な動物保護区が広がっていた。
保護区の街ノラ。怪我をした野生動物や、親を失った子どもの動物たちを保護し、育てている場所だった。柵の向こうには、鹿や、鳥や、様々な動物たちの姿が見えた。彗星の発表以来、ここでも、切実な問題を抱えているのだと、出迎えてくれた飼育長のレイラさんが教えてくれた。
「残り時間が見えてきた今、この子たちを、どうするか」レイラさんは、四十代くらいの、日に焼けた女性だった。「野生に帰せる子は、少しでも早く、自然に返してあげたいんです。……その方が、この子たちにとって、幸せだと思うので」
「保護区自体は、これからも、続けるんですか」ぼくは訊いた。
「続けられる限りは、ですね」レイラさんは、少し寂しそうに笑った。「世話をする人間がいなくなったら、この子たちは、路頭に迷います。……だからこそ、今のうちに、一頭でも多く、自立できる子を、送り出しておきたいんです」
こうして、ぼくらは、保護区の手伝いをすることになった。餌やり、柵の修理、怪我をした動物たちの包帯替え。ミナは、意外にも、鳥の世話が得意で、翼を痛めた若鷹に、根気強く餌を与え続けていた。
「鳥って、警戒心が強いのに、ミナには、随分懐いてるね」ぼくは、その様子を見て言った。
「気長に待つのが、コツみたい」ミナは、鷹から目を離さずに言った。「向こうから、心を開いてくれるまで、じっと、待つの」
その言葉は、まるで、これから起こることを、先取りしているようだった。
作業の合間、レイラさんが、動物たちの記録簿を片手に、見回りをしているところに、ぼくらは、また出くわした。どの子を、いつ、どこへ送り出すか。記録簿には、そうした判断の跡が、几帳面な字で、びっしりと書き込まれていた。
「難しい判断もあるんですか」ミナが訊いた。
「あります」レイラさんは、少し表情を曇らせた。「特に、人に育てられて育った子は、野生に帰るのに、時間がかかります。……その時間が、私たちには、もう、あまり残されていません」
保護区の奥、木製の柵で囲まれた区画で、ぼくらは、一人の少女に出会った。ミミという、八歳くらいの女の子だった。彼女の隣には、灰色の毛並みをした、若い狼が、寄り添うように座っていた。狼にしては、随分と人懐こい様子で、ミミの手を、甘えるように舐めていた。
「この子は、ユキっていうの」ミミは、狼の頭を撫でながら、少し誇らしげに言った。「三年前、群れが崩落に巻き込まれて、赤ちゃんのユキだけ、助かったの。わたしが、ミルクをあげて、育てたんだよ」
「三年も、一緒にいるんだね」ぼくは言った。
「うん」ミミは、胸を張って言った。「ユキが来てから、ずっと、わたしが、お世話係だったの」
「仲良しなんだね」ミナが、優しく言った。
「うん」ミミは、頷いた。それから、少し不安そうな顔で、レイラさんの方を見た。「でも、レイラさんが、ユキを、遠くの保護区に、放しに行くって……知らない狼の群れに、入れるって」
「それは、ユキのために、いちばんいい選択なんです」レイラさんが、静かに言った。「ユキは、もう、立派な大人の狼です。……人間と一緒に、いつまでもいるのは、あの子の本当の幸せじゃありません」
「わたしと一緒にいたら、幸せじゃないの」ミミの声が、震えていた。
レイラさんは、その質問に、すぐには、答えられなかった。
その夜、宿で、レイラさんが、ミミの事情を、詳しく教えてくれた。
「ミミの両親は、彗星の混乱の中で、行方が分からなくなったんです」レイラさんは、静かに言った。「保護区の職員が、身寄りのないミミを、引き取りました。……それからずっと、ミミにとって、ユキだけが、心の支えだったんです」
レイラさんは、湯呑みを両手で包みながら、続けた。
「本当は、私も、ユキを、手元に置いてやりたい気持ちが、ないわけじゃないんです」レイラさんは、正直に言った。「でも、飼育員として、動物の幸せを、いちばんに考えなければなりません。……人の情と、動物のためになることが、いつも一致するとは、限らないんです」
「それで、今、送り出そうとしてるんですね」ぼくは言った。
「はい」レイラさんは、頷いた。「でも、来月には、遠くの保護区で、群れを率いる機会が、ユキに巡ってきます。この機会を逃したら、ユキは、一生、群れを持てないまま、ここで、生きることになります。……それは、狼として、あまりに寂しい人生です」
「ミミには、そのこと」
「話しました」レイラさんは、辛そうな顔をした。「でも、あの子は、頭では分かっていても、心が、追いついていないんだと思います」
その言葉を裏付けるように、翌朝、ミミの姿が、保護区から消えていた。ユキの姿も、一緒に。
レイラさんは、すぐに、保護区中に、声をかけて回った。ぼくとミナも、捜索に加わった。
「もし、ユキが、本気で走ったら」レイラさんは、青ざめた顔で言った。「ミミの足じゃ、追いつけません。……森には、まだ、野生の熊も出ます。急がないと」
その一言に、ぼくの背筋が凍った。ただの家出とは、わけが違う。森の奥は、危険と隣り合わせの場所だった。
「森の奥の、古い見張り小屋に、心当たりがあります」レイラさんは、地図を広げながら言った。「ミミが、時々、ユキと二人で、こっそり行っていた場所です」
森へ向かう道すがら、ミナが、ぼくの手を、そっと握った。
「わたしたち、双月岬で、言葉を交わしたよね」ミナが、歩きながら言った。「あのとき、もし、ハルが、隣にいなかったら……わたしも、ミミみたいに、何かにしがみついてたのかもしれない」
「ミナは、しがみつく代わりに、旅を選んだんだと思う」ぼくは、答えた。「手帳を抱えて、前に進むことを」
「うん」ミナは、少し微笑んだ。「でも、その手帳だって、ある意味、しがみついてるものだから。……ミミの気持ち、他人事とは思えないんだ」
見張り小屋に着くと、案の定、ミミが、ユキを抱きしめるようにして、うずくまっていた。
「ミミ」レイラさんが、声をかけた。「大丈夫ですから、戻りましょう」
「嫌だ」ミミは、ユキを強く抱きしめて言った。「ユキを、連れて行かないで。……ユキがいなくなったら、わたし、また、独りぼっちになる」
ぼくは、その言葉に、少し前のシンの姿を思い出した。手放すことへの恐怖は、形は違っても、根っこは、似ているのかもしれない。
「ミミ」ミナが、静かに、ミミの隣に腰を下ろした。「ユキのこと、大好きなんだね」
「大好き」ミミは、涙をこぼしながら言った。「家族が、いなくなって……ユキだけが、わたしの、家族みたいだった」
ミナは、しばらく、ユキの背中を、そっと撫でた。ユキは、落ち着かない様子で、時折、小屋の外の森の方角に、鼻を向けていた。
「見て、ミミ」ミナが、静かに言った。「ユキ、さっきから、ずっと、森の方を気にしてる」
「……知ってる」ミミは、小さく言った。「最近、ずっと、こう。夜になると、遠くで、狼の遠吠えが聞こえるの。ユキ、それに応えるみたいに、遠吠えすることも、増えた」
「それって」ぼくは、言葉を選びながら言った。「ユキが、自分の居場所を、探し始めてる、ってことじゃないかな」




