受け継ぐということ
夜明け前が、いちばんの山場だった。気温計の針が、氷点を、わずかに下回った。タクミさんの顔が、青ざめた。
「もう少しだ……もう少し、耐えてくれ……」
ぼくらは、全員で、祈るような気持ちで、その瞬間を見守った。花びらの縁に、うっすらと霜の気配が、忍び寄っているのが見えた。タクミさんは、震える手で、さらに薪を足し、煙の層を、少しでも厚くしようとした。誰も、口を利かなかった。ただ、燃え上がる炎の音と、自分の心臓の音だけが、やけに大きく聞こえた。
夜明けとともに、気温は、少しずつ、上がり始めた。タクミさんが、花の一つ一つを、丁寧に確かめて回った。
「……大丈夫だ」タクミさんは、安堵の息を吐いた。「花は、無事だ。全部、乗り切った」
谷のあちこちで、疲れきった庭師たちが、歓声を上げた。ぼくも、煙で真っ黒になった顔で、思わず、笑ってしまった。
「あと一日で、満開だ」タクミさんは、涙ぐみながら言った。
その頃、見晴らし宿では、別の緊張が走っていた。ぼくらが駆けつけると、ウメさんの容体が、急変していたのだった。付き添いの医者が、難しい顔で、脈を確かめていた。ウメさんの娘だという女性が、その傍らで、震える手を握りしめていた。
「もう、長くは……」医者が、静かに言った。
タクミさんが、その報せを聞いて、血相を変えた。
「あと一日、待てないんですか」タクミさんは、医者に詰め寄った。
「分からない。……だが、可能性は、低い」
タクミさんは、しばらく、考え込んでいた。それから、意を決したように言った。
「満開を、待たなくていい。今、咲いている花だけでも、いちばん美しく見える場所に、ウメさんを、お連れしよう」
ウメさんの車椅子は、庭師たちの手で、慎重に、谷を見渡せる高台まで運ばれた。朝日を浴びて、八分咲きの谷が、一面、輝くように広がっていた。満開には、あと少し足りなかったけれど、それでも、十分すぎるほど、美しい光景だった。
「ウメさん」タクミさんが、車椅子のそばに膝をついて、声をかけた。「見えますか」
ウメさんは、しばらく、返事をしなかった。それから、かすかに、目を開けた。風が、谷を渡って、花びらを、高台まで運んできた。ウメさんの膝の上に、そのうちの数枚が、そっと舞い降りた。
「……綺麗だね」ウメさんの声は、掠れていたけれど、確かに、笑っていた。「五十年前と、変わらない。……いや、あの子たちが守ってくれたぶん、もっと、綺麗になってる」
「ウメさんが育てた谷です」タクミさんは、涙を堪えながら言った。「僕らは、それを、受け継いだだけです」
「受け継ぐって、そういうことだよ」ウメさんは、静かに言った。「わたしが蒔いた種が、あんたたちの手で、こんなに、立派に咲いた。……それを見られただけで、わたしは、十分だ」
ウメさんは、それから、ゆっくりと、目を閉じた。眠るように、穏やかな表情だった。付き添いの医者が、そっと、脈を確かめた。
「……まだ、大丈夫です」医者は、小さく言った。「眠っているだけです」
その場にいた全員が、詰めていた息を、ほっと吐いた。ウメさんは、その日の午後、静かに、息を引き取った。谷の花を、その目に焼き付けたあとで。
谷の満開は、その翌日に訪れた。ウメさんの葬儀は、庭師たちの手で、谷を望む高台で、ささやかに執り行われた。満開の花びらが、風に舞い、まるで、彼女を送り出すかのようだった。
参列したのは、ウメさんの家族と、タクミさんをはじめとする庭師たち、そして、ぼくらだけだった。派手な式ではなかったけれど、誰もが、心からの言葉を、ウメさんに向けていた。ウメさんの娘だという女性が、涙を拭いながら、庭師たちに、何度も頭を下げていた。
「母は、最後に、いちばん見たかったものを、見ることができました」ウメさんの娘は、震える声で言った。「皆さんのおかげです」
「ウメさんは、いい最期を迎えられたと思う」タクミさんは、葬儀のあと、ぼくらに言った。「間に合わなかったら、って、ずっと思ってたけど……あの人は、ちゃんと、見たいものを見て、旅立てた」
「わたしたちも、少しだけ、お手伝いできて、よかったです」ミナが言った。
「あんたらが、霜の夜、手伝ってくれなかったら、この谷は、もっと早く駄目になってたかもしれん」タクミさんは、頭を下げた。「ウメさんに、間に合わせられたのも、あんたらのおかげだ」
ぼくは、葬儀の日、遠くから、そっとシャッターを切っていた。満開の谷を見上げる、参列者たちの背中。悲しみと、感謝が、同時に宿った、不思議な光景だった。この一枚も、旅の記録の中に、大切にしまっておこうと思った。
翌朝、ぼくらは、フロリスを発つことになった。タクミさんが、満開の谷から摘んだ、一輪の花を、ミナに手渡した。
「押し花にすれば、長く持つ」タクミさんは言った。「ウメさんの分と、あんたらの分と。……この谷のことを、忘れないでいてくれると、嬉しい」
汽車が動き出す。桃色に染まった谷が、少しずつ遠ざかっていく。ミナは、手帳を開いて、あの一行に、丸をつけた。
――彩り谷、大陸随一の花盛り。
「母さんも、この景色を見たら、きっと、泣いてたと思う」ミナは、丸をなぞりながら言った。
「うん」ぼくは頷いた。「ウメさんみたいに、綺麗だって、笑いながら」
ぼくは、この旅で見てきた、いろんな「間に合った瞬間」を思い出していた。双月岬の、ぎりぎりの到着。ラゼルの、発電機の修理。そして、ウメさんの、最後の満開。時間との競争は、いつも、ぼくらの旅につきまとってきた。それでも、間に合わせようとする人たちの姿を見るたび、ぼくは、諦めないことの意味を、教えられてきた気がする。……トゥーレの、百八十日の約束も、まだ、間に合わせなければならない一つだった。
窓の外、夕暮れの空に、緑の星が、長い尾を引いていた。ぼくは、押し花にする前の、あの一輪の花を、そっとカメラケースにしまった。花の命も、人の命も、限りがあるからこそ、その瞬間が、これほど美しく見えるのかもしれないと、ぼくは思った。
(第十八章 了)




