花の命と、人の命と
ドーバを発って四日、汽車が近づくにつれ、車窓の景色が、少しずつ、桃色に染まっていった。
ミナが、手帳を開いて、声を上げた。
――彩り谷、大陸随一の花盛り。
「ここも、母さんの手帳にあった」ミナは、目を輝かせて言った。
フロリスの街を囲む谷は、一面、薄紅色の花に覆われていた。風が吹くたび、花びらが、雪のように舞い散る。これまで見てきたどの街とも違う、華やかな景色だった。街の家々の軒先にも、花びらが吹き溜まり、道行く人々の髪や肩にも、薄紅色が舞い落ちていた。
谷の入り口で出迎えてくれたのは、庭師頭のタクミさんという、日焼けした四十代の男の人だった。手には、土のこびりついた軍手をはめ、額には、玉のような汗が浮かんでいた。
「ちょうどいいときに来た」タクミさんは、忙しなく苗木を運びながら言った。「あと二日で、満開の見頃になる。……だが、今夜から明日にかけて、季節外れの遅霜が来るという予報だ」
「タクミさんは、ずっと、この谷の世話を」ミナが訊いた。
「生まれたときから、庭師の家系でな」タクミさんは、苗木を下ろしながら言った。「この谷は、儂らの家系が、何世代もかけて、育ててきたんだ。……彗星が来ようが来まいが、この花たちの世話を、途中で投げ出すつもりはない」
「霜が来ると、どうなるんですか」ぼくは訊いた。
「花が、一晩で、駄目になる」タクミさんは、険しい顔で言った。「何十年に一度の見頃が、霜の一晩で、台無しになっちまう」
「霜から守る方法は」ミナが訊いた。
「畑と同じさ。煙を焚いて、空気を暖める」タクミさんは言った。「谷のあちこちに、燻煙用の焚き火台を仕込んである。今夜、霜が降りる前に、全部に火を入れなきゃならん。……人手が、まったく足りとらん」
「手伝います」ぼくは、即座に言った。
その日の午後、宿に荷物を置いたところで、ぼくらは、もう一つの事情を知ることになった。宿の女将さんが、声を落として教えてくれたのだった。
「谷の見晴らし宿に、ウメさんという、お年寄りが、滞在してるんだよ」女将さんは言った。「長患いで、正直、あまり長くはないと、お医者様に言われているそうでね。……最後に、満開の谷を見たいと、無理を押して、ここまで来なさったんだ」
「間に合うんでしょうか」ミナが、心配そうに訊いた。
「分からないよ」女将さんは、首を振った。「見頃まで、あと二日。ウメさんの体力が、あと二日、持つかどうか。……それに、今夜の霜が、谷そのものを、駄目にしてしまうかもしれない」
ぼくは、この谷が抱える、二重の時間との闘いに、胸が締め付けられる思いがした。花の命と、人の命と。どちらも、待ってはくれない。
夕方、ぼくとミナは、見晴らし宿に立ち寄った。ウメさんは、車椅子に座り、窓から谷を眺めていた。痩せた体つきだったけれど、目には、力強い光が宿っていた。
「あんたたちも、この谷を見に来たのかい」ウメさんは、穏やかな声で言った。
「はい」ミナは、手帳を見せながら言った。「母の、行きたかった場所なんです」
「そうかい。……いい親を持ったね」ウメさんは、微笑んだ。「わたしはね、若い頃、この谷の庭師をしていたんだよ。もう、五十年も前の話だけどね」
「庭師さんだったんですか」
「ええ。タクミの、師匠の、そのまた師匠くらいの世代さ」ウメさんは、懐かしそうに言った。「あの子が、こんなに立派に、谷を守ってくれてる。それを見届けられただけでも、ここまで来た甲斐があったよ」
「病気だと、伺いました」ミナが、遠慮がちに切り出した。
「ああ」ウメさんは、あっさりと認めた。「隠すことでもないさ。医者には、あと、そう長くはないと言われてる。……それでも、この谷を、もう一度見てから逝きたいと、わがままを言って、家族に連れてきてもらったんだ」
「わがままだなんて」
「わがままだよ」ウメさんは、笑った。「家族には、随分、無理をさせた。……でも、人生の最後に、一つくらい、わがままを許してもらってもいいだろう」
「満開、見られるといいですね」ぼくは言った。
「見られなくても、いいんだよ」ウメさんは、静かに言った。「わたしはもう、十分に、この谷の美しさを知ってる。……ただ、最後にもう一度、この目で確かめたいと思っただけさ」
その言葉の強がりを、ぼくは、聞き分けることができた。ウメさんは、本当は、誰よりも、満開の谷を、見たいのだと思った。
その夜、谷のあちこちで、燻煙用の焚き火が焚かれ始めた。ぼくとミナも、タクミさんの指示のもと、薪を運び、火の番をして回った。夜が更けるにつれ、気温は、みるみる下がっていった。
「霜が降りる直前が、いちばん危ない」タクミさんは、温度計を確かめながら言った。「あと少しで、氷点だ」
谷のあちこちで焚かれた煙が、花々の上に、薄い層となって漂った。この煙が、放射冷却による急激な温度低下を防ぐのだと、タクミさんが教えてくれた。
薪運びの合間、ぼくはミナと、束の間、火の番をする時間があった。焚き火の明かりに照らされたミナの横顔は、煙で少し煤けていたけれど、それでも、真剣な表情が、綺麗だった。
「ウメさんのこと、心配だね」ミナが、火を見つめながら言った。
「うん」ぼくは頷いた。「でも、今は、この花を守ることに、集中しよう。それが、ウメさんのためにも、いちばんいいことだと思う」
ミナは、小さく頷いて、また、薪をくべる作業に戻った。ぼくらは、言葉少なに、それでも、心を一つにして、夜通し、火を守り続けた。
夜半、気温が、いよいよ氷点に近づいた。タクミさんの指示で、追加の薪が、次々と焚き火にくべられた。ぼくは、煙にむせながら、必死で、火の勢いを保ち続けた。
「花が、耐えてる」タクミさんは、花に触れながら、震える声で言った。「まだ、大丈夫だ」




