手帳が消えた夜
カルカの街は、駅に着く前から聞こえてきた。
汽車がまだ丘を回り込んでいるうちに、太鼓の音がした。地鳴りみたいな低い音が、線路を伝ってぼくらの靴の裏まで届いた。窓に額をつけると、谷あいの街が見えた。夜だというのに、街全体がオレンジ色に燃えるように明るい。
「火事……?」ミナが息を呑んだ。
「違うよ」向かいの席の商人ふうの男が笑った。「あれが祭りさ。カルカの火の祭り。あんたら知らんのか。今や、この星でいちばん眠らない街だよ」
男の話はこうだった。カルカの火の祭りは、もともと年に一度、秋の終わりの三日間だけ行われる祭りだった。ところが彗星の発表があってから、街は祭りを毎晩やることに決めた。世界が終わるまで、一晩も欠かさずに。
「『最後の夜まで火を絶やすな』ってのが謳い文句でね。おかげで大陸中から人が押し寄せとる。宿代は五倍、酒は三倍。世界の終わりってのは、商売になるんだなあ」
男は皮肉でもなさそうに、感心した顔で言った。
駅に降りた瞬間、ぼくらは人の波に呑まれた。
ソネルの静けさが嘘みたいだった。ホームは旅行鞄と人でぎゅうぎゅうで、改札の外は屋台の煙と、焼けた砂糖と香辛料の匂いと、笑い声と、太鼓。呼び込みの男が声を嗄らし、火の粉が夜空に舞い上がり、どこかで陶器の割れる音がして、それすら歓声にかき消された。
ぼくは人混みに揉まれながら、必死でカメラを胸に抱えた。ミナは手帳を上着の内ポケットにしまい、その上から手で押さえた。
宿は、七軒回って七軒とも満室だった。八軒目の主人が気の毒がって、祭りの案内所を教えてくれた。案内所は巡礼者用の大広間に藁布団を並べていて、一晩の値段はハウデンの宿の素泊まりより高かった。それでも屋根があるだけましだと、ぼくらは藁布団を二枚借りた。
大広間は、いろんな人間でいっぱいだった。着飾った金持ちの一家。学生らしい若者の群れ。ひとりで来ている老人。赤ん坊を抱いた夫婦。みんな、明日の朝には忘れてしまいそうな陽気さで喋り、笑っていた。
「なんだか」ミナが藁布団の上で膝を抱えた。「みんな、楽しそうなのに、必死みたい」
ぼくも同じことを感じていた。この街の明るさは、ソネルの静けさとちょうど裏返しで、でも根っこは同じところから生えている気がした。
そしてその夜、ぼくらは旅に出てから最初の、大きな失くしものをすることになる。
祭りの本番は、夜半からだった。
街の中心の大広場に、山車が出る。車輪まで含めて全部が鉄でできた巨大な山車の上で、櫓に組まれた薪が燃やされ、火の柱が屋根より高く立ち上る。その周りを、火吹き師たちが踊る。口に含んだ油を吹いて火の玉を咲かせる者。火のついた鎖を振り回して光の輪を描く者。太鼓は絶え間なく鳴り、群衆は酒杯を掲げて、声を揃えて叫んだ。
「明日を燃やせ! 明日を燃やせ!」
ぼくは最初、聞き間違いかと思った。でも何度聞いても、そう言っていた。明日を燃やせ。明日のことなんか、火にくべて忘れちまえ。今夜だけが本物だ。
ぼくはカメラを構えて、火の柱と、それを見上げる群衆の顔を撮った。ファインダー越しに見る人々の顔は、炎に照らされて、笑っているのか泣いているのか分からなかった。
シャッターを何枚目か切ったときだった。
隣で、ミナが短い悲鳴を上げた。
振り向くと、ミナが上着の内側に手を突っ込んで、真っ青な顔をしていた。
「ない」
「え?」
「手帳がない。ないの、手帳が……!」
人混みが、急に敵に見えた。ぶつかってきた酔っ払い。すれ違った子ども。押し合いになった山車の通過。どの瞬間だったのか、分かるはずもなかった。ぼくらは自分たちの足元を探し、来た道を戻り、屋台の間を覗き込んだ。石畳の上には、食べこぼしと酒の染みと火の粉の燃えかすだけがあった。
警備の詰め所は、迷子と掏摸の届け出で行列ができていた。疲れた顔の警備員は、ミナの話を最後まで聞かずに言った。
「祭りの間の掏摸は、諦めるんだね。金目のものだけ抜いて、あとは捨てるのが連中のやり口だ。金は入ってたのかい」
「お金は入ってません。ただの手帳です。でも――」
「ならなおさら、出てこないよ。次の人」
ミナは、詰め所を出てから一言も喋らなかった。泣きもしなかった。それが余計に怖かった。母さんの字が入った手帳。丸がひとつだけついた手帳。あれはミナの旅の全部で、たぶん、ミナに残された母さんの全部だった。
ぼくらは夜通し探した。祭りが白み始めた明け方、屋台の裏で洗い物をしていた年配の女の人が、手を止めて教えてくれた。
「金にならないものはね、旧水道へ行ってごらん」
「旧水道?」
「街の北の、使われてない水道橋の下さ。祭りに来て、そのまま帰らなくなった連中が住み着いてる。掏摸の子らも、だいたいあそこだ。……行くなら、責める顔で行くんじゃないよ。あそこにいるのは、悪人っていうより、帰りそこねた人たちだから」
旧水道は、祭りの熱がまるで届かない場所だった。
巨大な石造りの水道橋が朝靄の中に並び、そのアーチの下に、布や板で作った小屋がびっしりと寄り集まっていた。焚き火の煙が細く上がり、破れた祭り装束が洗濯紐に干してある。広場の狂騒と同じ街とは思えない、静かで、灰色の場所だった。
ぼくらが立ち尽くしていると、小屋の間から人がひとり、ふたりと顔を出した。若い男。老人。ぼくらと歳の変わらない子ども。敵意はなかった。ただ、まぶしいものを見るような目で、ぼくらを見た。
「手帳を探してるんです」ミナが声を張った。「昨日の夜、広場で。茶色い革の、古い手帳です。お金にはなりません。でも、わたしの――」
声が途切れた。ミナは息を吸い直して、言った。
「死んだ母さんの字が、入ってるんです」
沈黙があった。長い沈黙のあと、水道橋の陰から、ひとりの女の人が出てきた。
十八か、十九くらいに見えた。祭り装束の上に男物の外套を羽織って、癖のある髪を無造作に束ねている。彼女は右手に、茶色い革の手帳を持っていた。
「あんたのか」
ミナが駆け寄ろうとして、女の人はすっと手帳を引いた。
「先に言っとく。抜いたのはあたしだ。金目のものかと思った。……悪かったよ」
彼女は手帳をミナに差し出した。ミナはひったくるように受け取って、胸に抱えて、ページを確かめて、それからようやく、昨日の夜からずっと堪えていたものを全部、目からこぼした。
女の人はセリといった。
焚き火のそばで、セリは自分の分の芋を半分に割って、ぼくらに寄越した。盗んだ詫びだと言った。
「読んだよ、中身」セリは焚き火に目を落として言った。「悪いとは思ったけどさ。……いつか行きたい場所、ってやつ。丸がひとつしかついてないの、あれ、なんでだ」
ミナは手帳を膝に置いて、ぽつりぽつりと話した。母さんのこと。病気のこと。いつかが先になくなったこと。代わりに全部の場所に丸をつける旅のこと。セリは黙って聞いていた。焚き火が爆ぜて、火の粉が上がった。
「……あたしは逆だ」
やがて、セリは言った。
「あたしんちは、ここから汽車で二日の山の村でさ。母親とでっかい喧嘩して、飛び出してきた。祭りで稼いで、見返してやるつもりだった。そしたら、あの発表だ」
セリは笑った。うまく笑えていなかった。
「帰りゃいいって、あんたは思うだろ。汽車に乗りゃ二日だ。でもさ、帰ったら、認めなきゃならないだろ。もう時間がないってことをさ。母親の顔を見た瞬間に、残りの時間を数え始めちまう。ここにいれば、数えなくていいんだ。祭りは毎晩あって、毎晩がぜんぶ同じ夜で、明日なんか来ない。……ここはそういう連中の吹き溜まりだよ。みんな、どこかに帰る場所があって、だからこそ帰れない」
明日を燃やせ、という掛け声が、ぼくの耳の奥で蘇った。あの群衆の中に、どれだけの「帰りそこねた人」がいたんだろう。
「なあ、あんたら」セリが顔を上げた。「今夜、夜明けまで広場にいな。観光客が寝ちまったあとの祭りを見てけ。……あれを見て、それでもこの街が浮かれてるだけの街だと思うなら、それでいい」




