銀色の一匹
翌朝、ぼくとミナは四時前に桟橋に立っていた。ミナも来ると言って聞かなかったのだ。手帳の一行目は「ソネルの海」だ。桟橋から眺めるだけの海に丸をつけるつもりはない、と。
爺さんは何も言わずに、顎で船を指した。それが乗れという意味だと分かるまで、少しかかった。
夜明けの海は、静かだった。港を出て沖へ向かうにつれ、空が灰色から薄い金色に変わっていく。ぼくは夢中で撮った。舳先が波を割るところ。爺さんの背中。水平線から顔を出す太陽が、海一面を金箔みたいに光らせるところ。
ミナは船べりにつかまって、ずっと海を見ていた。風で髪がめちゃくちゃになっているのに、直そうともしないで。
「お母さんに見せたかったな」
波の音に紛れそうな声で、ミナが言った。ぼくは何も言わずに、ミナの背中と、その向こうの金色の海を一枚撮った。あとで焼いて渡そうと思った。
沖に出ると、爺さんは網を打った。慣れた手つきで、大きく、綺麗な円を描くように。網は海に沈み、ぼくらは待ち、そして引き上げられた網は――空だった。海藻が一筋、絡んでいるだけだった。
爺さんは表情ひとつ変えずに網をたたみ、もう一度打った。空だった。三度目も、空だった。
驚いたのは、その次だ。爺さんは空の網をたたみ終えると、船べりから海に向かって、深く頭を下げたのだ。まるで、今日も獲れませんでしたが、ありがとうございました、とでも言うように。
「……なぜ、続けるんですか」
訊いてはいけない気もしたが、訊かずにもいられなかった。爺さんは長いこと黙って舵を握っていた。港が見えてきた頃、爺さんはぼそりと言った。
「海がやめとらんからだ」
それきり、何も言わなかった。
事件が起きたのは、その日の午後だった。
空模様が急に変わった。海の天気は山より早いと、ティエさんが言っていたとおりだった。昼過ぎから雲が黒く盛り上がり、風が湿った匂いを運んできた。漁師たちが船のもやいを確かめに港へ降りてくる。そのざわめきの中で、悲鳴のような声がした。
「レン! レンがいない!」
ユナだった。小さな体で桟橋を走りながら、泣きじゃくって叫んでいる。大人たちが駆け寄る。切れ切れの言葉をつなぎ合わせると、こういうことだった。
昨日の晩、レンは酒場の裏で、大人たちの話を聞いてしまった。――大漁なんぞ来るもんか。ガンテの爺さまの作り話に、いつまで付き合わにゃならんのだ。
レンは今朝からずっと様子がおかしかった。そして昼過ぎ、父親が置いていった小さな手漕ぎの舟が、一艘消えていた。
「沖へ行ったんだ」ユナがしゃくり上げた。「自分で大漁を見つけてくるって……嘘じゃないって、みんなに見せるんだって……」
風が唸りを上げ始めていた。港の中でさえ、波が白く牙を剥いている。大人たちの顔から血の気が引いた。動いていない船ばかりの港で、今すぐ海に出られる船は、ほとんどない。
ぽんぽんぽん、と音がした。
振り向くと、ガンテ爺さんの船が、もう桟橋を離れていた。爺さんは操舵室から身を乗り出して、怒鳴った。
「小僧! 乗れ! 目ん玉の数がいる!」
自分でもどうかしていたと思う。ぼくは走って、開いていく船との隙間を飛び越えていた。ミナが桟橋で何か叫んだが、風にちぎれて聞こえなかった。
港の外の海は、朝の海とは別の生き物だった。波が壁みたいに盛り上がっては崩れ、船は木の葉のように持ち上げられた。ぼくは言われたとおり舳先にしがみついて、雨と飛沫で滲む視界に目を凝らした。
「潮はこっちに流れとる!」爺さんが風に負けない声で叫んだ。「ガキの腕なら、岬の内側だ!」
どれくらい経ったのか。灰色の波間に、一瞬、白いものが見えた。
「いた! 右! 右です!」
ひっくり返った小舟の白い船底に、レンがしがみついていた。爺さんの操船は、あんな海の上だというのに、恐ろしいほど正確だった。波のリズムを読んで船を寄せ、ぼくが投げたロープをレンが掴み、三度目でようやく、ずぶ濡れの小さな体を甲板に引き上げた。
レンは真っ青な顔で震えながら、それでも泣かなかった。代わりに、掠れた声で言った。
「……いなかった。爺ちゃん、海のどこにも、魚、いなかった……」
ぼくは、この子は海の水の冷たさよりも、そのことに凍えているのだと思った。
爺さんは何も言わずに自分の油合羽を脱いで、レンにかぶせた。そして、それきり港に着くまで、一度もレンを叱らなかった。
その夜、潮の家の食堂の扉が開いて、めったに来ないはずの客が入ってきた。――ガンテ爺さんだった。
宿に爺さんが来るのは何年ぶりだろうと、ティエさんが目を丸くした。爺さんは隅の席で黙って酒を飲んでいたが、やがて、ぼくとミナのテーブルに来て、どっかりと座った。
「小僧。昼間は助かった」
「いえ……あの、ぼく、何も」
「目ん玉がふたつ増えりゃ、海は倍見える」爺さんはそう言って、杯を舐めた。それから、誰に言うでもなく、ぽつりぽつりと話し始めた。
「……儂の女房はな、海で死んだ。三十年前の時化だ。儂の船に乗っとった。儂が助けられんかった」
食堂が、しんとなった。
「それから儂は毎朝、海に出とる。魚がおろうがおるまいが、関係ない。あれの墓は海の底にあるでな。毎朝、顔を見せに行っとるだけのことだ」
爺さんは杯を置いて、初めてぼくらの顔をまっすぐ見た。
「大漁の話はな、儂がついた嘘だ。魚が消えた日、レンのやつが桟橋で泣いとった。海が死んだ、町も死ぬ、ってな。十かそこらのガキがだぞ。だから言ってやった。終わる前にでっかい大漁が来る、海はそんな薄情なもんじゃない、とな」
「後悔、してますか」ミナが訊いた。「嘘、ついたこと」
爺さんは、ふん、と鼻を鳴らした。
「嘘のおかげで、あのガキどもは毎朝起きて、桟橋で竿を握っとる。嘘がなけりゃ、家で天井を見とるだけだ。……どっちが生きとると言えるかの」
そして爺さんは、ぼくのカメラを顎で指した。
「小僧。明日の朝、儂の船を撮れ。ちゃんと撮れよ。この海に、最後まで船を出しとった馬鹿がおったことを、残しとけ」
最後の朝、ぼくらは夜明け前の桟橋にいた。今度はレンとユナも一緒だった。レンの手には、釣り竿の代わりに、小さなもやい綱が握られていた。爺さんが、舫いを解く役をやらせたのだ。
「大漁が来たら」爺さんはレンに言った。「おまえが儂の網の右側を持て。約束だ」
「来なくても、持つ」レンは言った。「爺ちゃんが船出すなら、おれも出る。魚がいてもいなくても」
爺さんは何も言わなかったが、ひげの奥がわずかに動いたのを、ぼくは見た。
船が桟橋を離れる。ぽんぽんぽん、という音が、眠っている町に響いていく。東の空が金色に割れて、灰色の海に一本の光の道ができた。その道の上を、爺さんの船がまっすぐに進んでいく。
ぼくはファインダーを覗いて、息を止めた。
そのときだった。船の航跡のすぐ横で、何かが跳ねた。
銀色の、小さな魚だった。たった一匹。朝日を受けて、刃物みたいに光って、一度だけ跳ねて、海に消えた。
「……見た?」ミナが囁いた。
「見た」
「今の、撮れた?」
ぼくは首を振った。撮れていない。シャッターを切る指より、ぼくの目のほうが先に、その一匹を見てしまったから。でも、不思議と悔しくなかった。写真に残らなくても、ぼくらは見た。レンも、ユナも見た。ユナは桟橋の上で飛び跳ねて、レンは黙って、綱を握った自分の手を見つめていた。
大漁ではない。たった一匹だ。あの一匹が何だったのか、迷子なのか、先触れなのか、誰にも分からない。でも、空っぽだと思っていた海に、まだ何かが生きていた。それだけのことが、あの朝のぼくらには十分すぎた。
昼の汽車で、ぼくらはソネルを発った。ティエさんは干し芋を持たせてくれた。レンとユナは駅まで走ってきて、ユナが小さな手を開いた。手のひらの上に、魚の形に削った流木のお守りがあった。
「大漁のお守り」ユナは言った。「おにいちゃんたちのぶん」
汽車が動き出してから、ミナは手帳を開いた。一行目の「ソネルの海」に、鉛筆でゆっくりと、丸をつけた。母さんの字の上に重なった丸は、少し歪んでいて、なんだか泣き笑いみたいな形をしていた。
「ひとつめ」ミナが言った。
「ひとつめ」ぼくも言った。
窓の外で、海が遠ざかっていく。ぼくは膝の上のカメラに手を置いた。この中には、夜明けの海と、空の網と、光の道を進む一艘の船が入っている。銀色の一匹だけは、入っていない。あれはぼくの目の中にだけ、焼きついている。
その夜、乗り継ぎの駅で見上げた東の空に、緑の星があった。ヴェルデ。出発の夜より、ほんの少しだけ、明るくなった気がした。気のせいかもしれない。気のせいじゃないのかもしれない。
手帳の次の行には、こう書いてある。
――カルカの火の祭り。
(第一章 了)




