誰もいない海に船を出す人
線路は、海で終わっていた。
二日かけて汽車を乗り継ぎ、最後の駅に降り立ったとき、ぼくとミナは同時に足を止めた。駅舎の向こう、家々の屋根の隙間に、青いものが見えた。空よりも濃くて、動いている青。
「海だ」
どちらが先に言ったのかは覚えていない。ぼくらは荷物を背負い直して、坂道を駆け下りた。生まれて初めて見る海は、思っていたよりずっと大きくて、ずっとうるさかった。波の音というのは、一度も止まないのだ。そんなことも、ぼくは知らなかった。
港町ソネル。手帳の一行目の町。
だけど坂を下りきって港に立ったとき、ぼくらの足は別の理由で止まった。
静かすぎるのだ。
波の音はする。カモメも鳴いている。でも、人の声がしない。港には漁船が何十艘も舫われているのに、そのほとんどが、長いこと動いていないのが一目で分かった。ロープには海藻が絡みつき、船底には貝がびっしり付いている。桟橋の鉄柵は赤錆びて、触ると指が茶色くなった。魚市場らしい大きな建物は戸が閉まっていて、入口の黒板には、消えかけたチョークの字で競りの値段が残っていた。日付は、三つの月も前のものだった。
「魚の匂いがしない」
ミナがぽつりと言った。言われて気づいた。港というのは魚臭いものだと、本で読んで知っていた。でもソネルの港は、錆と、潮と、乾いた木の匂いしかしなかった。
桟橋の先に、小さな人影がふたつあった。
近づいてみると、男の子と女の子だった。男の子は十歳くらい、女の子はもっと小さい。ふたりとも裸足で桟橋に座り、手製の釣り竿を海に垂らしている。足元のバケツを覗くと、水しか入っていなかった。
「釣れる?」
ぼくが訊くと、男の子は振り向いて、日に焼けた顔でにっと笑った。
「今日はまだ。でももうすぐ釣れるようになる」
「もうすぐ?」
「大漁が来るんだ」男の子は当たり前のことのように言った。「世界が終わる前に、いなくなった魚がぜんぶ、いっぺんに帰ってくる。海が銀色になるくらいの、でっかい大漁が来る。ガンテ爺が言ってた」
隣で妹らしい女の子が、真剣な顔でこくこく頷いた。
「だからおれたち、毎日ここで練習してるんだ。大漁が来た日に釣れなかったら、かっこ悪いから」
男の子はレン、妹はユナといった。ぼくは反射的にカメラを持ち上げかけて、やめた。空のバケツと、それを信じて笑っている子どもの顔を、うまく一枚に収める自信がなかった。撮れない、と思ったのは、旅に出てそれが初めてだった。
その晩、ぼくらは港の裏通りの「潮の家」という宿に泊まった。食堂を兼ねた古い宿で、女主人はティエさんという、腕の太いよく笑う人だった。夕飯は豆と芋の煮込みで、魚は一切れも出なかった。
「魚はねえ、消えちまったのよ」
ティエさんは、ぼくらの向かいにどっかり座って言った。
「彗星の発表があったのと、ほとんど同じ頃さ。ある朝、網を上げたら空っぽ。次の日も空っぽ。沖に出ても魚群がひとつも見つからない。イワシも、アジも、タコの一匹もだよ。学者先生は海流がどうの水温がどうのって言うけどね、あたしらに言わせりゃ、魚は知ってたのさ。この星がもうすぐ終わるって。それで、あたしらより先に、どっかへ引っ越しちまったんだ」
ティエさんは笑いながら言ったけれど、目は笑っていなかった。
「この町は魚で生きてきた町だからね。魚がいなきゃ、船も市場も網元も、ぜんぶ用なしさ。若いのは半分がた町を出てったよ。世界の終わりより先に、町のほうが終わっちまいそうだ」
「あの」ミナが箸を置いて訊いた。「桟橋の子どもたちが、大漁が来るって……」
ティエさんの手が、一瞬止まった。
「……ああ。ガンテの爺さまの話だね」
それから彼女は、少し声を低くした。
「いいかい、あんたたち。もし子どもらに大漁のことを訊かれたら、来るといいねえ、って言っといておくれ。来るわけないだろ、なんて言うんじゃないよ。この町の大人はみんな、そういう約束になってるんだ」
約束、という言葉の重さを、そのときのぼくはまだ分かっていなかった。
ガンテ爺さんに会ったのは、翌朝のことだ。
夜明け前に目が覚めて、カメラを持って港に出た。朝焼け前の港を撮ろうと思ったのだ。東の空がようやく灰色になりかけた頃、桟橋の一番端で、エンジン音がした。見れば、一艘だけ貝のついていない小さな漁船が、もやいを解いているところだった。
舵を握っているのは、岩みたいな老人だった。白い無精ひげ、破れた油合羽、深い皺の刻まれた首。老人はぼくに気づくと、じろりと一瞥して、それだけだった。船はぽんぽんとエンジンを鳴らして、誰もいない海へ出ていった。
ぼくは夢中でシャッターを切った。灰色の海にひとつだけ引かれていく白い航跡は、この町で見たどんなものより生きていた。
老人は昼前に帰ってきた。網は、空だった。
「毎朝ああやって出てくのさ」いつの間にか隣に来ていたティエさんが言った。「魚が消えてから三つの月、一日も休まずにね。油だってタダじゃないのに」
「どうして……」
「さあね。訊いても答えやしないよ、あの偏屈爺は」ティエさんは肩をすくめた。「けど、おかしなもんでね。あの船の音で、この町は目を覚ますんだ。ぽんぽんぽん、って音が聞こえると、ああ今日も朝が来たんだって思う。あの音がしなくなったら――」
ティエさんはそこで言葉を切って、笑って、厨房に戻っていった。
その日の夕方、ぼくは思い切ってガンテ爺さんの船に近づいた。爺さんは桟橋で網を繕っていた。獲るものもないのに、網の目をひとつひとつ、確かめるように。
「あの、明日の朝、船に乗せてもらえませんか」
爺さんは顔も上げなかった。
「写真を、撮りたいんです。海の上から」
「魚はおらんぞ」
初めて聞いた爺さんの声は、錆びた鉄の扉みたいな声だった。
「知ってます。それでも、撮りたいんです」
爺さんの手が止まった。長い沈黙のあと、爺さんは網に目を落としたまま言った。
「四時に来い。遅れたら置いてく」




