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世界の終わりに  作者: すみっこSE
第一章 錆びた港町ソネル

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2/17

誰もいない海に船を出す人

 線路は、海で終わっていた。

 二日かけて汽車を乗り継ぎ、最後の駅に降り立ったとき、ぼくとミナは同時に足を止めた。駅舎の向こう、家々の屋根の隙間に、青いものが見えた。空よりも濃くて、動いている青。

「海だ」

 どちらが先に言ったのかは覚えていない。ぼくらは荷物を背負い直して、坂道を駆け下りた。生まれて初めて見る海は、思っていたよりずっと大きくて、ずっとうるさかった。波の音というのは、一度も止まないのだ。そんなことも、ぼくは知らなかった。

 港町ソネル。手帳の一行目の町。

 だけど坂を下りきって港に立ったとき、ぼくらの足は別の理由で止まった。

 静かすぎるのだ。

 波の音はする。カモメも鳴いている。でも、人の声がしない。港には漁船が何十艘も舫われているのに、そのほとんどが、長いこと動いていないのが一目で分かった。ロープには海藻が絡みつき、船底には貝がびっしり付いている。桟橋の鉄柵は赤錆びて、触ると指が茶色くなった。魚市場らしい大きな建物は戸が閉まっていて、入口の黒板には、消えかけたチョークの字で競りの値段が残っていた。日付は、三つの月も前のものだった。

「魚の匂いがしない」

 ミナがぽつりと言った。言われて気づいた。港というのは魚臭いものだと、本で読んで知っていた。でもソネルの港は、錆と、潮と、乾いた木の匂いしかしなかった。

 桟橋の先に、小さな人影がふたつあった。

 近づいてみると、男の子と女の子だった。男の子は十歳くらい、女の子はもっと小さい。ふたりとも裸足で桟橋に座り、手製の釣り竿を海に垂らしている。足元のバケツを覗くと、水しか入っていなかった。

「釣れる?」

 ぼくが訊くと、男の子は振り向いて、日に焼けた顔でにっと笑った。

「今日はまだ。でももうすぐ釣れるようになる」

「もうすぐ?」

「大漁が来るんだ」男の子は当たり前のことのように言った。「世界が終わる前に、いなくなった魚がぜんぶ、いっぺんに帰ってくる。海が銀色になるくらいの、でっかい大漁が来る。ガンテ爺が言ってた」

 隣で妹らしい女の子が、真剣な顔でこくこく頷いた。

「だからおれたち、毎日ここで練習してるんだ。大漁が来た日に釣れなかったら、かっこ悪いから」

 男の子はレン、妹はユナといった。ぼくは反射的にカメラを持ち上げかけて、やめた。空のバケツと、それを信じて笑っている子どもの顔を、うまく一枚に収める自信がなかった。撮れない、と思ったのは、旅に出てそれが初めてだった。

 その晩、ぼくらは港の裏通りの「潮の家」という宿に泊まった。食堂を兼ねた古い宿で、女主人はティエさんという、腕の太いよく笑う人だった。夕飯は豆と芋の煮込みで、魚は一切れも出なかった。

「魚はねえ、消えちまったのよ」

 ティエさんは、ぼくらの向かいにどっかり座って言った。

「彗星の発表があったのと、ほとんど同じ頃さ。ある朝、網を上げたら空っぽ。次の日も空っぽ。沖に出ても魚群がひとつも見つからない。イワシも、アジも、タコの一匹もだよ。学者先生は海流がどうの水温がどうのって言うけどね、あたしらに言わせりゃ、魚は知ってたのさ。この星がもうすぐ終わるって。それで、あたしらより先に、どっかへ引っ越しちまったんだ」

 ティエさんは笑いながら言ったけれど、目は笑っていなかった。

「この町は魚で生きてきた町だからね。魚がいなきゃ、船も市場も網元も、ぜんぶ用なしさ。若いのは半分がた町を出てったよ。世界の終わりより先に、町のほうが終わっちまいそうだ」

「あの」ミナが箸を置いて訊いた。「桟橋の子どもたちが、大漁が来るって……」

 ティエさんの手が、一瞬止まった。

「……ああ。ガンテの爺さまの話だね」

 それから彼女は、少し声を低くした。

「いいかい、あんたたち。もし子どもらに大漁のことを訊かれたら、来るといいねえ、って言っといておくれ。来るわけないだろ、なんて言うんじゃないよ。この町の大人はみんな、そういう約束になってるんだ」

 約束、という言葉の重さを、そのときのぼくはまだ分かっていなかった。

 ガンテ爺さんに会ったのは、翌朝のことだ。

 夜明け前に目が覚めて、カメラを持って港に出た。朝焼け前の港を撮ろうと思ったのだ。東の空がようやく灰色になりかけた頃、桟橋の一番端で、エンジン音がした。見れば、一艘だけ貝のついていない小さな漁船が、もやいを解いているところだった。

 舵を握っているのは、岩みたいな老人だった。白い無精ひげ、破れた油合羽、深い皺の刻まれた首。老人はぼくに気づくと、じろりと一瞥して、それだけだった。船はぽんぽんとエンジンを鳴らして、誰もいない海へ出ていった。

 ぼくは夢中でシャッターを切った。灰色の海にひとつだけ引かれていく白い航跡は、この町で見たどんなものより生きていた。

 老人は昼前に帰ってきた。網は、空だった。

「毎朝ああやって出てくのさ」いつの間にか隣に来ていたティエさんが言った。「魚が消えてから三つの月、一日も休まずにね。油だってタダじゃないのに」

「どうして……」

「さあね。訊いても答えやしないよ、あの偏屈爺は」ティエさんは肩をすくめた。「けど、おかしなもんでね。あの船の音で、この町は目を覚ますんだ。ぽんぽんぽん、って音が聞こえると、ああ今日も朝が来たんだって思う。あの音がしなくなったら――」

 ティエさんはそこで言葉を切って、笑って、厨房に戻っていった。

 その日の夕方、ぼくは思い切ってガンテ爺さんの船に近づいた。爺さんは桟橋で網を繕っていた。獲るものもないのに、網の目をひとつひとつ、確かめるように。

「あの、明日の朝、船に乗せてもらえませんか」

 爺さんは顔も上げなかった。

「写真を、撮りたいんです。海の上から」

「魚はおらんぞ」

 初めて聞いた爺さんの声は、錆びた鉄の扉みたいな声だった。

「知ってます。それでも、撮りたいんです」

 爺さんの手が止まった。長い沈黙のあと、爺さんは網に目を落としたまま言った。

「四時に来い。遅れたら置いてく」

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