出発の朝 ――終わりまで、あと十の月
世界が終わると教えてくれたのは、台所の古いラジオだった。
三つの月ほど前のことだ。夕飯の匂いが漂う時間に、いつもの音楽番組が突然途切れて、聞いたことのない硬い声の男が話し始めた。天文台連合の共同発表、という前置きのあとに、男はこう言った。
「彗星ヴェルデは、十の月ののち、この星イオルドに衝突します」
母さんの手から木べらが落ちて、鍋の中でスープが跳ねた。ぼくは、その音だけを妙にはっきり覚えている。世界の終わりを告げる声よりも、木べらがスープに沈む音のほうを。
人間の記憶というのは、たぶんそういうふうにできている。
それからの三つの月で、いろんなことが起きた。町の広場で人々が泣き、祈り、怒鳴り合った。銀行の前に長い列ができて、次の日にはその銀行が閉まった。南の大陸では暴動が起きたとラジオが伝え、北の海では船が沈んだと電信が伝えた。天文台は何度も計算をやり直したが、答えはいつも同じだった。ヴェルデは逸れない。この星の科学では、空から落ちてくるものを撃ち落とす方法はない。
そして三つの月が経つと、世界は不思議なくらい静かになった。
嵐のあとの海みたいに、と言えばいいのか。泣くだけ泣いて、怒るだけ怒って、それでも彗星が逸れないと分かったとき、人はどうするか。答えは案外シンプルだった。朝起きて、顔を洗って、パンを焼く。人間は、終わりが決まっていても、朝が来ればお腹が空く生き物だった。
ぼくの住むハウデンは、内陸の小さな町だ。丘に囲まれた盆地に、赤い屋根がぎゅうぎゅうに並んでいる。鉄道の駅がひとつ、映画館がひとつ、パン屋が三つ。十六年間、ぼくはこの町の外に出たことがなかった。
名前はハル。歳は十六。持ち物は、父さんの形見のカメラがひとつ。
父さんは新聞社の写真技師だった。ぼくが十二のときに肺を悪くして死んだ。遺されたのは蛇腹式の古いカメラで、革のケースには父さんの手の脂が染みて、飴色に光っている。ぼくはこの四年間、そのカメラで町のいろんなものを撮ってきた。パン屋のかまどの火。犬のあくび。雨上がりの石畳。現像は薬品屋のおじさんに教わった。うまいかどうかは分からない。ただ、ファインダーを覗いているときだけ、ぼくは世界とちゃんと向き合えている気がした。
ミナのことを話さないといけない。
ミナは隣の通りに住む一つ下の女の子で、学校で同じ教室にいたこともある。よく喋る子ではなかった。窓際の席で、いつも窓の外を見ていた。ミナの母さんは、彗星の発表より半年も前に、流行り病で死んだ。世界の終わりとは何の関係もない、ただの病気で。
それが、なんというか、ずっと引っかかっていた。世界が終わると知って死ぬのと、知らないまま死ぬのと、どちらが幸せなのか。ぼくには分からない。たぶん、ミナにも分からない。
発表から三つの月が経った、風の強い午後だった。丘の上の墓地で、ぼくはミナを見かけた。母さんの墓の前にしゃがみこんで、小さな手帳を開いていた。声をかけるつもりはなかったのに、風が強くて、手帳のページがめくれて飛びそうになって、気づいたらぼくは駆け寄って手帳を押さえていた。
押さえた指の下に、母さんの字らしい丸っこい文字が並んでいた。
――いつか行きたい場所。
ソネルの海。カルカの火の祭り。麦の海が黄金になるところ。世界でいちばん大きな時計台。
ページの端から端まで、地名と、見たいものの名前がびっしり書いてある。そのどれにも、丸はついていなかった。ひとつも。
「お母さん、ここから出たことなかったの」
ミナは、ぼくの顔を見ずに言った。
「いつか行こう、いつか行こうって言ってるうちに、いつかが先になくなっちゃった」
風が墓地の草を鳴らした。ぼくは何も言えなかった。慰めの言葉なんて、この三つの月で世界中が使い果たしてしまった。
「だからわたしが行く」
ミナは手帳を閉じて、立ち上がった。
「全部の場所に行って、この手帳に丸をつける。世界が終わる前に、ぜんぶ」
そのとき、ぼくの口から出た言葉を、ぼくは今でも自分で説明できない。考えるより先に、声が出ていた。
「ぼくも行く」
ミナが初めてぼくの顔を見た。どうして、と目が訊いていた。ぼくは首から提げたカメラを持ち上げて、たぶん、ひどく間の抜けた顔で言った。
「撮りたいんだ。終わる前の世界を。……誰も見ないとしても、誰かが撮っておかないと、なんか、悔しいだろ」
我ながら理屈になっていなかった。でもミナは、少しだけ考えて、それから小さく頷いた。
「荷物は少なくして。歩く日もあるから」
それが、ぼくらの旅の始まりだった。
母さんは反対しなかった。世界の終わりは、親の心配の形も変えてしまったらしい。駅まで見送りに来た母さんは、ぼくのコートの襟を直して、干し肉と固焼きパンの包みを押しつけて、それから一度だけ強く抱きしめて言った。
「ちゃんと見てきなさい。あんたの目は、お父さん譲りなんだから」
始発の汽車は、白い蒸気を吐きながらホームに入ってきた。乗り込む客はぼくらの他に数えるほどしかいない。世界が終わるというのに、汽車は時刻表どおりに来た。鉄道員たちが最後まで時刻表を守ると決めたことを、ぼくはあとになって、いろんな町で何度も思い出すことになる。
汽車が動き出す。ハウデンの赤い屋根が、窓の外を流れて、遠ざかっていく。
向かいの席でミナが手帳を開いた。一番上の行に、母さんの丸い字。
――ソネルの海。
「まず、海ね」
ミナが言った。ぼくは頷いて、窓の外にカメラを向けた。ファインダーの中で、生まれた町がどんどん小さくなる。ぼくはシャッターを切った。乾いた音が、コンパートメントに響いた。
旅の一枚目は、さよならの写真になった。
夜になれば、東の空に緑の星が見える。彗星ヴェルデ。今はまだ、他の星に混じってしまえば見分けもつかない、小さな小さな光の点だ。
あれが月のように大きく見える頃、世界は終わる。
終わりまで、あと十の月。ぼくらの旅は、そこから始まった。




