地底の星空
クレアを発って四日、汽車を降りたぼくらは、山あいの小さな街の前で、手帳を開いた。
ミナの指が止まったのは、これまでとは違う、母さんの丸い字だった。
――光る鍾乳洞の、地底の星空。
「ここだ」ミナが、顔を上げて言った。「母さんが見たかった場所、ここにも、あった」
クレアで見つけた、母さんの過去とは違う。この一行は、他の街のリストと同じ、母さんが「行きたかった」場所の記録だった。ミナは、その字を、指でそっとなぞってから、大事そうに、手帳を胸に抱いた。
「楽しみだね」ぼくは言った。
「うん」ミナは、少し興奮した様子で頷いた。「地底に星空があるなんて、母さんの文字を読んだときから、ずっと、想像がつかなかった」
街の名は、ルミナといった。街のどこを歩いても、地下に広がる巨大な鍾乳洞への案内板が立っている。洞窟そのものが、この街の生きる糧であり、誇りなのだと、一目で分かった。
洞窟の入り口で出迎えてくれたのは、ミラさんという、白髪を短く刈った女性だった。年齢は、七十近いだろうか、それでいて、背筋はまっすぐに伸びていた。
「地底の星空を見に来たのかい」ミラさんは、ランプ片手に、静かに言った。「この洞窟を案内できる者は、もう、儂しか残っとらん。……いや、正確には、もう一人、若いのがおるが」
ミラさんの手つきは、四十年の経験を感じさせる、迷いのないものだった。ランプの芯を整える所作ひとつにも、洞窟という場所への、深い敬意が滲んでいるように見えた。
「ミラさんは、どれくらい、この洞窟の案内を」ぼくは訊いた。
「四十年近くになるかね」ミラさんは、ランプの灯りを整えながら答えた。「儂の連れ合いと、二人で始めた仕事だった。……その連れ合いは、もう、十五年前に、この洞窟の中で、逝ってしまったがね」
その日の午後、ぼくらは、ミラさんの案内で、洞窟の奥へ入った。ランプの灯りが届く範囲を抜けると、そこには、想像していたものを、はるかに超える光景が広がっていた。
天井から垂れ下がる無数の鍾乳石が、淡い青緑色の光を帯びて、まるで、地底に閉じ込められた星空のように輝いていた。ぼくは、思わず、声を失った。ミナも、隣で、息を呑んでいるのが分かった。
目が暗闇に慣れるにつれ、光の粒は、どんどん増えていった。頭上だけでなく、壁面にも、足元の水たまりにも、淡い光が散らばっている。まるで、洞窟全体が、ひとつの宇宙になったようだった。歩みを進めるたび、光の瞬き方が、少しずつ変わって見えるのも、不思議だった。
「この光は、洞窟に棲む、特別な苔の仕業だ」ミラさんは、灯りを弱めながら言った。「暗闇に慣れた目で見ると、いちばんよく見える。……儂は、この光景を、四十年、飽きずに見続けてきた」
ぼくは、カメラを構えたけれど、シャッターを切る手が、少し震えていた。この光景を、平面の紙一枚に閉じ込めることが、なんだか、もったいないような気がした。それでも、ミナの母さんが見たかったという景色を、記録せずにはいられなかった。
ミラさんが、少し先を照らしに行っている間、ぼくとミナは、光る天井の下で、しばらく、二人きりの時間を過ごした。
「こんな景色の下で、母さん、何を考えてたのかな」ミナが、光を見上げながら言った。
「幸せなことを、考えてたと思う」ぼくは、答えた。「こんな綺麗な場所で、悲しいことを考える人、いないだろうから」
ミナは、ぼくの手を握って、しばらく、無言で、光を見つめていた。地底の星空の下では、言葉より、隣にいることの方が、ずっと雄弁な気がした。
「奥に、もう一つ、特別な部屋がある」ミラさんが、戻ってきて、洞窟のさらに奥を指しながら、少し声を落とした。「今は、立ち入り禁止にしている場所だ。……儂の連れ合いが、逝った場所でもある」
「何があったんですか」ミナが、静かに訊いた。
「新しい通路を、探検しとったんだ」ミラさんは、遠い目をして言った。「もっと奥に、もっと綺麗な光景があるはずだと、二人で、信じてな。……儂が先に休んどったとき、連れ合いは、一人で、少し先まで見に行った。そこで、崩落に巻き込まれた」
ミラさんは、そこで、一度、言葉を切った。
「儂は、あれから、あの奥の部屋には、一度も、足を踏み入れとらん。代わりに、入り口近くに、あれの好きだった花の形をした結晶を、少しずつ、集めて飾ってきた。……それが、儂なりの、弔い方だったんだ」
ミラさんは、灯りで、その一角を照らしてくれた。小さな、花の形をした結晶が、幾つも、丁寧に並べられていた。四十年分の思い出と、十五年分の悲しみが、その小さな一角に、静かに積み重なっているように見えた。
「綺麗ですね」ミナが、そっと言った。
「綺麗だろう」ミラさんは、少し微笑んだ。「あれは、儂よりも、綺麗なものを見つけるのが、上手かった。……この光る苔を見つけたのも、あれだったんだ」
洞窟を出たところで、若い男が、ぼくらを出迎えた。トビさんという、まだ二十歳そこそこの青年だった。
「ミラさんの、弟子です」トビさんは、少し誇らしげに、自己紹介した。「三年前から、案内の修行をしてます。……いつか、ミラさんの跡を継ぐつもりで」
「跡を継ぐ、って、簡単なことじゃないよね」ミナが言った。
「簡単じゃないです」トビさんは、素直に頷いた。「洞窟の通路は、全部で何十とあって、そのうち、安全に案内できるのは、ほんの一部だけ。……ミラさんは、全部の通路を、頭の中に入れてます。僕は、まだ、その半分も、覚えられてない」
トビさんの声には、焦りのようなものが、滲んでいた。彼は、腰の道具袋から、手描きの洞窟地図を取り出して、見せてくれた。書き込みだらけの、擦り切れた紙だった。
「毎晩、これに書き足してるんです」トビさんは、少し照れくさそうに言った。「ミラさんに追いつきたくて。……でも、実際に洞窟に入ると、地図で覚えたはずのことが、頭から飛んじゃうんですよね」
ぼくは、その表情に、これまでの旅で見てきた、いくつかの若者の顔を、重ねずにはいられなかった。
その夜、宿で食事をとりながら、ミラさんが、少し疲れた声で言った。
「トビは、いい子だが、少し、急ぎすぎるところがある」ミラさんは、汁物を口に運びながら言った。「儂が、あと何年、案内を続けられるか分からんから、それで、焦っとるんだろう。……気持ちは、分かるがね」
「危なっかしい、ということですか」ぼくは訊いた。
「危なっかしい」ミラさんは、頷いた。「奥の禁足地に、興味を持っとる。儂が、なぜ立ち入り禁止にしとるか、理由は話したが……あの子は、まだ、本当の意味で、理解しとらん気がする」
ミラさんは、汁物の椀を、両手で包むように持ちながら、続けた。
「若い頃の儂も、たぶん、同じだった」ミラさんは、遠い目をして言った。「危険は、頭では分かっとるつもりでも、本当の重さは、経験しないと、分からんもんだ。……だからこそ、儂は、あの子に、同じ思いをさせたくない」




