わたしを見つけてくれた場所
エアリオを発って三日、汽車がクレアに近づく頃、ミナは、手帳を開いて、ある一行を、何度も指でなぞっていた。
――クレアの孤児院。わたしを見つけてくれた場所。
母さんの字で、そう書かれていた。ほかの行とは、少し毛色の違う一行だった。ソネルの海や、カルカの祭りのような、行ってみたい景色の記録じゃない。これだけは、母さん自身の過去に、まっすぐつながっている一行だった。
「お母さん、ここの出身だったの」ぼくは、初めて聞く話に、驚いて訊いた。
「うん」ミナは、頷いた。「詳しいことは、あんまり話してくれなかったけど……赤ん坊のときに、クレアの孤児院の前に置かれてて、そこで育ったんだって。母さんが、唯一、はっきり『行きたい』じゃなくて『帰りたい』って言ってた場所」
ぼくらが降り立った街は、これまでとは違う種類の慌ただしさに包まれていた。
孤児院の街クレア。彗星の発表以来、親を失った子どもたちが、大陸中から、この街に集められていた。もともとあった孤児院が手狭になり、街の空き家や、使われなくなった学校が、次々と、子どもたちの新しい住まいに転用されていた。
「ここに来る子は、みんな、事情がある子ばかりだ」駅前で声をかけてくれた、孤児院の職員――マヤさんという、三十代くらいの女の人が、疲れた顔で言った。「親が病気で亡くなった子、彗星の混乱で、はぐれてしまった子。……理由は、いろいろだが、みんな、行き場をなくした子どもたちだ」
「あの、この街の孤児院に、母がお世話になっていたそうなんです」ミナが、思い切って切り出した。「もう、随分前のことですが……何か、記録が残っていたりしないでしょうか」
「お母さんの、お名前は」マヤさんの表情が、少し変わった。
ミナが、母の名を告げると、マヤさんは、少し考え込むような顔をして、それから、静かに言った。
「古い記録なら、倉庫に残ってるはずだ。……手が空いたときにでも、私が探してみよう。少し、時間はかかるかもしれないけど」
「手伝えることがあれば」ミナが、申し出た。
「本当に、猫の手も借りたいところなんだ」マヤさんは、少し表情を緩めた。「うちは今、里親探しに、追われててね」
こうして、ぼくらは、クレアの孤児院で、数日間、手伝いをすることになった。子どもたちの世話、食事の準備、そして、里親候補との顔合わせの調整。孤児院の仕事は、想像していたよりずっと、細やかな気遣いに満ちていた。
施設には、年齢も、事情も様々な子どもたちが、身を寄せ合うように暮らしていた。小さな子は、大きな子に懐き、大きな子は、小さな子の面倒を、自然な様子で見ていた。誰も彼もが、それぞれの喪失を抱えながら、それでも、日々の暮らしを、健気に営んでいた。
「なぜ、そんなに急いで、里親を探しているんですか」ぼくは、マヤさんに訊いた。
「彗星が発表されてから、うちみたいな施設は、みんな、同じ焦りを抱えてる」マヤさんは、正直に答えた。「残り時間が、あとどれだけかは、はっきりとは分からない。でも、少なくとも、子どもたちが、この先の時間を、施設の集団生活の中だけで終えるより、誰か特定の大人と、家族として過ごせる時間を、少しでも多く持てた方がいい。そう思って、みんな、必死なんだ」
翌日、食堂の隅で、他の子どもたちから少し離れて、一人で食事をとる少年を見かけた。十歳くらいだろうか、警戒するような目つきで、周りを窺っていた。
「シンだよ」マヤさんが、声を落として教えてくれた。「うちに来て、もう二年になる。……いちばん長く、ここにいる子でね」
「里親、見つからなかったんですか」
「見つからなかったんじゃない」マヤさんは、少し複雑な顔をした。「候補は、何度もあったんだ。でも、そのたびに、シンの方から、断ってしまう」
「断る、って」
「顔合わせの日に、無愛想にしたり、わざと困らせるようなことを言ったり」マヤさんは、続けた。「候補の家族が、根負けして、話が流れてしまうんだ。……最初の一、二回は、たまたまだと思ってた。でも、五回、六回と続くと、あの子が、わざとやってるんだって、分かってきた」
「どうして、そんなことを」
「シンはね、七歳のときに、一度、里子に出されたことがあるんだ」マヤさんは、声をさらに落とした。「でも、半年で、その家庭の事情が変わって、うちに、戻されてしまった。……あの子にとっては、一度、家族になったと思った相手に、手放された経験なんだ」
「その家庭の事情、って」
「詳しくは、聞いていない」マヤさんは、首を振った。「里親側の、経済的な事情だったとも、健康上の事情だったとも聞く。……理由が何であれ、七歳のシンにとっては、『自分が、いらない子だったから、返された』としか、感じられなかったんだと思う」
「それで、また、傷つくのが怖くて」
「たぶんね」マヤさんは、頷いた。「信じて、また裏切られるくらいなら、最初から、自分で壊してしまう方が、まだ、ましなんだろう。……子どもながらに、そういう防衛の仕方を、覚えてしまったんだと思う」
ぼくは、少し離れた場所で、黙々と食事をとるシンの背中を見つめた。あの小さな背中に、そんな重さが乗っているとは、見た目からは、想像もつかなかった。
その日の夕方、マヤさんが、埃をかぶった古い台帳を抱えて、ぼくらのところへやってきた。
「見つけたよ」マヤさんは、台帳を開きながら言った。「三十年近く前の記録だから、簡単には見つからなかったけど……あった」
ページには、赤ん坊のときに施設の前に置かれていた女の子の記録が、几帳面な字で残っていた。発見された日付、推定の生まれ月、そして、施設で過ごした年月。名前の欄には、当時の職員がつけたという、仮の名前が記されていた。
「母さん……」ミナは、その文字を、震える指でなぞった。「本当の名前、知らないまま、育てられたんだ」
「当時の記録には、こうも書いてある」マヤさんは、別のページを指した。「『物静かだが、小さな子の面倒をよく見る子』……なんだか、目に浮かぶようだね」
ミナは、しばらく、その一文を、じっと見つめていた。それから、小さく、笑った。
「わたしにも、覚えがある。母さん、いつも、わたしの面倒、すごく丁寧に見てくれた。……ここで、覚えたことだったのかもね」
ぼくは、隣で、ミナの横顔を見ていた。旅の中で、何度も、亡くなった母親のことを語ってきたミナだったけれど、今日ほど、その言葉に、実感がこもっているのを感じたことはなかった。ここは、母さんが「見つけてもらった」場所であると同時に、母さんという人が、初めて誰かの目に映った、始まりの場所でもあった。
その三日後、新しい里親候補が、孤児院を訪れることになった。夫婦の名は、ダレンさんと、リサさんといった。子どもを望みながら授からなかった夫婦で、彗星の発表を機に、里親になることを決意したのだという。
「これまでの候補と、何が違うんですか」ぼくは、準備をするマヤさんに訊いた。
「分からない」マヤさんは、正直に言った。「でも、この夫婦は、事前の面談で、シンの経歴を、細かく聞いてきたんだ。……普通、里親候補は、いい面ばかり見ようとする。でも、ダレンさんたちは、シンが、これまで何度も候補を断ってきたことも、ちゃんと聞いた上で、それでも会いたいと言ってくれた」
ぼくは、面談の前日、施設の前庭で、下見に来たダレンさんとリサさんの姿を、少し離れたところから見かけた。ダレンさんは、大工らしい、節くれだった手をしていて、リサさんは、終始、穏やかな笑みを浮かべていた。二人は、施設の門の前で、しばらく、緊張した面持ちで、何かを話し合っていた。
「緊張してるの、大人も同じなんだね」ミナが、ぽつりと言った。
顔合わせの日の朝、シンは、いつもより、明らかに、そわそわとした様子だった。いつもは無表情に近い彼が、朝食の席で、スプーンを何度も落としたり、同じ場所を意味もなく行ったり来たりしたりしていた。ぼくは、朝食の配膳を手伝いながら、その様子を、遠くから見ていた。
午前十時、ダレンさんとリサさんが、孤児院を訪れた。応接室で、マヤさんが、シンを呼びに行った。
でも、シンの部屋には、誰もいなかった。
「シン!」マヤさんの声が、廊下に響いた。「シン、どこ!」
孤児院中を、大人たちが手分けして探し回った。窓が開けっぱなしになった、シンの部屋。ベッドの下、物置、裏庭。どこにも、シンの姿はなかった。
「街に出たかもしれない」マヤさんは、青ざめた顔で言った。「あの子、前にも、一度だけ、こういうことがあった。……街には、あの子が知らない危険が、たくさんある」
「ぼくらも、探します」ぼくは、すぐに言った。ミナも、迷わず頷いた。
ぼくとミナは、街の外れの方角へ向かった。孤児院で働くうち、シンが、時々、こっそり施設を抜け出して、街外れの廃屋に行っていることを、他の子どもから聞いていたからだった。
街を走りながら、ぼくは、これまでの旅で、何度も繰り返してきた「捜索」の記憶を思い出していた。時化の海で、レンを捜したとき。吹雪の中で、はぐれかけたとき。誰かを捜すという行為は、いつも、ぼくらの旅の、大事な場面についてきた。今度は、ぼくらが、捜す側だった。




