名乗らない優しさ
局に戻り着いたのは、放送開始まで、一時間を切った頃だった。ゲンジさんも、ちょうど、別の道から戻ってきたところで、その手には、こちらも、代用できそうな部品が握られていた。
「二つとも、持ってきたか」ゲンジさんは、驚いた顔で言った。「どっちが使えるか、試す時間がある。……よし、やるぞ」
ゲンジさんは、汗だくになりながら、発電機の修理に取りかかった。ぼくとミナも、工具を渡したり、油をさしたりと、できる限りの手伝いをした。
放送開始の時刻まで、あと十分。ゲンジさんの手が、最後のボルトを締める。
「……頼む」
ゲンジさんが、発電機のスイッチを入れた。うなり声のようなエンジン音がして、局内の電気が、ふたたび灯った。局内から、歓声が上がった。
「間に合った……」ゲンジさんは、その場に、崩れるように座り込んだ。「本当に、ぎりぎりだった」
その夜の放送は、いつも通りに始まった。ニュースが読まれ、音楽が流れる。局内の誰もが、いつもより少しだけ、安堵の表情を浮かべていた。
電話がつながる時間になった。電話が鳴る。パーソナリティが、応答する。
「もしもし、こちら、エアリオ放送局です」
「……いつもの、頼みたい」
いつもと変わらない、あの、掠れた声が、スピーカーから響いた。局内の空気が、一瞬で、和らいだ。
「今夜も、お電話ありがとうございます」パーソナリティは、いつもより、少しだけ、声を弾ませて言った。「いつもの曲、おかけしますね」
ぼくは、その光景を、控室の隅で、見ていた。彼は、今日、この局が、何時間も沈黙の危機にあったことを、たぶん、知らない。それでいい、と思った。彼にとって大事なのは、今夜も、いつも通りに、声が届いたという、その事実だけだった。
翌日、ゲンジさんが、思いがけないことを言い出した。
「昨日のことがあってな。……あの人に、一度、会いに行ってみようと思う」ゲンジさんは、少し緊張した面持ちで言った。「三年間、声だけの付き合いだったが、今回のことで、儂も、思い知った。この放送は、いつか、本当に、届けられなくなる日が来るかもしれない。……そうなる前に、一度、顔を合わせておきたい」
「住所は、分かるんですか」ぼくは訊いた。
「電話交換局に、無理を言って、発信元の地域だけは、教えてもらった」ゲンジさんは言った。「海沿いの、小さな一軒家が集まる地区だ。……あんたらも、来るか」
ぼくとミナは、頷いた。
海沿いの道を、馬車で一時間ほど進むと、灯台のそばに、ぽつんと立つ、小さな家が見えた。ゲンジさんが、緊張した面持ちで、戸を叩いた。
「……どなたかな」
出てきたのは、白髪の、痩せた老人だった。目は、確かに、光を映していない様子だった。それでも、その顔には、穏やかな表情が浮かんでいた。
「エアリオ放送局の、ゲンジといいます」ゲンジさんは、少し声を震わせながら、名乗った。「いつも、お電話、ありがとうございます」
老人は、しばらく、驚いた顔で、固まっていた。それから、ゆっくりと、笑みを浮かべた。
「……そうか。声で、分かるよ。いつも、放送の裏で、機材をいじってる音が聞こえる。あんた、たぶん、技師さんだろう」
「はい」
「トウジという。……名乗るのは、初めてだな」老人は、静かに言った。「なぜ、今日、来た」
「昨日、発電機が壊れて、放送が止まりかけたんです」ゲンジさんは、正直に打ち明けた。「間に合いましたが、……もし、間に合わなかったら、あなたに、何も伝えられないまま、電波が途絶えていたかもしれない。それが、怖くなって」
トウジさんは、しばらく、黙っていた。それから、静かに、口を開いた。
「儂は、目が見えなくなってから、五年になる」トウジさんは、遠くを見るような顔で言った。「妻にも、子にも、先立たれてな。……声だけの世界は、最初、本当に、怖かった。夜になると、静けさが、押し潰しに来るようだった。そんなとき、あんたらの放送に、出会った」
トウジさんは、椅子に深く座り直して、続けた。
「最初は、ただの偶然だった。ラジオのつまみを、手探りで回してたら、あんたらの放送に、当たったんだ。誰かの声が、聞こえてきた。……それだけのことが、あのときの儂には、命綱みたいに、感じられた」
「儂の名を、あんたらが訊かなかったのも、良かったんだ」トウジさんは、続けた。「名乗らずに、それでも、毎晩、優しい声で応えてくれる。……儂にとっちゃ、それが、ちょうどいい距離だった。哀れまれるでもなく、ただ、一人の人間として、声をかけてもらえる時間だったんだ」
ぼくは、その言葉に、この旅で出会ってきた、いろんな「声」を思い出していた。嘘の声、誓いの声、届かなかった声。そして今、目の前にある、名乗らないことで、かろうじて保たれてきた、対等な声のつながり。
「これからも、電話、かけてくれますか」ゲンジさんが、訊いた。
「かけるよ」トウジさんは、微笑んで言った。「ただし、今日みたいに、顔を見せに来るのは、これきりにしてくれ。……あんたらの声を聞くだけの関係が、儂には、心地いいんだ」
「分かりました」ゲンジさんは、少し寂しそうに、それでも、しっかりと頷いた。「でも、放送は、儂らが、続けられる限り、必ず、届けます。約束します」
「それで、十分だ」
帰り道、馬車の中で、ゲンジさんは、しばらく、何も言わずに、窓の外を見ていた。ぼくとミナも、その静けさに、そっと寄り添うように、口をつぐんでいた。
「あの人の言葉、忘れないようにしよう」ミナが、ぽつりと言った。「哀れまれるでもなく、ただ、声をかけてもらえる時間、って」
「うん」ぼくは頷いた。「距離感って、優しさの一つの形なんだね」
翌朝、ぼくらは、エアリオを発つことになった。ゲンジさんが、駅まで見送りに来てくれた。
「あんたらのおかげで、放送を、途切れさせずに済んだ」ゲンジさんは、深く頭を下げた。「トウジさんにも、会わせてもらえた。……この街に来てくれて、良かったよ」
「ぼくらこそ、いろんなことを、教えてもらいました」ぼくは言った。
汽車が動き出す。鉄塔がそびえる街並みが、少しずつ遠ざかっていく。ミナは、手帳を開いて、余白のページに、一行、書き足した。
――名乗らないことで、対等でいられる声の街。
「これからも、あの鉄塔から、声が届き続けるといいね」ミナが、手帳を閉じながら言った。
「うん」ぼくは頷いた。「トウジさんの夜が、これからも、静かすぎずにいられるように」
ぼくは、この旅で、いろんな形の「孤独」と、それに寄り添う人々の姿を見てきた。ソラ湯のセツさんの、二十年分の孤独。エイル島のトメさんの、選び取った孤独。そして、トウジさんの、声だけがつなぎとめてくれる孤独。孤独の形は、街ごとに違ったけれど、そのそばに、必ず、誰かの優しさが、寄り添っていた。
窓の外、夕暮れの空に、緑の星が、長い尾を引いていた。ぼくは、カメラを取り出して、遠ざかる放送塔を、最後に一枚、撮った。ファインダーの中の鉄塔は、小さくなりながらも、まだ、しっかりと、そこに立っていた。
(第十四章 了)




