灯台の声
カリスを発って三日、汽車の窓から、高い鉄塔が見えてきた。
放送の街エアリオ。大陸中に電波を送る、放送局の街だった。街の中心に、天を突くような鉄塔が立ち、その根元に、放送局の建物が広がっている。駅前の広場には、大きなラッパ型のスピーカーが据えられていて、街の人々は、それを囲むように、日々の暮らしを営んでいた。
「あの音、聞こえる?」ミナが、耳を澄ませて言った。
スピーカーからは、ニュースの合間に、軽やかな音楽が流れていた。街を歩く人々の表情は、これまでのどの街よりも、どこか、和らいで見えた。老人が、ベンチに座って、スピーカーの音楽に合わせて、静かに足でリズムを取っている。子どもたちは、ニュースの合間の童謡に合わせて、口ずさみながら駆け回っていた。この街には、音楽と声が、街の血管を流れる血液のように、行き渡っているようだった。
放送局の入り口で、ぼくらは、技師長のゲンジさんに出会った。作業着に、油の染みをいくつもつけた、四十代くらいの男の人だった。
「旅の人か。……悪いが、今、手が離せなくてね」ゲンジさんは、忙しなく機材をいじりながら言った。「発電機の調子が悪いんだ。放送を止めるわけには、いかないんだが」
「手伝えることがあれば」ぼくは、申し出た。
「本当に人手が足りないんだ。……力仕事でいい。頼めるか」
こうして、ぼくらは、放送局の裏方仕事を手伝うことになった。燃料の運搬、機材の清掃、書類の整理。局内は、慢性的な人手不足と、資材の不足に、常に追われているようだった。
「どうして、そこまでして、放送を続けるんですか」ぼくは、燃料缶を運びながら、ゲンジさんに訊いた。
「訊きたくなる気持ちは、分かるよ」ゲンジさんは、苦笑した。「燃料は、日に日に手に入りにくくなる。部品も、修理するたび、代わりを探すのに苦労する。……それでも、儂らが放送を止めたら、この電波が届く範囲の、いったい何人が、世界とのつながりを失うか。それを考えると、簡単には、止められないんだ」
「世界とのつながり、ですか」
「大陸には、まだまだ、孤立した場所で暮らす人間が、たくさんいる」ゲンジさんは、続けた。「山奥の一軒家、辺鄙な海沿いの村、体が不自由で、外に出られない年寄り。……そういう人たちにとって、このラジオの声だけが、外の世界とつながる、唯一の糸なんだ」
ゲンジさんは、燃料缶を担ぎ直しながら、少し遠い目をした。
「儂の親父も、この局で、技師をしとった。親父から、口を酸っぱくして言われたことがある。『放送っていうのはな、届く先が見えない分、いい加減にはできん。今、この瞬間、誰かがラジオの前で、独りぼっちかもしれないんだ』とな。……その言葉が、今でも、儂の中に、深く根を張ってる」
その夜、局の一室で、ぼくらは、深夜放送の様子を見学させてもらった。パーソナリティの女性が、静かな声で、ニュースと音楽を届け続けている。番組の後半、電話がつながる時間になると、局内の空気が、少し変わった。
「この時間は、リスナーからの電話を受け付ける、特別な時間なんだ」ゲンジさんが、小声で教えてくれた。「大した設備じゃないが、街の主要な電話交換局とつないで、何人かのリスナーと、直接、話せるようにしてる」
電話が鳴った。パーソナリティが、慣れた手つきで応答する。
「もしもし、こちら、エアリオ放送局です」
しばらくの沈黙のあと、掠れた、低い男の声が、スピーカー越しに響いた。
「……いつもの、頼みたい」
その声には、独特の、静かな響きがあった。パーソナリティは、それだけで、誰からの電話か分かったようだった。
「今夜も、お電話ありがとうございます」パーソナリティは、優しい声で応じた。「いつもの曲、おかけしますね」
電話が切れると、ゲンジさんが、少し声を落として、教えてくれた。
「あの人はね、儂らのあいだで『灯台の声』って呼んでる人だ。もう三年近く、毎晩、同じ時間に電話をかけてくる。……名前は、一度も名乗らない。目が不自由で、海沿いの一軒家に、一人で暮らしているらしいということだけ、分かってる」
「一人で、ですか」ミナが、心配そうに言った。
「ああ。……儂らも、心配で、何度か、住所を訊いてみたことがある。だが、頑なに、教えてくれないんだ」ゲンジさんは、少し寂しそうに言った。「たぶん、誰かに、憐れまれたくないんだろう。……あの人にとって、この電話の時間だけが、誰かと『対等に』言葉を交わせる、唯一の時間なんだと思う」
「彼の人生に、ラジオが、そんなに大きいんですね」
「大きいなんてもんじゃない」ゲンジさんは、頷いた。「三年前、初めて電話をかけてきたとき、あの人は、こう言ったんだ。『目が見えなくなってから、世界が、静かすぎて、怖かった。あんたらの声が、初めて、その静けさを、埋めてくれた』とな」
ぼくは、その言葉に、胸を打たれた。声だけの世界で、たった一つの光になっている放送。その重みを、これまで、深く考えたことがなかった。
その晩、宿の部屋で、ぼくとミナは、備え付けの小さなラジオをつけて、局からの放送を聴いていた。同じ声が、局の中で聴くのとは、また少し違う響きで、耳に届いた。
「不思議だね」ミナが、ラジオに耳を寄せながら言った。「今、この声を聴いてる人が、大陸中に、何人もいるんだよね。会ったこともない人と、同じ音楽を、同じ瞬間に聴いてる」
「うん」ぼくは頷いた。「トウジさんも、たぶん、今、同じ放送を聴いてる」
「顔も知らない人と、こんな風につながれるのって、すごいことだよね」
ぼくらは、しばらく、その音楽に、静かに耳を傾けていた。
事件が起きたのは、翌日の朝だった。
発電機から、異音がしたかと思うと、突然、局内の電気が落ちた。ゲンジさんが、慌てて発電機室に駆け込む。ぼくとミナも、後を追った。
「壊れた……」ゲンジさんは、油まみれの手で、発電機の部品を確かめながら、青ざめた顔で言った。「調整弁が、完全に壊れてる。この部品は、街の中じゃ、もう手に入らない」
「代わりの部品は」
「隣町の工場になら、あるかもしれん。だが、片道、馬で半日はかかる」ゲンジさんは、時計を見た。「今から発って、部品を見つけて、戻ってきて、修理して……間に合うかどうか、五分五分だ」
「今夜の放送に、間に合わないと」ミナが、声を震わせて言った。
「間に合わない」ゲンジさんは、苦しそうに言った。「今夜だけじゃない。部品が見つからなければ、この局は、そのまま、沈黙することになる」
「ぼくらも、行きます」ぼくは、反射的に言っていた。「馬車、二台あれば、探す範囲も広がります」
ゲンジさんは、一瞬、迷った顔をしたけれど、すぐに、頷いた。
「頼む。……時間がない」
ぼくとミナは、局の若い職員と一緒に、隣町へ向かう馬車に飛び乗った。ゲンジさんは、別の道から、もう一つの部品工場を目指すことになった。
隣町までの道中、ぼくは、旅の中で見てきた、いろんな街の顔を思い出していた。グレンの工業地帯には、確か、古い機械部品を扱う店があった。あの街の記憶を頼りに、ぼくは、隣町の工場に着くなり、必要な部品の形状を、大まかなスケッチにして、店主に見せた。
馬車に揺られながら描いたスケッチは、お世辞にも上手いとは言えなかったけれど、グレンの工場地帯で見た機械の記憶が、思いがけず、役に立った。旅の途中で見てきたものは、こういう瞬間に、ふいに繋がるものなのだと、ぼくは実感した。
「これに近い形の部品、ありませんか。少し違ってても、加工できれば」
店主は、しばらく、店の奥をひっくり返して、それから、埃をかぶった箱から、似た形の調整弁を見つけ出した。
「完全に同じもんじゃないが……これを削れば、使えるかもしれん」
ミナが、すぐさま、店主に頼み込んで、その場で、簡単な加工をしてもらった。ぼくらは、その部品を抱えて、大急ぎで、馬車に飛び乗った。
エアリオへ戻る道中、日は、すでに傾き始めていた。ぼくは、馬車の中で、何度も、時計を確かめた。今夜の放送時間まで、あと、わずかしかなかった。
「間に合う」ミナが、ぼくの手を握って言った。「絶対、間に合わせる」
スノウ峠で、ぼくが言った言葉を、今度は、ミナが言ってくれていた。ぼくは、その言葉に、少しだけ、力をもらった。




