言葉は、届いて初めて
それから二日間、ぼくらは、ガイさんと一緒に、古い記録を掘り起こす作業に付き合った。埃をかぶった台帳をめくり、転居届の記録を追い、隣町の郵便局にも問い合わせの手紙を送った。
作業は、根気のいるものだった。何十年ぶんの記録が、几帳面な者もいれば、走り書きで判読しにくい者もいて、一枚一枚を、目を凝らして確かめなければならなかった。ミナは、几帳面な字で、候補に挙がった住所を、一つずつ、丁寧に書き出していった。ぼくは、その隣で、古い地図と照らし合わせながら、該当しそうな地域を絞り込んでいった。
「時間との勝負だ」ガイさんは、額の汗を拭いながら言った。「ミオさんが、まだご存命かどうかも、分からん。……見つかったとしても、彼女が、この手紙を受け取りたいと思うかどうかも、分からん」
「それでも、届けるべきだと思いますか」ぼくは訊いた。
「思うね」ガイさんは、迷いなく言った。「儂らの仕事は、届けることだ。読むかどうか、どう思うかは、受け取った人が決めることだ。……でも、届けもせずに終わらせるのだけは、儂らの仕事の、いちばんの裏切りだと思ってる」
ガイさんの目には、単なる職業意識を超えた、何か強い信念のようなものが宿っていた。ぼくは、この人が、なぜここまで、一通の古い手紙にこだわるのか、少しずつ理解できてきた気がした。仕事というのは、突き詰めれば、誰かの想いを、預かることなのだ。
二日目の夜、隣町の郵便局から、返信が届いた。ミオさんという名の女性が、その街に、今も健在で住んでいるという知らせだった。
ワタルさんは、その報せを聞いて、しばらく、声も出せずにいた。
「儂は……行くべきなんだろうか」ワタルさんは、ようやく、絞り出すように言った。「今さら、四十二年前の手紙を持って、会いに行って、何になる。あの女には、今の暮らしがあるだろう。儂が現れることで、かえって、迷惑になりはせんか」
ガイさんは、少し考えて、それから、静かに言った。
「会いに行くかどうかは、ワタルさんが決めることだ。……でも、手紙は、届けよう。会うかどうかとは、別の話だ。あんたが四十二年前に書いた言葉を、ちゃんと、ミオさんに届ける。それだけは、儂らの仕事として、やらせてほしい」
ワタルさんは、長い間、考え込んでいた。それから、静かに、頷いた。
「手紙は、届けてくれ。……ただ、会いに行くのは、儂には、まだ、決心がつかん。四十二年前の儂の言葉が、今のミオに、どう届くのか、それを見届けるだけの勇気が、まだ、ない」
「分かりました」ガイさんは、頷いた。「明日の朝、最優先で、隣町へ送ります」
その手紙が発送される朝、ぼくらも、局の前で、その様子を見送った。ガイさん自らが、特急便の印を押し、若い配達員に、直接、手渡しで届けるよう、念を押していた。
「四十二年越しの返事が、届くまで、あとどれくらいですか」ミナが訊いた。
「馬で半日の距離だ。……早ければ、明日の夕方には、ミオさんの手に渡るだろう」
その日の夜、ぼくとミナは、局の裏手の、小さな庭で、星を見上げていた。
「四十二年間、思い違いをしたまま生きるって、どんな気持ちなんだろう」ミナが、ぽつりと言った。
「想像もつかない」ぼくは、正直に答えた。「でも、思ったんだ。……言葉って、ちゃんと届かないと、本当の意味を持たないんだなって」
「わたしたちの旅も、そうかもね」ミナは、続けた。「手帳の言葉も、写真も、誰かに届いて、初めて、意味を持つのかもしれない。……ハルの写真、いつか、誰かに見てもらう日が来るのかな」
「来ると思う」ぼくは頷いた。「今は、ぼくとミナのためだけに撮ってるけど。……いつか、この旅の記録を、ちゃんと誰かに届けたい」
「うん」ミナは、静かに頷いた。「双月岬で、わたしがハルに気持ちを伝えたときも、もし、あの言葉が、ちゃんと届いてなかったら……って、考えると、ちょっと怖くなる」
「ぼくの言葉、ちゃんと届いてる?」ぼくは、少し不安になって訊いた。
「届いてるよ」ミナは、笑って、ぼくの手を握った。「ちゃんと、毎日、届いてる」
翌日の午後、ぼくらが局で仕分けの手伝いをしていると、隣町からの返信便が、局に到着した。ガイさんが、震える手で、それを受け取り、すぐに、ワタルさんを呼びに走らせた。
駆けつけたワタルさんの前で、ガイさんは、その封筒を差し出した。差出人の欄に、「ミオ」という名前があった。
ワタルさんは、封筒を、両手で、まるで壊れ物のように受け取った。その場で開けるかどうか、しばらく迷った末に、ワタルさんは、局の隅で、一人、封を切った。
しばらくして、ワタルさんの、嗚咽の声が聞こえた。悲しみの涙なのか、安堵の涙なのか、遠目には分からなかった。でも、その背中は、これまで見てきた、どのワタルさんの背中よりも、軽く見えた。
少しして、ワタルさんは、ぼくらのところへ歩いてきた。目を真っ赤にしながら、それでも、はっきりとした声で言った。
「ミオは……儂の手紙を、ずっと待っていたそうだ。返事が来ないのは、儂の方だと、ずっと、思い込んでいたらしい。お互い、同じ思い違いをしたまま、四十二年、別々の人生を歩んでいたんだ」
ワタルさんは、手にした便箋を、少しだけ、ぼくらに見せてくれた。丁寧な、震えた字で、こう書かれていた。
――あなたの手紙を、四十二年間、待っていました。届かなかったのなら、それでも、あなたが書いてくれたという事実だけで、じゅうぶんです。一度、お会いできますか。
「会いに、行かれるんですか」ぼくは訊いた。
「行く」ワタルさんは、迷いなく言った。「今さら、何かが元通りになるとは、思っとらん。お互い、別の人生を、四十二年分、生きてきたんだ。……でも、一度だけ、顔を合わせて、ちゃんと、言葉を交わしたい。それだけは、もう、先延ばしにしたくない」
ガイさんは、その言葉に、深く頷いた。
「馬車の手配は、うちで、すぐにやります」ガイさんは言った。「郵便局員として、こんなことを言うのも変ですが……手紙より、直接会うことの方が、時には、ずっと確かに届くものもあると、儂は思っとります」
「ありがとう、ガイさん」ワタルさんは、目を潤ませながら、頭を下げた。「あんたのところの倉庫が、儂の四十二年を、変えてくれた」
翌朝、ぼくらは、カリスを発つことになった。ワタルさんも、ミオさんに会いに、隣町へ向かう馬車に乗るところだった。
「あんたらのおかげだ」ワタルさんは、駅で、ぼくらに深く頭を下げた。「あの箱を、あんたらが開けてくれなかったら、儂は、思い違いを抱えたまま、終わっていたかもしれん」
「たまたま、目に入っただけです」ぼくは言った。
「たまたまでも、拾ってくれる人がおるかどうかで、話は変わるんだ」ワタルさんは、静かに言った。「あんたらの旅が、これからも、いい『たまたま』に、たくさん出会えることを、祈っとるよ」
ガイさんも、見送りに来てくれた。
「うちの局には、あの倉庫みたいな場所が、まだまだある」ガイさんは、少し疲れた、でも、どこか晴れやかな顔で言った。「これからも、少しずつ、整理していくよ。……もしかしたら、また、誰かの四十二年が、見つかるかもしれないからな」
汽車が動き出す。紙の匂いのする街が、少しずつ遠ざかっていく。ミナは、手帳を開いて、余白のページに、一行、書き足した。
――言葉は、届いて初めて、本物になる街。
「わたしたちの旅も」ミナが、手帳を閉じながら言った。「いろんな人の『届かなかった言葉』に、出会う旅だったのかもね」
「うん」ぼくは頷いた。「ガンテさんの嘘も、セリの送り火も、ワタルさんの手紙も。……みんな、届けたい言葉を、抱えてた」
「わたしたちの言葉は」ミナが、繋いだ手に、少し力を込めて言った。「ちゃんと、届いてるといいな」
「届いてる」ぼくは、迷いなく言った。「ぼくが、保証する」
ぼくは、この旅で出会ってきた、いろんな「言葉」のことを思い出していた。ガンテさんが、子どもたちにつき続けた、優しい嘘。マーゴさんが、千秋楽に選んだ、本当の結末。ロサさんが、何百組にも贈ってきた、誓いの言葉。そして、ワタルさんの、四十二年越しに届いた手紙。嘘も、本当も、遅れて届いた言葉も、どれも、誰かの心を動かす力を持っていた。言葉は、正しいか間違っているかより、届くか届かないかの方が、たぶん、ずっと大事なのだと、ぼくは思った。
窓の外、夕暮れの空に、緑の星が、長い尾を引いていた。ぼくは、カメラケースの中に、ワタルさんとガイさんの、あの手紙を受け取った瞬間の一枚を、そっとしまい直した。
(第十三章 了)




