四十二年前の手紙
メリノを発って三日、ぼくらが降り立った街は、これまでのどこよりも、紙の匂いがする街だった。
郵便の街カリス。大陸中の手紙が、いったんこの街の中継局に集まり、仕分けられて、それぞれの行き先へ送り出されていく、郵便の要のような街だった。街の中心にある中継局は、これまで見たどの建物よりも大きく、その中では、数えきれないほどの職員たちが、山のような手紙の束と格闘していた。
「彗星の発表があってから、手紙の数が、五倍にも六倍にもなった」局長のガイさんが、疲れた顔で、ぼくらに説明してくれた。がっしりした体格の、四十代くらいの男の人だった。「みんな、最後に、誰かに言葉を届けたいのさ。何年も音信不通だった相手にも、もう二度と会えないと分かっている相手にも」
局内は、足の踏み場もないほど、袋詰めの手紙で溢れていた。壁際には、行き先ごとに分けられた木箱が、天井近くまで積み上がり、職員たちは、忙しなく、その間を行き来していた。窓口には、長い行列ができていて、誰もが、大切そうに封筒を抱えていた。ガイさんは、人手が足りていないと言って、ぼくらにも、仕分けの手伝いを頼んできた。ぼくは、宛先ごとに手紙を分類する仕事を、ミナは、住所不明で止まってしまった手紙を、記録帳と照らし合わせる仕事を任された。
「住所不明の手紙って、どれくらいあるんですか」ミナが訊いた。
「相当な数だよ」ガイさんは、苦い顔で言った。「街が丸ごと避難して、もぬけの殻になってる場所もある。……そういう手紙は、届け先を探すだけで、何日もかかることがある」
窓口には、次々と客が訪れた。ある若い男は、戦地に赴く兄弟への手紙を、震える手で差し出していた。ある老婆は、何年も口をきいていないという息子への手紙を、何度も封を確かめながら、ようやく窓口に出した。誰もが、同じような切実さを、その手つきに滲ませていた。
「みんな、最後の一通のつもりで、書いてるんです」窓口の若い職員が、ぼくらに教えてくれた。「だから、儂らも、一通一通、いい加減には扱えない。……大変だけど、悪い仕事じゃありませんよ」
翌日、局の奥にある古い倉庫の整理を手伝うことになった。何十年も前の、配達しきれなかった手紙が、埃をかぶって積まれている場所だった。
「昔は、今よりずっと、住所の記録がいい加減でね」ガイさんは、埃っぽい箱を開けながら言った。「行き先が分からなくなった手紙は、ここに、ずっと眠ったままなんだ。……本当は、もっと早くに処分すべきなんだが、なんとなく、捨てる決心がつかなくてね」
箱の中には、色褪せた封筒が、何百通も詰まっていた。差出人の名前、宛先、消印の日付。どれも、誰かの、届かなかった言葉だった。
ぼくは、その光景に、思わずカメラを構えた。埃の舞う倉庫の中、天井まで積まれた木箱と、その中に眠る、何百通もの声にならなかった言葉。ファインダー越しに見るその光景は、これまで撮ってきたどの街の景色とも違う、静かな重みを持っていた。
その作業中、局の常連客だという、老人が顔を出した。
「ガイさん、今日も、あの手紙、来とらんか」老人は、少しくたびれた様子で訊いた。
「ワタルさん。……悪いが、今日もだ」ガイさんは、申し訳なさそうに首を振った。
ワタルさんは、肩を落として、それでも、また明日来ると言って、局を出て行こうとした。ぼくは、思わず、声をかけていた。
「あの、待っている手紙が、あるんですか」
ワタルさんは、足を止めて、ぼくを見た。深い皺の刻まれた、七十を超えていそうな顔だった。
「ああ。……いや、待っとるわけじゃない。もう、四十年、待つのはやめたはずなんだが」ワタルさんは、自嘲気味に笑った。「若い頃、好いた女に、手紙を出したんだ。一緒になりたい、と。……返事は、来なかった。それで、儂は、振られたんだと思って、それきり、別の道を歩いた」
「それで、今も」
「今も、というより」ワタルさんは、少し困ったように言った。「先週、ここのガイさんに、昔、この街から出した手紙の記録が、まだ残っているか訊いたのさ。彗星の発表があってから、儂も、いろいろ、昔のことを思い出すようになってな。……あの女が、儂の手紙を読んで、どう思ったのか、最後に、確かめておきたくなった」
「ワタルさんは、その後、結婚は」ミナが、遠慮がちに訊いた。
「した」ワタルさんは、頷いた。「いい女房だったよ。三年前に、病で亡くした。……女房を悪く言うつもりは、まったくない。ただ、心のどこかに、ずっと、あのときの答えを知らないままの、小さな棘が残っとってな。彗星の発表を聞いて、その棘が、急に、疼き出したんだ」
「手紙自体は」
「もう、届いてるはずだ」ワタルさんは言った。「儂が出したのは、確かに出したんだ。返事が、来なかっただけで」
ぼくは、その言葉を聞きながら、ふと、目の前の箱の中の、色褪せた封筒の山を見た。何気なく手に取った一通の消印の日付が、ワタルさんの言った時期と、近いことに気づいた。
ぼくは、その封筒を、そっと手に取った。差出人の欄に、「ワタル」という名前があった。
心臓が、大きく跳ねた。ぼくは、震える手で、ガイさんを呼んだ。
「これ……」
ガイさんは、封筒を受け取って、差出人と、宛先と、消印を確かめた。その顔が、みるみる青ざめた。
「これは……四十二年前の、配達不能便だ」ガイさんは、掠れた声で言った。「宛先の住所が、当時、区画整理で変わっていて、旧住所のまま出されたこの手紙は、届け先が見つからず、差出人にも戻されず、そのまま、この倉庫に、眠り続けていたんだ」
「じゃあ、これは」ミナが、声を震わせて言った。
「ワタルさんが、四十二年前に出した手紙だ」ガイさんは、その封筒を、大事そうに両手で持った。「一度も、届いていなかった。ワタルさんが振られたと思っていたのは……相手が、この手紙を、読んですらいなかったからだ」
その日の夕方、ぼくらは、ワタルさんを、もう一度、局に呼んだ。ガイさんが、震える手で、その封筒を差し出したときの、ワタルさんの顔を、ぼくは、一生忘れないと思う。
局の窓口の前に立ったワタルさんは、最初、何が起きているのか、理解できないような顔をしていた。ガイさんが、事情を説明する間、ワタルさんの視線は、ずっと、その色褪せた封筒に釘付けになっていた。
「これは……」ワタルさんは、封筒の宛名を見て、言葉を失った。「儂の字だ。……儂が、出した、あの手紙だ」
「届いていなかったんです」ガイさんは、丁寧に説明した。「区画整理で、住所が変わっていて。配達不能のまま、この倉庫に、四十二年間、眠っていました」
ワタルさんの手が、激しく震え始めた。
「……ということは」ワタルさんは、震える声で言った。「儂は、あの女に、振られたわけじゃ、なかったのか。あの女は、儂の手紙を、読んですら、いなかったのか」
「そうなります」
ワタルさんは、その場に、崩れるように座り込んだ。四十二年間、抱え続けてきた「振られた」という思い込みが、その瞬間、根底から覆ったのだった。
「その方は、今、どこに」ミナが、静かに訊いた。
「分からん」ワタルさんは、まだ震える声で言った。「四十二年前、あの女――ミオは、儂の手紙に返事が来なかったことで、儂に見切りをつけたと思って、別の街に嫁いだと、風の噂で聞いた。……それきり、消息は知らん」
「探しましょう」ガイさんが、きっぱりと言った。「うちには、古い転居記録も残っている。ミオさんの旧姓と、当時の住所が分かれば、追える可能性がある」




