紙切れがなくても
事件が起きたのは、その翌日だった。
朝の礼拝堂に、若いカップルが、青ざめた顔で駆け込んできた。式の予約をしていた二人で、名前は、ノアさんと、フィアさんといった。
「ロサさん、大変です」ノアさんは、震える声で言った。「役場に婚姻届を出しに行ったら、受理できないと言われて……登記の処理が、追いついてないらしくて、今から出しても、正式な夫婦になれるのは、早くて一月半後だって」
「一月半……」フィアさんの目に、涙が浮かんだ。「わたしたち、そんなに、待てないんです。フィアの父が、来月、療養のために、遠くの街に移ることになっていて。式に立ち会えるのは、今週しかないんです」
フィアさんの声は、震えていた。ノアさんは、彼女の肩を、そっと抱き寄せた。控室にいた他のカップルたちも、二人の話に気づいて、心配そうに、こちらを見ていた。この街に集まる誰もが、多かれ少なかれ、似たような「間に合わせなければならない事情」を抱えているのだと、ぼくは、その空気から感じ取った。
ロサさんの顔が、険しくなった。
「登記の遅れは、あちこちで聞くようになったね」ロサさんは、苦々しく言った。「彗星の発表以来、駆け込みの婚姻届が、どこの役場も、山積みなんだ。役人の数は、増えとらんのに」
「じゃあ、わたしたちの式は」ノアさんが、縋るような声で言った。
ロサさんは、しばらく、じっと考え込んでいた。それから、控室の隅で、この様子を見ていた、オサムさんとキヨさんの方を、ちらりと見た。何かを思いついたような顔だった。
「式は、挙げよう」ロサさんは、きっぱりと言った。「今日、予定通りにね」
「でも、婚姻届が受理されてなければ、法律上は……」
「法律上の夫婦になるのは、一月半後でいい」ロサさんは、ノアさんとフィアさんの顔を、順に見た。「でも、あんたらが誓うのは、役場に対してじゃない。お互いに対してだろう。……この礼拝堂で、あんたらが、お互いの目を見て誓う言葉は、紙切れが受理されようがされまいが、今日、この瞬間から、本物になる。それだけは、儂が保証する」
その日の午後、ノアさんとフィアさんの式は、予定通り行われた。フィアさんの父も、車椅子で駆けつけ、涙ながらに、娘の晴れ姿を見届けた。誓いの言葉が読み上げられるとき、控室の隅で、オサムさんとキヨさんが、じっと、その様子を見つめているのに、ぼくは気づいた。
式が終わったあと、キヨさんが、ロサさんのところへ、まっすぐに歩いてきた。
「ロサさん。今の言葉、もう一度、聞かせてもらえるかい」キヨさんは、震える声で言った。「紙切れなんぞ、なくても、本物になる、っていう、あの言葉を」
「もちろんだよ」ロサさんは、微笑んだ。
キヨさんは、それから、オサムさんの方を向いた。
「オサム。あんたは、あたしに、余計な期待をさせるのが怖いって言ったんだろう。ロサさんから、聞いたよ」キヨさんは、真っ直ぐに、オサムさんの目を見た。「でもね、あたしは、五十年前から、もう、期待なんてしてない。あたしが欲しいのは、変わらない毎日じゃない。あんたと、もう一度、誓いの言葉を、声に出して言う、その瞬間だけだよ」
オサムさんは、しばらく、何も言えずにいた。それから、ようやく、絞り出すように言った。
「……分かった。挙げよう」
控室に、小さな歓声が上がった。ノアさんとフィアさんも、自分たちの式そっちのけで、二人の決断を喜んでいた。
その二日後、オサムさんとキヨさんの式が、白薔薇堂で行われた。派手な飾りつけはなかったけれど、庭園の花を、ミナが朝から摘み集めて、二人のために小さな花束を作った。ロサさんが、五十年分の思いを込めて、式次第を読み上げた。ぼくは、その一部始終を、カメラに収めた。皺だらけの手を取り合う、二人の老夫婦の姿を。
キヨさんは、若い花嫁たちのような白い衣装ではなく、いちばん気に入っているという、薄紫色の普段着を着ていた。オサムさんも、洗いざらしのシャツに、精一杯の身なりを整えただけだった。それでも、礼拝堂の光の中に立つ二人の姿は、ぼくがこの街で見た、どの花嫁衣装よりも、美しく見えた。
「誓いますか」ロサさんが、声を震わせながら、問いかけた。
「誓う」オサムさんが、はっきりと言った。「五十年前に、言えなかった分まで」
「誓います」キヨさんも、涙を流しながら、頷いた。
礼拝堂に、控えめな拍手が響いた。式に立ち会っていたのは、ロサさんと、ぼくとミナ、それに、ノアさんとフィアさんの数人だけだったけれど、その拍手は、これまで見てきたどの式よりも、深く胸に響いた。
式のあと、オサムさんは、ぼくの方を向いて、少し照れくさそうに言った。
「小僧。あんたと話したから、儂は、踏ん切りがついたのかもしれん」
「ぼくは、何も」
「いや」オサムさんは、首を振った。「あんたが、儂の怖さを、ちゃんと分かってくれた。それだけで、儂は、自分の気持ちを、整理できたんだ。……ありがとうな」
ぼくは、その言葉に、うまく返事ができなかった。ただ、深く頭を下げることしかできなかった。
その夜、白薔薇堂の庭園で、後片付けを終えたぼくとミナは、花に囲まれたベンチに、並んで座っていた。昼間見た、いくつもの誓いの言葉が、まだ、耳の奥に残っていた。
「今日は、特別な日だったね」ミナが、庭園の花を見つめながら言った。
「うん」ぼくは頷いた。「オサムさんとキヨさんの誓い、なんか、忘れられない」
「わたしたちは、まだ、結婚とか、そういうことは、考えられないけど」ミナは、少し照れたように、でも、まっすぐに続けた。「もし、いつか、旅が終わって、それでも世界が続いてたら……ハルは、どんな暮らしがしたい?」
ぼくは、その質問に、初めて、具体的に考えてみた。
「写真の仕事、続けたいと思ってる」ぼくは、ゆっくりと言葉を選びながら言った。「街の写真屋でもいいし、新聞社でもいい。……ミナは?」
「わたしは、たぶん、本を作る仕事」ミナは、手帳を軽く叩いて言った。「この旅の記録、いつか、ちゃんとした形にしたいなって、最近、思うようになった」
「一緒に、暮らしたい?」ぼくは、思い切って訊いた。
ミナは、少し驚いた顔をして、それから、はにかむように笑った。
「うん。一緒がいい」
「なら、ぼくも、写真屋か、新聞社か、どっちにしても、ミナの本作りを、手伝えるようにする」
「気が早いよ」ミナは、笑いながら、ぼくの肩を軽く叩いた。「でも……そういう気の早さ、嫌いじゃない」
「今日の式、見て、思ったんだ」ぼくは、続けた。「オサムさんとキヨさんは、五十年待って、それでも、誓いの言葉を口にした。……ぼくらは、まだ十六と十五だけど、いつか、あんな風に、ちゃんと言葉にできる関係でいたい」
「うん」ミナは、静かに頷いた。「今すぐじゃなくていい。でも、いつか」
「いつか」
その一言は、双月岬で交わした言葉より、もっと先の未来を、指し示しているような気がした。ぼくらは、それ以上、多くを語らずに、しばらく、庭園の花と、夜空を眺めていた。将来の暮らしの話は、まだ、輪郭のはっきりしない、遠い夢のようなものだったけれど、それでも、口に出してみると、少しだけ、現実味を帯びた気がした。
翌朝、ぼくらは、メリノを発つことになった。ロサさんが、駅まで見送りに来てくれた。
「ありがとうね、写真屋さん」ロサさんは、ぼくに、小さな封筒を渡した。「これまで撮った写真の中で、いちばん良かった一枚を、焼き増ししといたよ。オサムさんとキヨさんの、誓いの瞬間だ」
封筒を開くと、皺だらけの手を取り合う、二人の老夫婦の写真があった。ぼくが撮った中でも、確かに、いちばん、心が震えた一枚だった。
「あんたらも」ロサさんは、ぼくとミナを、順に見て言った。「いつか、この街に戻ってくることがあったら、儂が、式を挙げてやるよ。まだ、生きてればね」
「約束です」ミナが、笑って言った。
汽車が動き出す。花のアーチが並ぶ街並みが、少しずつ遠ざかっていく。ミナは、手帳を開いて、余白のページに、一行、書き足した。
――紙切れがなくても、本物になる誓いの街。
ぼくは、この街で見てきた、いくつもの誓いの瞬間を思い出していた。ノアさんとフィアさんの、間に合わせた誓い。オサムさんとキヨさんの、五十年越しの誓い。そして、双月岬で交わした、ぼくらの誓い。形も、タイミングも、それぞれ違うけれど、根っこにあるものは、同じ気がした。分からない未来に向かって、それでも、隣にいると、声に出すこと。
窓の外、夕暮れの空に、緑の星が、長い尾を引いていた。ぼくは、カメラケースの中の、オサムさんとキヨさんの写真を、そっと確かめた。この一枚は、旅が終わっても、ずっと大切にしようと思った。
(第十二章 了)




