待つ時間は、無駄にならない
嵐の二日目、家の中で、エリさんとハルエさんが、二人きりで話しているのを、ぼくは、偶然、耳にした。
「お母さんは、どう思ってるの。本当に、このままでいいの」
「わたしは、お父さんについていく」ハルエさんは、静かに言った。「四十年連れ添って、今さら、お父さんを一人、島に残しては、いけないよ。……それに、正直に言うとね、エリ。わたしも、この島が好きなんだ。お父さんに合わせてるだけじゃない」
「でも」
「あんたの気持ちも、分かるよ」ハルエさんは、娘の手を握った。「孫たちのそばにいたい。それも、本当の気持ちだろう。……でもね、エリ。人はそれぞれ、自分の『ここで死にたい場所』を、選ぶ権利があるんだよ。あんたの場所は、たぶん、本土の、あの子たちのそばだ。わたしとお父さんの場所は、ここだ。それだけの違いさ」
エリさんは、しばらく黙って、それから、小さく嗚咽を漏らした。ハルエさんは、何も言わずに、娘の背中を、ゆっくりとさすっていた。
ぼくは、その光景を、少し離れた場所から見ていた。ミナが、隣で、ぼくの手をそっと握った。ぼくらの旅は、いろんな家族の、いろんな痛みに触れてきたけれど、この母娘の会話は、その中でも、とりわけ静かで、深いものだった。
嵐の三日目の朝、雲の切れ間から、久しぶりの日差しが差し込んだ。トメさんは、いつも通り、夜明け前から港に出て、船の様子を確かめていた。
ぼくは、水を汲みに行く途中、港で、トメさんとエリさんが、並んで海を見ているのを見かけた。声をかけるのを迷ったけれど、二人の様子に、昨夜までの張り詰めた空気がないことに気づいて、少し離れた場所で、足を止めた。
「父さん」エリさんの声が、風に乗って聞こえた。「わたし、分かったよ。父さんと母さんを、無理に連れて帰ることは、諦める」
「……そうか」
「でも、諦めるのは、それだけ」エリさんは、続けた。「これからも、船が出るたびに、会いに来る。父さんと母さんが、ここにいる限り、わたしは、何度でも、この島に帰ってくる。……それは、許してくれる?」
トメさんは、しばらく黙って、それから、初めて、少し表情を緩めた。
「儂は、意地っ張りだが、馬鹿じゃない」トメさんは、海を見つめたまま言った。「お前が、無理して船に乗ってくるのを、止める権利は、儂にはない。……ただし、無茶な航海はするな。海は、優しい顔をしてるときほど、怖いんだ」
「うん」
「今度は、孫たちも、連れて来い」トメさんは、少しぶっきらぼうに付け加えた。「顔くらい、見せに来い」
エリさんの目に、涙が浮かんだ。今度は、悲しみだけの涙ではないようだった。
「約束する」エリさんは、涙を拭いながら、笑った。「次は、船が出るたびに、来る。父さんが、うんざりするくらい」
「うんざりはせん」トメさんは、海に向き直りながら、ぽつりと言った。「儂は、ただ、待つのは慣れとる。漁もそうだ。……待つ時間が、無駄になったことは、一度もない」
ぼくは、その様子を見て、思い切って、カメラを構えた。
「三人で、並んでもらえますか」
トメさんと、ハルエさんと、エリさん。最初は照れくさそうにしていた三人だったけれど、ぼくが粘ると、渋々、港を背に並んでくれた。トメさんは仏頂面のまま、ハルエさんは柔らかく微笑み、エリさんは、まだ少し目を赤くしたまま、それでも、はっきりと笑っていた。シャッターを切ると、トメさんが、ぼそりと「現像できたら、送ってくれ」と言った。ぼくは、頷いた。この一枚だけは、確実に届けようと決めた。
その日の午後、嵐が完全に去り、港には、久しぶりに穏やかな海が戻ってきた。船が出せるようになり、エリさんは、本土へ戻ることになった。
見送りの港で、エリさんは、ぼくらにも、深く頭を下げた。
「あなたたちが、居合わせてくれて、よかった」エリさんは言った。「なんでか分からないけど、旅の人が家にいると、家族だけだと言えないことも、少し、言いやすくなる気がして」
ぼくは、その言葉に、これまでの旅で、何度も同じような役割を果たしてきたことを思い出した。ソラ湯のエマさんと、ソウさんのときも。ぼくらは、この旅を通して、いろんな家族の、いろんな和解の、ほんの小さなきっかけになってきたのかもしれない。
エリさんを見送ったあと、トメさんは、ぼくらに向かって、少し照れたように言った。
「あんたらも、明日には発つんだろう。……今日の午後は、暇か」
「はい」ぼくは頷いた。
「なら、船に乗せてやる。島を、ぐるっと回る漁の見回りだ。景色は、悪くないぞ」
トメさんの小さな漁船に乗って、ぼくらは、島を一周する見回りに同行させてもらった。エンジン音と波の音だけの、静かな航海だった。断崖絶壁の岩場、白い砂浜の入り江、海鳥の群れる岩礁。小さな島の中に、驚くほど豊かな景色が詰まっていた。
トメさんは、途中、いくつかの岩場や浅瀬を指さしては、その名前と、まつわる話を教えてくれた。「あそこは、儂の父親が、初めて連れて行ってくれた漁場だ」「あの岩は、満潮のときだけ隠れる。昔、そこで嵐に遭って死んだ漁師がいてな、それ以来、あそこには近づかん決まりだ」。島の地図は、トメさんの頭の中に、隅々まで刻まれているようだった。
「儂がここで死にたい理由が、少しは分かったか」トメさんは、舵を握りながら、ぼくらに言った。
「分かる気がします」ぼくは、答えた。「こんな景色を毎日見てたら、他の場所で死にたいとは、思わないかもしれない」
船が、島の反対側の入り江に差しかかったとき、トメさんは、ふと、エンジンを緩めた。透き通った水の中に、色とりどりの魚影が見え隠れしていた。
「ここは、儂とハルエが、初めて会った場所だ」トメさんは、懐かしそうに言った。「五十年近く前になるかね。……あんたらは、まだ、若いカップルだろう。こういう景色を、いくつも一緒に見ておくといい。老いてから、思い出せる景色は、多いほどいい」
ぼくとミナは、顔を見合わせて、少し照れくさく笑った。
船が港に戻る頃には、日が傾き始めていた。夕焼けに染まる海と、小さな島の輪郭を、ぼくはカメラに収めた。ファインダーの中で、トメさんの操る舵と、その向こうに広がる夕焼けが、ひとつの絵のように収まった。
その夜、ぼくとミナは、宿の外に出て、島でいちばん高い岩場から、星空を見上げた。他の街にはない、島ならではの静けさの中で、ヴェルデの光が、いつもよりくっきりと見えた。
「今日みたいな時間、また作ろうね」ミナが、隣に座って言った。「二人だけの、何もしない時間」
「うん」ぼくは、ミナの手を握った。「これからも、たくさん作ろう」
翌朝、ぼくらは、トメさんとハルエさんに見送られて、エイル島を発った。港には、他にも、何人かの島民が見送りに来ていて、初めて訪れたよそ者のぼくらにも、気さくに手を振ってくれた。
「また来い」トメさんは、ぶっきらぼうに言った。「エリと、鉢合わせしてもいいようにな」
船が港を離れる。小さな島が、少しずつ、水平線に溶けていく。ミナは、手帳を開いて、余白のページに、一行、書き足した。
――ここで死にたい場所を、選ぶ権利の島。
「短い滞在だったのに、濃い時間だったね」ミナが、手帳を閉じながら言った。
「うん」ぼくは頷いた。「トメさんの言葉、覚えとく。景色は、いくつも一緒に見ておいた方がいいって」
船の上、ぼくらは、また、寄り添って座った。行きの船と同じように、誰の目も気にせず、ただ、隣にいる時間を味わった。ヴェルデの光る空の下、波の音だけが、しばらく、ぼくらを包んでいた。
ぼくは、この島で見た、いくつもの「選ぶ」場面を思い出していた。トメさんとハルエさんは、島に残ることを選んだ。エリさんは、子どもたちのもとへ戻ることを選び、それでも、両親との縁を切ることは選ばなかった。誰も、間違っていなかった。それぞれが、それぞれの「ここで死にたい場所」を、自分の手で選び取っていた。
ぼくは、ふと、自分たちの旅のことを考えた。ぼくとミナは、まだ、旅の途中だ。「ここで死にたい場所」を選ぶには、まだ、早すぎる。それでも、いつか、そういう場所が見つかったとき、迷わず選び取れるように、今は、たくさんの場所を、たくさんの人と一緒に見ておきたいと思った。
(第十一章 了)




