ここで死にたい場所
ラゼルを発って三日、ぼくらは、大陸最後の港町から、小さな連絡船に乗り込んだ。
エイル島。本土から、船で半日かかる、小さな漁業の島だった。母さんの手帳には載っていない島だけれど、行商人が「変わった島がある」と教えてくれたのが、ここに来たきっかけだった。
「最近、あの島は、ちょっとした騒ぎになっとるよ」行商人は、船着き場でそう言った。「政府が、避難勧告を出したのに、島の連中、誰も従わんのだと」
船は、老朽化した木造船で、乗客はぼくらの他に数人しかいなかった。甲板に立つと、潮風が強く、ミナの髪をあおった。
「半日か……」ミナは、揺れる甲板の上で、少しふらつきながら言った。「船旅、久しぶり」
「ソネルの海以来だね」ぼくは、ミナの体を支えながら言った。「あのときより、ずっと揺れる」
波が高くなるにつれ、船はいっそう揺れた。ぼくらは、他の乗客から少し離れた船尾に腰を下ろし、寄り添うようにして、揺れをやり過ごした。誰かの目を気にすることもなく、ただ二人きりで、半日を過ごせるのは、旅に出てから、初めてのことだった。乗り合わせた老夫婦が、時折、こちらを微笑ましそうに見ていることに気づいて、ぼくは少し照れくさくなった。
「こういうの、いいね」ミナが、ぼくの肩に頭を預けて言った。「街に着いたら、また忙しくなるから」
「うん」ぼくは、ミナの肩を抱いた。「今だけ、ゆっくりしよう」
波の音と、エンジンの低い唸りだけが聞こえる、静かな半日だった。ぼくらは、大した会話もせずに、ただ、隣り合っている時間を、味わっていた。
エイル島は、想像していたより、ずっと小さな島だった。港を中心に、家が百軒足らず。島を一周歩いても、半日もかからなさそうな大きさだった。
港に降り立つと、すぐに、島の異様な静けさに気づいた。他の島や港町なら、避難勧告のあとには、人がまばらになっているものだと思っていた。でも、エイル島の港には、いつも通りに漁船が並び、網を繕う老人たちの姿があった。空き家になったはずの家々の軒先にも、洗濯物が干されていたり、鉢植えに水がやられていたりして、生活の気配が、しっかりと残っていた。
「あんたら、旅の人かい」網を繕っていた老人が、顔を上げて言った。「宿なら、うちに来な。空いてる部屋がある。……というより、今は、どこも空いとるよ。避難した連中の部屋が、みんな空になったからな」
老人の名は、トメさんといった。日に焼けた顔に、深い皺が刻まれた、七十を超えていそうな漁師だった。
トメさんの家は、港のすぐそばにあった。案内された部屋は、確かに、誰かが使わなくなって久しい様子だった。壁には、若い頃のトメさんらしい写真が飾ってあり、たくましい体つきで、大漁の魚を担いで笑っている姿が写っていた。
「避難した人、多いんですか」ミナが訊いた。
「船に乗れる若いのは、だいたい行ったよ」トメさんは、あっさりと言った。「政府が、船を出してくれてな。子どものおる家は、ほとんど行った」
「トメさんは、行かないんですか」
「行かん」トメさんは、迷いもなく言った。「儂は、この島で生まれて、この島の海で、七十年、魚を獲ってきた。……本土に行って、知らん部屋で、知らん天井を見ながら死ぬくらいなら、ここで、海を見ながら死んだ方が、よっぽどましだ」
その口調には、悲壮感よりも、揺るぎない意志のようなものが感じられた。
「他の、残った人たちも、みんな、同じ気持ちなんですか」
「だいたいはな」トメさんは、頷いた。「若いのが行って、年寄りが残った。単純な話だ。……本土に行って、子どもや孫の世話になって、肩身の狭い思いをするくらいなら、ここで、好きにやって死にたい。それだけのことさ」
翌日の昼、港に、一艘の小さな船が着いた。
降りてきたのは、三十代くらいの女の人だった。大きな旅行鞄を提げ、緊張した面持ちで、港を見回している。トメさんが、その姿に気づいて、手にしていた網を、ぽとりと落とした。
「……エリ」
「父さん」
女の人――エリさんは、トメさんに駆け寄って、それから、少し離れたところで、足を止めた。まるで、駆け寄っていいのか、迷っているみたいだった。
「何しに来た」トメさんの声は、硬かった。「本土に、無事着いたと聞いとったが」
「着いたよ。子どもたちも、元気にしてる」エリさんは、鞄を抱え直しながら言った。「でも……どうしても、もう一度、父さんと母さんの顔を見たくて。船に空きがあったから、無理言って、乗せてもらった」
「見て、どうする」トメさんは、背を向けて、家の方へ歩き出した。「儂らは、行かん。何度言えば分かる」
「分かってる!」エリさんの声が、初めて大きくなった。「分かってるよ、父さんの意地は。……でも、わたしは、まだ、諦めてない」
トメさんは、振り返らずに、家の中に入っていった。エリさんは、その背中を見送りながら、その場に立ち尽くしていた。
その夜、トメさんの家の食卓は、重い沈黙に包まれていた。トメさんの妻――エリさんの母である、ハルエさんという人が、黙って料理を並べていた。エリさんは、両親の顔色をうかがいながら、箸をつけられずにいた。
「あんたたち、旅の人だったね」ハルエさんが、場を和ませるように、ぼくらに話しかけた。「エイル島は、どうだい」
「静かで、いい島だと思います」ぼくは、正直に答えた。「でも、その、避難勧告のことは」
「その話は、この家では、御法度でね」ハルエさんは、少し苦笑いした。「もう、何度も、同じ言い合いをしてきたから」
トメさんは、黙々と、箸を動かし続けていた。エリさんは、ついに耐えかねたように、箸を置いた。
「父さん。母さんも。……本当に、このままでいいの。ヴェルデが落ちるとき、この島は、絶対に安全とは言えないって、政府も言ってる。津波が来るかもしれないって」
「来るかもしれん。来んかもしれん」トメさんは、顔も上げずに言った。「儂は、賭けをしとるわけじゃない。ここで生きて、ここで死ぬと、決めとるだけだ」
「わたしの子どもたちは、おじいちゃんとおばあちゃんに、もう会えないかもしれないんだよ」
その一言に、トメさんの箸が、初めて止まった。
沈黙が、食卓に落ちた。ハルエさんが、そっと立ち上がって、追加の汁物を取りに、台所へ消えた。エリさんは、涙をこらえるように、下唇を噛んでいた。
「……分かっとる」トメさんは、ようやく、絞り出すように言った。「分かっとるから、辛いんだ。お前や、孫の顔が見れんくなるのは、儂だって、辛い。……それでも、儂は、この島を離れられん。理屈じゃないんだ、これは」
「理屈じゃないなら、なおさら、考え直せないの」
「考え直せんから、理屈じゃないと言っとる」トメさんは、少し語気を強めた。それから、すぐに、後悔したように、声を落とした。「……すまん。お前を、責めたいわけじゃない」
その夜の食卓は、それ以上、多くを語られないまま、静かに終わった。
その夜遅く、ぼくは、外の物音で目を覚ました。風が、いつになく強く、家の戸をがたがたと鳴らしていた。
翌朝、港に出ると、空は分厚い雲に覆われ、波が、これまで見た中でいちばん荒れていた。漁師たちが、口々に、嵐の予兆を語り合っていた。
「今日から二日、船は出せんな」トメさんが、空を見上げて言った。「この時季の嵐は、長引く」
エリさんの顔が、青ざめた。
「二日……」エリさんは、呟いた。「わたし、子どもたちを、本土に置いてきてる。二日も、離れているつもりじゃ」
「船が出せんもんは、出せん」トメさんは、静かに言った。「自然には、逆らえん。……それが、この島の暮らしだ」
ぼくとミナも、島に足止めされることになった。宿を提供してくれていたトメさんの家に、もう二日、世話になることになった。
嵐の中の島は、静かだった。漁に出られない漁師たちは、家々にこもり、網の手入れや、道具の修理をして過ごしていた。ぼくとミナは、トメさんの家の軒先で、雨風をしのぎながら、小さな島の暮らしを、間近で見ていた。
「狭い島だね」ミナが、雨音を聞きながら言った。「でも、なんか、居心地悪くない」
「うん」ぼくも、同意した。「こういう、何もしない時間、久しぶりかも」
昼過ぎ、ぼくは、カメラを持って、軒先から、雨に煙る港を撮った。繋がれた漁船が、波にもまれながら、それでも、しっかりとロープでつながれている様子。網を黙々と繕う老人の、節くれだった手。嵐の中の島は、静かだけれど、決して、命の気配が消えているわけではなかった。
「島の人たち、嵐に慣れてるんだね」ミナが、隣で言った。「怖がってる人、一人もいない」
「怖くないわけじゃ、ないと思う」ぼくは、シャッターを切りながら言った。「ただ、怖さと一緒に生きる術を、知ってるんだと思う」
夜、雨音の響く部屋で、ぼくとミナは、狭い縁側に並んで座っていた。トメさんの家は小さく、他にすることもなく、ぼくらは、自然と、たくさん話すようになっていた。
「ねえ、ハル。わたしたちも、いつか、トメさんとハルエさんみたいになるのかな」ミナが、雨音を聞きながら言った。「何十年も一緒にいて、意地を張ったり、それでも隣にいたり」
「なりたい、と思ってる」ぼくは、素直に答えた。「双月岬で言ったこと、今も、変わってない」
「わたしも」ミナは、ぼくの肩に、そっと頭をもたせかけた。「こういう、何もない時間が、いちばん好きかもしれない。派手な出来事がない、ただの夜」
ぼくらは、それ以上、多くを語らずに、雨音だけを聞きながら、しばらく、そうしていた。




