これが、本当の数字です
事件が起きたのは、その翌朝だった。
早朝、街の広場が、いつになく騒がしかった。ぼくらが駆けつけると、掲示板の前に、人だかりができていた。誰かが、夜のうちに、公式発表の紙の上から、別の紙を貼り重ねていたのだ。
そこには、手書きの文字で、衝突の推定日時と、落下の推定地域が、誤差の範囲まで含めて、詳細に記されていた。文末には、こう書かれていた。
――これが、天文台が計算した、本当の数字です。判断は、あなた自身に委ねます。
人だかりの中に、カイさんの姿はなかった。でも、ぼくには、誰の仕業か、すぐに分かった。
その日のうちに、街は、二つに割れた。真実を知れてよかったと言う人、なぜ黙っていたのかと怒る人、こんな不確かな数字を出されても混乱するだけだと憤る人。広場では、何度も、怒鳴り合いが起きた。
「知ってたら、家族ともっと早く、最後の時間を計画できたのに!」ある女性が、掲示板の跡地で叫んでいた。
「誤差二週間の数字なんぞ、何の役に立つ! 余計混乱するだけだ!」別の男が、それに怒鳴り返していた。
子どもを連れた母親は、掲示板の前で、ただ黙って立ち尽くしていた。知りたかったのか、知りたくなかったのか、その表情からは、ぼくには読み取れなかった。制服の男たちが、慌ただしく走り回り、掲示板の紙は、すぐに剥がされたけれど、噂は、もう街中に広まったあとだった。
昼過ぎ、ぼくらは、宿の裏手で、青ざめた顔のカイさんを見つけた。制服の男たちに、腕を掴まれている。
「待ってください」ぼくは、反射的に叫んでいた。「何をするんですか」
「関係ない者は、下がっていろ」制服の男が、鋭く言った。
「関係、あります」ミナが、ぼくの隣で、負けじと言った。「わたしたち、旅をしていて、いろんな街で、いろんな人の嘘や、本当のことを見てきました。……この人は、嘘をつくのをやめただけです」
制服の男は、一瞬、ひるんだような顔をした。そこへ、セイラ博士が、息を切らして駆けつけてきた。
「待って。彼を連れて行くなら、私も一緒に行きます」セイラ博士は、毅然と言った。「彼がやったことの責任は、所長である私にもある。彼一人を、罪人にはさせません」
「博士……」カイさんが、驚いた顔で博士を見た。
「あなたは、間違ったことをした」セイラ博士は、カイさんに向かって、静かに、でもはっきりと言った。「規則違反よ。処分は免れない。……でも、あなたが間違っていたとは、私は思わない。それだけは、言っておく」
ぼくは、その一瞬の光景を、無我夢中でカメラに収めた。腕を掴まれたカイさんと、その前に立ちはだかるセイラ博士。ピントも構図も、めちゃくちゃだったと思う。それでも、シャッターを切らずにはいられなかった。あとで見返したとき、この一枚が、ぶれた写真の中で、いちばん鮮明な記憶を語ってくれる気がした。
制服の男たちは、結局、カイさんとセイラ博士を、その場では連れて行かなかった。しばらくして、街に、政府からの正式な使者が到着した。研究所の会議室で、使者と、街の代表と、セイラ博士とが、何時間にもわたって話し合いを続けているあいだ、街の人々は、正式な発表を求めて、研究所の前に集まり続けた。誰も暴徒化はしなかった。ただ、じっと、答えを待っていた。
ぼくとミナも、その人だかりの中にいた。日が暮れても、誰も帰ろうとしなかった。誰かが、遠くから運んできた薪で焚き火を熾し、それを囲むように、人々は、押し黙ったまま座り込んでいた。子どもたちは、いつもと違う大人たちの雰囲気を察してか、いつもより静かに、親の膝の上で眠っていた。星空だけが、いつもと変わらず、頭上に広がっていた。ヴェルデの緑の光も、いつも通り、そこにあった。
その日の夜、街の広場に、政府の使者が姿を現し、住民たちの前で、正式な発表を行った。使者は、緊張した面持ちで、用意された紙を読み上げた。
「衝突の推定日時、および落下推定地域について、誤差の範囲を明記した上で、来月より、定期的に情報を更新し、公表することとします」
完全な勝利ではなかった。日時と場所は、まだ、誤差付きの「推定」のままだったし、即時の全面公開でもなかった。それでも、隠し続けるという方針だけは、覆った。
その夜、宿の食堂で、カイさんが、ぼくらに礼を言いに来た。
「処分は受けることになった」カイさんは、少し疲れた顔で、それでも、どこかすっきりとした表情で言った。「観測業務からは、しばらく外される。……でも、後悔はしてない。あんたらが、あの場で、余計な口を挟んでくれなかったら、あの場で、もっと悪い結末になってたかもしれない」
「余計な口じゃないです」ミナが言った。「本当だと思ったことを、言っただけです」
「セイラ博士は」ぼくは訊いた。
「所長職は、しばらく続けるさ」カイさんは、少し笑った。「あの人がいなくなったら、この観測所は、本当に、政府の言いなりになる。……博士は、そこまで計算して、俺を庇ったんだと思う」
翌朝、ぼくらは、ラゼルを発つことになった。駅まで、セイラ博士が、見送りに来てくれた。
「あなたたちの言葉が、あの場の空気を、少しだけ変えた」セイラ博士は言った。「感謝している。……あなたたちの旅は、まだ続くのでしょう」
「はい」ぼくは頷いた。「まだ、たくさん行きたい場所があります」
「うらやましいな」セイラ博士は、少し笑った。「私は、ずっと空ばかり見て生きてきた。……たまには、あなたたちみたいに、地上を歩き回るのも、いいのかもしれない」
「博士も、いつか、旅に出るんですか」ミナが訊いた。
「さあ、どうかしら」セイラ博士は、丘の上のドームを見上げた。「でも、少なくとも、次の観測の合間には、この街の外れの丘まで、歩いてみようと思ってる。……ずっと望遠鏡越しにしか、星を見てこなかったから」
「これを」セイラ博士は、小さな紙片を差し出した。そこには、手書きの、簡単な星図が描かれていた。「ヴェルデの、今の正確な位置と、これからの見え方の予測。……あなたのカメラで、夜空を撮るときの、参考になれば」
ぼくは、その星図を、大切にカメラケースにしまった。
汽車が動き出す。丘の上のドームが、少しずつ遠ざかっていく。ミナは、手帳を開いて、余白のページに、一行、書き足した。
――嘘をやめる勇気を、もう一度見た街。
「フェリスと、似た言葉になっちゃった」ミナは、少し照れたように言った。
「似てるけど、違う」ぼくは言った。「あっちは、嘘をやめる勇気。こっちは、真実を選ぶ勇気。……似てるようで、少し違う気がする」
「うん」ミナは頷いて、手帳を閉じた。「でも、根っこは同じかもね」
汽車が動き出す直前、ぼくは、ふと、この四日間のことを振り返っていた。ラゼルに来る前は、恋人になったばかりの気まずさばかりを気にしていたけれど、この街で見てきたものの重さに比べたら、そんな気まずさは、なんだか、ずいぶん小さなことのように思えた。
「ミナ」
「なに」
「さっきの、カメラの話だけど」ぼくは、思い切って言った。「これから先も、たくさん撮っていい? ミナのこと」
ミナは、少し驚いた顔をして、それから、耳を赤くしながら、小さく頷いた。
「……うん。今度は、ちゃんと、自然な顔で写るように、頑張る」
「無理しなくていいよ」ぼくは笑った。「気まずい顔も、ミナだから」
「それ、褒めてないでしょ」
ミナが、軽くぼくの肩を叩いた。汽車のがたごとという音に紛れて、ぼくらは、どちらからともなく、小さく笑い合った。
ぼくは、旅の中で出会ってきた、いろんな「知らせるか、隠すか」の場面を思い出していた。ガンテさんは、子どもたちに大漁の嘘をついた。マーゴさんは、悲恋劇の結末を、嘘から本当へ書き戻した。そして、カイさんとセイラ博士は、政府の隠した数字を、世に出した。嘘をつくことと、真実を明かすこと。どちらが正しいかは、たぶん、街によって、人によって、答えが違う。それでも、ひとつだけ共通していることがあるとすれば、それは、誰かのために、勇気を振り絞って、選び取られた答えだということだった。
夜、車窓の空に、緑の星が、長い尾を引いていた。セイラ博士がくれた星図と、実際の夜空を見比べながら、ぼくは、ヴェルデの位置を、ノートの端に書き留めた。数字にしてみると、その光は、少しだけ、身近なものに感じられた。
(第十章 了)




