第9話 言おうとして、やめた
七日ぶりの大食堂は、蝋燭が一本増えていた。
片側に七本ずつ。冬が近いということだ。数が増えると、卓の上の影の落ち方が変わる。皿の縁に沿って、細い影が二重になる。
ベルガーさんがわたくしの両手をあらためた。爪の内側まで見て、布で拭う。
拭き終えて、手を離したあと、その人はすぐには下がらなかった。
「毒味」
「はい」
言葉を選んでいる間があった。四十年この屋敷にいる人が、言葉を選ぶ。
結局、こうなった。
「支度を」
「はい」
膳が運ばれてくる。
根菜と、干した肉と、麦の粥と、汁と、酢に漬けた魚。五つ。
厨房で、ヨナスさんが鍋を三つ同時にかけていた。七日ぶんの分量を取り戻すような火の使い方だった。
この七日、閣下は召し上がっていない。正しくは、膳を召し上がっていない。
代毒者が務められないあいだ、儀は行われない。儀が行われなければ膳は出せない。出せないから、閣下は書斎でパンと水だけで過ごされた。
わたくしはそれを、休みの四日目にティナから聞いた。
「パンだけですよ、七日も」
ティナは椀を持ったまま憤慨していた。
「厨房のみんな、作るものがなくて手持ち無沙汰で。家令さまが何度も伺いを立てたのに、いらぬの一点張りだったって」
わたくしは薬湯を飲みながら聞いていた。
閣下がお倒れになれば国が困る。だから代毒者がいる。その代毒者が寝込んでいるあいだ、あの方はパンをかじっていた。
わがままだと、屋敷の者は言った。強情な方だと。
いま、鍋が三つかかっている。
七日ぶりの膳が、目の前に五つ並んでいる。
先生が皿の上に手をかざしていく。五つ目まで終えて、顎を引いた。
「結構です」
わたくしは席に着いた。
背もたれのない椅子に腰を下ろすと、七日ぶんの休みが身体から抜けていくのが分かった。ここに座れば、休んでいたことにはならない。
膳を運んできた給仕が、皿を置く手を少しだけ止めた。
顔は上げない。上げないまま、いちばん端の皿を、わたくしの手の届きやすい位置へ寄せた。
それだけのことだ。目は合わない。合わせてはいけないことになっている。
この屋敷の親切は、たいていこういう形をしている。
一皿目に手を伸ばした。
匙の柄が、指のあいだで少し滑る。持ち直して、掬って、口へ運ぶ。飲み下す。
三十を数える。何も起きない。
二皿目に手を伸ばしたとき、上座で音がした。
閣下が、匙を卓に置かれた。
置いただけだ。落としたのでもなければ、勢いよく置いたのでもない。ただ、持っていたものを手から離された。
わたくしは手を止めた。
ベルガーさんが顔を上げる。壁際で、先生が両手を前で組み直した。
閣下は、ご自分の皿を見ておられる。
それから、こちらを向いた。
口が、少し開いた。
わたくしは待った。何を言われても答えられるように、頭の中で言葉を並べようとした。並ぶ言葉がなかった。三か月と少しのあいだ、この方から言われたのは「その皿を、下げろ」の一つきりで、それは家令に向けられたものだった。
閣下の喉が一度動いた。
言葉の形に息を吸われたのが分かった。声にならずに、途中で止まる。
ベルガーさんが一歩、卓のほうへ出た。
出ただけだ。何も言っていない。杖を突くわけでも、咳払いをするわけでもない。ただ、影が一つぶん卓に近づいた。
それで足りた。
閣下の口が閉じた。
匙を取り直された。掬って、召し上がる。速い。いつもの速さだった。
わたくしは二皿目に手を伸ばした。
三皿目、四皿目、五皿目と続けた。
途中で二度、上座を見た。閣下はこちらを見ておられなかった。わたくしが匙を上げると目を落とし、数え始めると戻ってくる。前と同じだった。
「毒味、終わりましてございます」
立ち上がって、一礼した。
下がろうとして、卓の脇を通る。
視界の端で、手が動いた。
閣下の右手だった。卓の上に置かれていたのが、少し浮いた。
肘から先が、こちらへ向かって動きかけて、そこで止まった。
止まったあと、その手は卓の縁を掴んだ。掴んで、動かなくなった。
手袋の革が、木の縁で軋む音がした。
伸ばしかけた先には、何もない。
卓の脇には、わたくしが通るぶんの隙間があるだけだ。皿もなければ、杯もない。取ろうとしたものがあったわけではない。
わたくしは足を止めなかった。止めれば、こちらが気づいたことになる。気づいたことにすれば、あの方は次から手を動かさなくなる。
なぜそう思ったのかは、自分でも分からない。
通り過ぎながら、その手を見ていた。
指の付け根のあたりで、革がきつく張っている。握っているからだ。
それから、左手が右手の手袋の縁にかかった。
引き下ろすように、革を手首のほうへ押し込む。もともと隙間などないのに、もっと深く嵌めようとしている。
大食堂を出るまで、その音が背中で続いていた。
廊下の蝋燭は三本のままだった。
石に手を這わせながら歩く。壁の冷たさを伝えてくるのは、親指と小指だけになった。あいだの三本は、触れているのかどうかも分からない。
部屋に入って、扉を閉めた。
あの方は、何かを言おうとされた。
ベルガーさんが一歩出ただけで、やめられた。
言えば咎められることなのだろう。儀のあいだに代毒者と口をきいてはならないという決まりは聞いていないが、聞いていないだけで、あるのかもしれない。この屋敷の決まりは、破ってみるまで分からないものが多い。
着任した日に渡された紙には、三つしか書いていなかった。供された順に食べること。吐き出さぬこと。問いを持たぬこと。
三つで足りると宗務院が考えたのは、代毒者に許される動きがそれだけ少ないからだろう。禁じることが少ないのは、自由が多いからではない。
あるいは、と思う。
言おうとしてやめたのではなく、言うのをやめる理由が、ベルガーさんが一歩出たことだけではなかったのかもしれない。
あの方は、家令に止められて口を閉じたのではない気がする。止められる前から、言えないことだと分かっていて、それでも言いかけた。分かっていたのに言いかけて、分かっていたとおりに、やめた。
七日、パンだけで過ごした人だ。
膳が出せないなら出さなくていいと言い張れる人が、家令の一歩で口を閉じるだろうか。
寝台に腰を下ろした。藁が沈む。
言えないことなら、聞かないほうがいい。
聞いてしまえば、聞いた者になる。聞いた者は、聞かなかったふりができない。
そう思って、その晩は眠った。
そう思ったのは、たぶん、間違いだった。




