第10話 数が合わない
厨房の壁際に、綴じた紙の束が並んでいる。
棚は三段あって、下から順に古いものが詰まっていた。背表紙に年が墨で書いてある。糸の綴じが緩んで、紙の端が扇のように広がっているものもあれば、まだ角の立っているものもある。
翌日の膳を確かめに寄った日に、ヨナスさんがそのうちの一冊を開いていた。
「同じ皿を二年続けて出すと、旦那様が飽きる」
こちらを見ずに言った。
「去年の今ごろ何を出したか、覚えてられるか。俺は覚えてられん。だから書く」
開いた頁を、太い指がなぞっていく。
「これが二十二年ぶんだ。俺が来る前のは、前の料理長が書いた」
わたくしは棚を見た。
二十二年。この人が来る前から続いている。
「明日の分は、まだ決めてねえ。塩漬けの樽を開けてからだ」
ヨナスさんは束を卓に置いて、地下へ降りていった。
階段の下から、木の樽を転がす音がした。
卓の上に、開いたままの帳面が残っていた。
見るつもりはなかった。
待つあいだ、手持ち無沙汰だっただけだ。
頁は、一日に一行ずつ書かれていた。
日付。皿の数。何を出したか。それから右の端に、細い欄がある。
欄の上に「代毒」と刷ってあった。
その下に、○が並んでいる。ときどき、×が混じる。
×は、儀が行われなかった日だ。
代毒者が休めば、膳は出せない。出せない日は、厨房も作らない。だから料理人にとっては、書き留めておかねばならないことになる。
わたくしは、今年の頁をめくった。
自分の×を探した。すぐ見つかった。三日続いたところと、七日続いたところ。あの発作の日だ。
その手前の頁へ戻る。
三か月前まで、この欄を埋めていたのは、あの人だ。
二年ぶんある。
わたくしは数えるつもりはなかった。数えるつもりはなかったのに、目が勝手に間隔を測っていた。
最初の一年。×は少ない。二月に一度、三日ずつ。
次の半年。一月に一度。日数は同じ三日。
最後の半年。半月に一度。日数が五日、七日と伸びていく。
いちばん最後の×は、十一日続いて、そこで途切れている。
わたくしは頁の上に指を置いたまま、しばらく動かなかった。
病というものは、こんなふうに来るものだろうか。
風邪なら、寒い月に固まるはずだ。腹を下したなら、悪いものが出た日に集まるはずだ。
この×は、そういう固まり方をしていない。
等しい間隔で置かれていて、その間隔が、後になるほど短くなっている。
まるで、誰かが調子を見ながら置いていったように見える。
そう思ってしまってから、わたくしは頁をめくる手を早めた。
さらに前へ戻った。
あの人の前の代毒者。名は書かれていない。欄には○と×があるだけだ。
同じ形をしていた。最初は少なく、後になるほど短い間隔で、最後に長い×が来て、途切れる。
その前も。
その前も。
三人ぶんまで見て、手を止めた。
似ているのは当たり前かもしれない。同じ務めをして、同じものを食べて、同じように弱っていくのだから、同じ形になるほうが自然だ。
そう思うことにした。
思うことにして、頁を閉じようとした。
閉じようとして、目が引っかかった。
代毒者が入れ替わる時期がある。
前の人の×が途切れて、しばらくして、また○が始まる。そのあいだが、新しい人が来るまでの空白だ。
その空白の長さが、揃っていない。
ある年は、半月で次が来ている。
ある年は、二月かかっている。
それはいい。宗務院の都合もあるだろう。人が見つからない年もあるだろう。
揃っていないのは、そこではなかった。
空白のあいだ、儀は行われない。行われなければ、×が並ぶはずだ。代毒者がいないのだから、膳は出せない。
ところが。
○が続いている年がある。
代毒者が入れ替わっているはずの時期に、儀が一日も欠けていない。
誰かが食べている。
その誰かは、前の人でもなければ、次の人でもない。
わたくしは、その頁の年を見た。
十四年前と書いてあった。
もう一度、前後の頁を確かめた。見間違いではなかった。
同じことが、別の年にもある。九年前。六年前。
書き落としということもある。忙しければ、○を書いたつもりで書いていない日もあるだろう。
けれど、書き落とすなら一日か二日だ。この年は、二月ぶん続けて○が並んでいる。二月ぶん書き落とす料理人はいない。
では、誰かが食べていた。
代毒者が入れ替わるあいだの二月、誰かがこの席に座って、五つの皿を一口ずつ口に運んでいた。
その人は、名簿に載っていない。載っていれば番号がつき、番号がつけば十七人ではなく、もっと多い数になっている。
あるいは、と思い直した。
番号のつかない誰かが、番号のつかないまま、数に入らずに終わったということかもしれない。
地下から、樽を転がす音が近づいてきた。
わたくしは帳面を閉じて、元の位置に戻した。
ヨナスさんが階段から上がってくる。肩に麻袋を担いで、額に汗をかいていた。
袋を床に下ろして、腰を叩く。
「明日は塩漬けが使える。豆を足すぞ」
「はい」
わたくしは頭を下げた。下げてから、顔を上げた。
「ヨナスさん」
「なんだ」
「代毒者が休むのは、珍しいことでしょうか」
麻袋の口を縛っていた手が、止まった。
止まったまま、しばらく動かなかった。竈の火が、薪の割れる音を立てた。
ヨナスさんは、こちらを見なかった。
袋の口を縛り終えて、それから、短く言った。
「あんたが十七人目だ」
それだけだった。
答えになっていない。珍しいことかどうかを訊いたのに、番号を返された。
「はい」
わたくしはそう答えた。ほかに答えようがなかった。
この人は、答えられないのだと分かった。知らないのではない。知っていて、口にできないから、数だけを置いた。
ヨナスさんは鍋のほうへ向き直った。
いつもの背中だった。いつもの背中のはずなのに、肩のあたりが少し丸く見えた。
部屋へ戻る廊下で、数字が頭から離れなかった。
この屋敷の誰に訊いても、たぶん同じ答えが返る。ベルガーさんは存じませんと言い、ヨナスさんは番号を置く。ティナは知らない。
訊いてはいけないことになっているのだから、当然だ。
休みの間隔は、規則正しかった。
けれど、代毒者が入れ替わるはずの時期に、誰も休んでいない年がある。
病というものは、そんなに行儀よく来るものだろうか。
その答えを考える暇は、翌日の晩餐でなくなった。
あの方が、わたくしより先に、匙を取られたからだ。




