第11話 今日は、私が先に
いつもどおりに始まった。
蝋燭が片側に七本。膳は五つ。ベルガーさんがわたくしの両手をあらためて、布で拭う。給仕が皿を置く。目は合わない。
先生が皿の上に手をかざしていく。五つ目まで終えて、顎を引いた。
「結構です」
ベルガーさんが一歩、机の脇へ出た。儀の始まりの合図だ。
わたくしは銀の匙を取った。
そこで、上座から音がした。
匙が皿に触れる音だった。
顔を上げると、閣下が一皿目を掬っておられた。
そのまま、口へ運ばれる。
大食堂の音が、なくなった。
給仕の男が盆を胸の高さで持ったまま、動かない。壁際で、先生の組んだ手がほどけた。わたくしは匙を握ったまま、掬うことも置くこともできずにいた。
閣下は二口目を召し上がった。三口目も。
いつもの速さだった。速く、迷いなく、味わわずに。
わたくしはその手を見ていた。
手袋をしたままだった。革の指が匙の柄を握って、皿から口へ、皿から口へと動く。三か月と少しのあいだ、わたくしが五つを終えるまで一度も動かなかった手が、今、わたくしより先に動いている。
誰も止めない。
止められる者がいないのだと、そのとき初めて分かった。この卓で儀を守らせる役目はベルガーさんが負っている。けれど、家令が主人の腕を掴むことはできない。
「閣下」
ベルガーさんの声は、大きくなかった。
閣下は四口目を飲み込まれてから、匙を卓に置かれた。
置いてから、口を開かれた。
「今日は、私が先にいただこう」
それだけだった。
理由は、何もおっしゃらなかった。
ベルガーさんが卓のほうへ進み出た。
「代毒の成らぬまま召し上がるのは、儀に反します」
「知っている」
「宗務院へ報告いたさねばなりませぬ」
「報告しろ」
家令の口が、開いたまま止まった。
四十年、この人はこの屋敷の決まりを守ってきた。守らせてきた。守らせる相手が守らないと言い出したときにどうするかは、たぶん決まりに書いていない。
閣下がこちらを向かれた。
わたくしは匙を握ったままだった。
「お前は」
そこで言葉が切れた。
言い直される。
「残りは、食べなくていい」
わたくしは動けなかった。
恐ろしかったからではない。何を言われたのか分からなかったからだ。
食べなくていい。
その言葉が、この卓の上で意味を持つには、いくつも足りないものがあった。
膳は五つ出ている。五つ食べて初めて代毒は成る。代毒が成らなければ閣下は召し上がれない。ところが閣下は、もう召し上がっている。すでに一皿目に口をつけておられる。
つまり、この卓ではもう儀が壊れていて、わたくしが食べても食べなくても、壊れたままだ。
それなら食べなくてよいのかというと、そうはならない。
儀は閣下のものではない。宗務院のものだ。壊したのが閣下でも、壊れた場に座っていたのは代毒者だ。報告が上がれば、問われるのは、わたくしがどう振る舞ったかになる。
供された順に食べること。吐き出さぬこと。問いを持たぬこと。
紙に書いてあったのは三つだけだった。三つのどこにも、主人に止められたときどうするかは書いていない。
書いていないなら、書いてあるほうに従う。
わたくしは二皿目に手を伸ばした。
伸ばしながら、これは従順ではないのだと思っていた。
従うほうが安全だから従っている。決まりを破った者がどうなるかを、わたくしは知らない。知らないものは怖い。閣下の言葉より、紙に書いてある三行のほうが、わたくしには近い。
閣下が息を吸われるのが分かった。
止められはしなかった。止める言葉を、あの方は持っておられなかった。
命じることはできる。命じれば、わたくしは従わないだろう。従わなければ、あの方は自分の言葉が届かないことを見ることになる。だから命じない。
二皿目。三十を数える。何も起きない。
三皿目。四皿目。五皿目。
いつもより時間がかかった。上座で誰も食べていないのに、わたくしだけが食べているというのは、慣れない形だった。
「毒味、終わりましてございます」
ベルガーさんの声が、少し掠れていた。
廊下に出て、蝋燭の下を通る。
手を壁に当てて、そこで気づいた。
震えている。
匙を握っていたときには気づかなかった。務めのあいだは、震えていても手順は踏める。終わってから来る。
足音が走ってきた。
「あの、あの」
ティナだった。息を切らして、目が丸くなっている。
「閣下が、先に召し上がったって、ほんとですか」
「はい」
「ほんとに」
「はい」
ティナは口を両手で押さえた。押さえてから、指の隙間で言った。
「厨房、大騒ぎですよ。ヨナスさんが鍋落としました」
「あの、それって」
ティナが指を組んだり解いたりしている。
「毒味さまの、お仕事は」
「変わりません」
「でも、先に召し上がったんですよね。じゃあ、もし入ってたら」
そこまで言って、口を閉じた。自分が何を言いかけたのか、途中で分かったらしい。
もし入っていたら、倒れるのは閣下だ。
ティナは何か言おうとして、言葉を探して、見つからないまま走っていった。
部屋に戻って、扉を閉めた。
寝る前の手順を踏んだ。指を折る。七本。舌を上顎に押しつける。水を一口。
何も起きない。
寝台に腰を下ろして、そこから動かなかった。
なぜ。
憐れんでくださったのだろうか。
それなら、皿を下げさせればよかった。あの秋の祝いの日にそうしようとして、家令に止められた。止められたなら、もう一度やればいい。二度でも三度でも、主人が言えばいつかは通る。
通らないと分かっていて、別のやり方をされた。
儀を軽んじられたのだろうか。
それなら、報告しろとはおっしゃらない。黙っていろ、と言えばいい。この屋敷であの方が黙れと言えば、たいていの者は黙る。
わざわざ、記録に残るようにされた。
報告しろ、と。あの一言がなければ、家令は書かずに済ませたかもしれない。屋敷の恥になる話だ。書けと言われたから、書くしかなくなった。
膝の上で手を重ねた。震えは、まだ少し残っている。
あの方は、宗務院に知らせたがっておられる。
知らせて、どうなさりたいのだろう。
もう一つ、引っかかっていることがある。
ティナが言いかけて、やめたことだ。
もし入っていたら、倒れるのは閣下だ。
あの方は、それを承知で一皿目に口をつけられた。承知していない人ではない。この屋敷でいちばん、毒を警戒されるべき立場の方だ。
わたくしには、それが何のためなのか分からなかった。




