第12話 厳しくなるのは、閣下ではありません
朝、家令室に呼ばれた。
入るのは初めてだった。机が一つと、棚が壁いっぱい。棚には帳面が年ごとに詰まっていて、背表紙の墨が古いものほど薄い。窓が小さいせいで、昼でも蝋燭が要る。
ベルガーさんは机に向かって座っていた。立てとも座れとも言われなかったので、机の前に立った。
帳面が開いてある。昨夜の頁だった。
「これをご覧ください」
指が一行を示した。ベルガーさんの字は、細くて角が立っている。
――代毒、未完。
四文字だった。
「昨夜のことは、こう書きました」
「はい」
「あなたは、残りを召し上がりましたね」
「はい」
「結構です」
ベルガーさんは羽根ペンの先を布で拭って、置いた。
「それであなたの務めは果たされております。閣下がなさったことは、あなたの責ではありませぬ」
安堵するべきところだった。
わたくしは訊いた。
「閣下は、罰せられるのですか」
ベルガーさんが顔を上げた。この人が、わたくしの目を見たのは初めてだったかもしれない。
「大公が罰せられることは、ございません」
「では」
「儀を乱した記録が積み上がりますと、宗務院は儀を厳しくいたします」
そこで、少しの間があった。
「厳しくなるのは、閣下ではありません」
窓の小さい部屋で、蝋燭の芯がぱちりと鳴った。
「皿の数が増えます」
ベルガーさんは続けた。
「儀が乱れるのは、代毒が軽んじられているからだと本院は判じます。軽んじられぬよう、数を増やし、間を詰め、休みを減らす。それが厳しくするということでございます」
「休みを、減らす」
「減らします」
膝の裏が、少し冷えた。
「どのくらい、増えるのでしょうか」
「前は、五つが八つになりました」
「前」
「十一年前でございます。そのときの代毒者が、儀の最中に席を立ちました」
ベルガーさんの声には、恨みも同情もなかった。
「立った理由は、書いておりませぬ。書く欄がございません」
十一年前。八つ。
その人が何人目だったのかを、わたくしは訊かなかった。
「閣下は、ご存じなのですか」
「存じておられぬでしょう」
ベルガーさんは帳面を閉じた。
「閣下は、あなたを庇っておられる。庇うほど、あなたに皿が回る。──これを、どなたが閣下に申し上げるべきだと思われますか」
答えられなかった。
家令が申し上げれば、諫言になる。諫言は退けられている。すでに一度、なりませぬと申し上げて、報告しろと返された。
わたくしが申し上げれば。
代毒者が主人に口をきくことになる。
「代毒者は、問いを持ちませぬよう」
ベルガーさんはいつもの一言で締めた。
いつもと同じ言葉のはずが、今日は、少し違って聞こえた。
昼過ぎ、侍医室に呼ばれた。
月に一度の診察の日だった。
先生はいつもの調子で脈を取り、瞼を押し上げ、指の腹を一本ずつ押した。
「痺れは、どのあたりまで」
「三本でございます。人差し指と、中指と、薬指」
「手首の側へは」
「まだ、まいりません」
「結構」
先生は書き物机のほうへ行って、綴じ帳を開き、何かを書き込んだ。
書きながら、背を向けたまま言った。
「昨夜のことは、聞きました」
わたくしは黙っていた。
「閣下は、お優しい方です」
思いがけない言葉だった。この屋敷で、閣下を優しいと言った人を、わたくしは初めて見た。
「二十年、あの方を存じ上げております。十一のころからね」
羽根ペンが止まった。
十一。子どもの頃の閣下を、この人は知っている。二十年この屋敷にいるのだから、当たり前のことだ。当たり前のことなのに、羽根ペンが止まったのが気になった。
「お優しいのですが、儀というものを、よくご存じない。あれは大公家のものではなく、宗務院のものです。壊されれば、直しに来るのは本院です」
直しに来る。
その言い方だと、直されるのは物ということになる。
「儀が乱れれば、あなたの負担が増えます」
先生は振り返った。
「皿が増え、休みが減る。それを閣下はご存じない。……申し上げるべきなのでしょうが、わたしが申し上げれば、宗務院の者が口を出したことになります。難しいところです」
同じことを、朝にも聞いた。
二人が同じことを言っている。二人とも正しい。
「あなたのほうから、閣下に」
言いかけて、先生は首を横に振った。
「いえ。忘れてください。代毒者にそれを頼むのは、筋が違う」
診察が終わった。
薬を渡されて、受け取った。指が薬包を掴み損ねて、先生が下から支えてくださった。
「三本になりましたか」
「はい」
「では、次は手首を診ましょう。ひと月後です」
部屋を出ようとした背に、声がかかった。
「数えていますよ、ちゃんと。わたしは忘れません」
振り向くと、先生は綴じ帳に目を落としておられた。
羽根ペンが、また動き始めていた。
その晩、膳は五つだった。
いつもどおり並べられ、先生が手をかざし、ベルガーさんが一歩出る。
閣下が匙を取られた。
わたくしより、先に。
二日目だ。
昨夜は、何かの弾みだったのかもしれないと思っていた。二日続けば、弾みではない。
「閣下」
ベルガーさんが言う。
閣下は召し上がる。四口目で匙を置かれる。昨夜と同じ手順だった。手順になっている。
わたくしは五つを食べた。三十を数え、次へ移り、また数える。
閣下が先に召し上がった皿を、そのあとで食べる。同じ鍋から取り分けられたものだ。あの方が飲み込んで何も起きなかったのだから、そこに何もないことは、もう分かっている。
分かっていて食べるのは、分からずに食べるのと、まるで違った。手が軽い。
軽いことに気づいて、そのあとで、後ろめたくなった。あの方は、そのために先に召し上がっているわけではないだろうに。
何も起きない。
「毒味、終わりましてございます」
立ち上がって、一礼した。
下がろうとしたとき、上座から声がした。
「まだ、続ける」
顔を上げた。
閣下はこちらを見ておられなかった。杯に手を伸ばしておられる。誰に向けた言葉なのかも分からない。ベルガーさんに向けたのかもしれない。
わたくしは、何も答えられなかった。
部屋に戻って、寝る前の手順を踏んだ。七本。舌。水。
何も起きない。
寝台に横になって、朝と昼に聞いたことを並べた。
続ければ、記録が積み上がる。
記録が積み上がれば、宗務院が来る。
宗務院が来れば、儀は厳しくなる。
厳しくなるのは、閣下ではない。
あの方は、それを分かっていて、続けるとおっしゃった。
いや。
ベルガーさんは、閣下はご存じないだろうと言った。先生も、ご存じないと言った。
どちらでも同じことだった。
知らずに続けても、知っていて続けても、皿は増える。
わたくしを守るために、わたくしを追い詰める人がいる。




