第13話 峠が閉じる前に
朝、窓の外が白かった。
初雪だった。中庭の敷石が半分だけ埋まって、井戸の縁に薄く積もっている。屋根から落ちたぶんが、壁際に線を作っていた。
中庭では、御者が二人、荷馬車の前で言い合っていた。
「今日出さねえと、来月まで届かねえぞ」
「積み荷が揃ってねえんだ」
「揃うのを待ってたら、峠が閉じる」
わたくしは膳の確認に行く途中で、そこを通りかかった。
誰も口を止めない。いつものことだ。
厨房の戸口で、ヨナスさんが樽の蓋を叩いて閉めていた。
「揉めてるな」
こちらを見ずに言った。
「峠でございますか」
「王都まで、夏なら四日だ。使いが四日で着いて、返事持って四日で帰る」
樽を転がして、壁際へ寄せる。
「雪が乗ると、そうはいかん。十日だ。行きに五日、帰りに五日。急がせても半分にはならん」
十日。
「だから冬は、ここで起きたことは、ここで片づける」
ヨナスさんは手を叩いて、粉を落とした。
「毎年そうだ。四月の終わりまでな」
「お医者は」
「呼べん。この屋敷に先生がいるのは、そういう理由もある」
それはそうだ。雪で十日かかる土地に、宗務院が侍医を置いておく。理に適っている。
樽の列を数えながら、ヨナスさんが付け足した。
「塩漬けと干し肉が増える。生のものが減る。膳が単調になるが、我慢してもらう」
「わたくしは、味が分かりませんので」
言ってから、しまったと思った。
ヨナスさんは振り向かなかった。しばらく樽を動かして、それから低く言った。
「そうかい」
それきりだった。訊き返されなかったことが、ありがたかった。
昼、洗濯場の脇を通った。
湯気が立っていた。桶が並んで、侍女が四、五人、布を絞っている。
わたくしは通り過ぎるつもりだった。
「――庇ってらっしゃるって話でしょう」
足が、少しだけ遅くなった。
「二晩続けてよ。閣下が先に召し上がるなんて、聞いたことある?」
「ないわよ。家令さまが真っ青だったって」
「気に入られたんじゃないの」
布を絞る音が続いている。
「まあ、ねえ」
一人が言った。
「名前もない女が、ずいぶん出世したもんだわ」
笑いが起きかけて、止まった。
誰かが気づいた。気づいた者が隣を肘で突いて、隣がまた隣を突いて、湯気の向こうで声が消えていく。
わたくしは足を止めていた。止めるつもりはなかった。止まってしまったから、余計にいけなかった。
顔を上げている者は一人もいなかった。桶を見ている。布を見ている。手だけが動いている。
誰かが走ってくる音がした。
「ちょっと、今なんて言いました?」
ティナだった。籠も持たずに、洗濯場へ飛び込んでいく。
「今の、聞こえましたけど」
「ティナ、あんた」
「聞こえましたよ、はっきり」
わたくしはティナの袖を引いた。
「いけません」
「でも」
「行きましょう」
引っぱって、その場を離れた。
ティナは十歩ほど黙ってついてきて、それから言った。
「なんで止めるんですか」
「あなたが叱られます」
「叱られたっていいです」
「よくありません」
角を曲がって、ティナの袖を離した。
この娘は、まだ二か月しかここにいない。ここで働き続けるつもりでいる。わたくしのために誰かと揉めれば、残るのはこの娘のほうだ。
「あの人たち、間違ってます」
「間違っておりません」
ティナが顔を上げた。
「わたくしに名はございません。出世もしておりません。二晩続けて閣下が先に召し上がったのも、本当のことです」
「でも、言い方が」
「言い方だけです」
言い方だけのことで怒れる人がいるのは、たぶん幸せなことだ。
三か月と少し前まで、わたくしにもそれができた。
ティナは唇を噛んで、それから走っていった。
走るなと家令さまに叱られたばかりなのに。
一人になって、洗濯場のほうを振り返った。
湯気がまだ上がっている。声はもう聞こえない。
薪割り台の裏で下働きが話していたときは、誰も口を止めなかった。あのとき、わたくしはそこにいないことになっていた。
今日は、止まった。
見えるようになったのだと思った。
見えるようになるというのは、守られることではない。
夕方、大食堂に入って、卓を見た。
皿が、七つ並んでいた。
ベルガーさんが、わたくしの両手をあらためながら言った。
「本日より、儀を厳格に行います」
「はい」
「宗務院への報告に備えるものでございます。皿は七つ。三日ごとの休みは、以後、月に一度といたします」
「はい」
それだけだった。恨みごとも、詫びもない。決まったことを伝える口調だった。
先生が七つの皿の上に手をかざしていく。七つ目まで終えて、顎を引いた。
「結構です」
閣下が匙を取られた。わたくしより先に。三晩目だ。
ベルガーさんが「閣下」と言う。閣下は召し上がる。四口目で置かれる。
わたくしは一皿目に手を伸ばした。
七つは、長かった。
五つのときは、終わりが見えていた。四つ目を飲み下せば、あと一つだと思えた。
七つになると、四つ目を終えたときにまだ三つある。三つは、始めからやり直すのと変わらない量に見える。
三十を数えるのが、五度から七度に増えた。
二百十まで数えることになる。そのあいだ、指を確かめ、喉を確かめ、額を確かめる。確かめるたびに、確かめるものが減っていることに気づく。痺れている三本は、はじめから数に入らない。
五つ目で、匙が滑った。
膝に落ちて、床までは行かなかった。拾って、布で拭いて、持ち直す。誰も何も言わなかった。
上座で椅子が鳴った。顔を上げなかったので、どう鳴ったのかは分からない。
七つ目を飲み下して、三十を数えた。
何も起きない。
「毒味、終わりましてございます」
立ち上がるとき、腿に力が入らなかった。卓に手をついて、二度に分けて立った。
誰も手を貸さない。貸してはいけないことになっている。代毒者に触れれば、触れた者が儀に関わったことになる。
廊下を歩きながら、雪の匂いを嗅ごうとして、また忘れていたことを思い出した。
部屋に戻って、扉を閉めた。
寝る前の手順を踏む。七本。舌。水。何も起きない。
寝台に腰を下ろした。
あの方は、わたくしを守ろうとされている。
そのたびに、皿が増える。
止めてくださいと申し上げれば、止まるのだろうか。
止まらないかもしれない。あの方は「まだ、続ける」とおっしゃった。理由も言わずに。
けれど、皿が七つになったことは、たぶんご存じない。
知れば、どうなさるだろう。
膝の上で、手を重ねた。重ねた手の、三本には何も伝わらない。
明日、申し上げようと思った。




