第8話 床の鳴る場所
休みが五日目に入って、初めて昼の部屋を見た。
これまでは、夜しか見ていなかった。日が落ちてから戻り、蝋燭を一本つけて、消して寝る。朝は暗いうちに出る。部屋は、寝るための箱でしかなかった。
窓から入る光は、思っていたより明るい。
壁の漆喰に染みがある。天井に近いところは煤で黒ずんで、腰の高さから下は擦れて白っぽい。誰かが長いこと背中を預けていた場所だ。
扉の枠に、傷があった。
横向きの短い線が、いくつも刻んである。低いところに三本、その少し上に二本。いちばん上のものは、わたくしの目の高さくらいにある。
背丈を測った跡のようにも見えるし、ただの傷にも見える。数えると九本あった。九人ぶんかもしれないし、一人が九回刻んだのかもしれない。
窓の桟に、乾いた植物の欠片が挟まっていた。
摘まみ出そうとして、指が滑る。爪で掻き出した。掌に載せると、薄い茶色の、葉だか花だか分からないものだった。
匂いを嗅ごうとして、そういえば嗅げないのだったと思い出した。
この部屋を使っていたのは、三か月前まで、あの人だ。
その前は、別の誰か。その前も。
寝台の下を覗いてみた。埃と、丸まった糸くずと、木の匙が一本転がっていた。柄の端が黒く焦げている。火に近づけすぎたのだろう。
匙は洗って、卓に置いた。捨てる気になれなかった。
寝台の藁を入れ替えた形跡はない。詰め直しは年に二度だと聞いた。だとすれば、この藁の半分はあの人が寝ていたころのものだ。
そう思っても、気味が悪いとは思わなかった。むしろ、少しだけ落ち着いた。ここで寝ていた人が、たしかにいた。
昼過ぎに、扉が叩かれた。
ティナが薬湯を持って立っていた。両手で椀を持って、それでも半分こぼしそうになっている。
「置きますね。熱いです」
卓に置いて、それから部屋を見回した。
「ここ、寒くないですか」
「薪置き場が隣ですから、暖かいほうです」
「ふうん」
ティナは寝台の端に腰を下ろした。腰を下ろしてから、それがいけないことかもしれないと気づいた顔をして、少し浮かせて、また下ろした。
「あの、訊いてもいいですか」
「はい」
「前にここにいた人って、どんな方でした」
薬湯から湯気が上がっている。
「わたくしも、一度しかお会いしておりません」
「あ、そうなんですか」
「はい」
「じゃあ、わたしより知らないかも」
ティナは膝の上で手を組んだ。
「わたし、二か月前に来たじゃないですか。そのとき、上の侍女の人たちがまだ話してて」
わたくしは椀に手を伸ばさずに、そのまま聞いていた。
「最後のころは、あんまり喋らなかったって。前は挨拶くらいしてくれてたのに、しなくなったって」
「そうですか」
「あと、部屋から出てこない日が増えたって」
それは休みが増えたということだろう。わたくしも三日と七日をもらった。同じことだ。
「最初のころは、そんなことなかったらしいです。一年目は元気だったって、洗濯場のおばさんが言ってました」
「一年目」
「二年いらしたそうです。長いほうだって」
長いほう。
二年で長いというなら、短いほうは何年なのだろう。訊こうとして、この娘が答えを持っていないことに気づいた。二か月しかいない娘に、この屋敷の年月を訊いても仕方がない。
「それで、あの」
ティナが少し声を落とした。
「これ、聞いた話なんですけど。夜中に、廊下に出てたって」
「廊下に」
「なんか、床を這ってたのを見た人がいるって」
薬湯の湯気が、まっすぐ上がって、途中でほどけた。
「具合、悪かったんですよね」
ティナが自分で答えを出した。
「かわいそうですよね。夜中に苦しくなって、誰か呼ぼうとしたんだと思います。あたしなら、絶対そうします」
そうかもしれない。
苦しくなって、助けを呼ぼうとして、立てなくて、それで這った。筋は通っている。
「薬湯、冷めますよ」
「はい」
口をつけた。舌の上で温かい。喉を通っていくのが分かる。
「あ、これ、閣下のご指図だそうです」
ティナが思い出したように言った。
「え」
「薬湯です。家令さまが厨房に言いに来たとき、閣下の仰せだって」
こぼしそうになったのは椀ではなく、こちらの手だった。
「ほんとですか」
「あたし、そこにいましたもん」
ティナはそれ以上を知らなかった。知らないまま、椀が空になるのを待って、持って帰った。
夜になった。
蝋燭を消して、横になった。指を折る。七本。舌を上顎に。水を一口。
何も起きない。
寝返りを打った。
床が鳴った。
寝台の脚の下ではない。もう少し向こう、足元のあたりだ。
わたくしは起き上がって、床に膝をついた。
昼に見たときに気づいていた。寝台の脚のあたりだけ、床板の色が濃い。長く踏まれた場所はそうなる。
その板を、掌で押した。
鳴った。
隣の板を押す。鳴らない。その隣も鳴らない。
濃い色の板だけが、押すたびに、下で何かが軋む音を返してくる。
指を縁に差し入れようとした。
入らない。板と板の隙間が狭い。爪を立ててみたが、痺れているほうの指では力が伝わらない。反対の手でやり直す。
端のほうに、釘の頭が見えた。
新しくはない。錆びて、周りの木が黒く滲んでいる。
ただ、頭の周りの木が、わずかに潰れていた。打ち込んだときにできる潰れ方ではない。抜こうとして工具の先を当て、それから打ち戻したときの跡だ。父の代に屋根を直させたとき、職人がそんなふうに古材を扱っていたのを見たことがある。
一度抜いて、また打ってある。
手を止めた。
代毒者は問いを持ちませぬよう、とベルガーさんは言った。
それに、これは屋敷の床だ。わたくしの持ち物ではない。剥がして中を見る権利は、わたくしにはない。
理屈は、いくらでも作れた。作れば作るほど、どれも本当ではない気がした。
本当のところは、こうだ。
この板の下に何かがあるとして、それを入れたのはあの人しかいない。釘を抜いて、また打ったのもあの人だ。手が震えていた人が、それだけの手間をかけて隠した。
隠すというのは、誰かに見られては困るということだ。
困る相手が、この屋敷にいるということだ。
膝をついたまま、しばらく板の上に手を置いていた。
板は冷たくない。木は石とちがって、置いた手のぶんだけ温まる。
開けてはいけない、と思ったわけではない。
開けたら、次はわたくしの番だと分かってしまう気がした。




