第7話 前の方より、ずっと
三皿目を飲み下したところで、匙が皿に当たった。
高い音がした。
わたくしは自分の手を見た。手首から先が、細かく揺れている。止めようとして力を入れると、揺れは大きくなった。
まだ何も感じていない。
喉は詰まっていないし、視界も滲んでいない。それなのに、手だけが先に知っている。
「毒味」
ベルガーさんの声だった。
「大丈夫です」
言ってから、匙を持ち直した。持ち直すのに、二度かかった。
四皿目。
麦を練った団子で、汁に沈んでいる。掬って、口へ運ぶ。
飲み下すのに、いつもより時間がかかった。喉の途中で止まって、そこから先へ進まない。唾を集めて、押し込む。
三十を数える。
二十のあたりで、額に何か伝った。汗だ。冷えた大食堂で、汗が出ている。
五皿目に手を伸ばす。
伸ばした腕が重い。肘から先が、水を張った桶を持っているときの重さになっている。
誰も止めない。
止められないのだと、頭の隅で分かっていた。膳は五つ。五つ食べて初めて代毒は成る。四つで止めれば閣下は召し上がれない。
塩漬けの魚だった。身が固くて、噛み切るのに顎の力がいる。噛んでいるあいだに、顎が疲れた。三か月前は疲れなかった。
匙を口へ運んだ。
舌の上に載せてから、飲み下すまでに、いつもの倍かかった。喉が動くのを、自分で押し出すようにして助ける。
こういうときに、判じてはならないと決められているのは、いっそ楽なのかもしれない。判じてよいのなら、わたくしは今この一口を疑っている。疑って、口をつけずに済ませたくなる。
済ませられないから、考えない。考えないための決まりなのだろう。
視界の端で、椅子が動いた。
上座で、閣下が腰を浮かせておられる。
ベルガーさんがそちらへ顔を向けた。それだけだった。何も言わない。言う必要がなかった。
閣下は座り直された。
わたくしは五皿目を飲み下して、三十を数えた。
三十まで数えた。数えたはずだ。途中から、数がどこまで進んだのか分からなくなっていたが、口だけは動いていた。
「毒味、終わりましてございます」
立ち上がろうとして、卓に手をついた。
廊下までは出た。
そこから先の記憶は、切れている。
次に分かったのは、揺れていることだった。
背中と膝の裏に太い腕が回っている。石鹸ではない、脂と煙の匂いのする布が頬に当たっている。匂いは分からないはずなのに、そう思った。たぶん、以前に覚えたものを思い出しただけだ。
「掴まれ」
低い声がした。
わたくしは指を動かそうとした。動いたかどうかは分からない。
運ばれながら、天井の梁が一本ずつ流れていくのを見ていた。
この人は、前も運んでくれた。
礼を言おうとして、口が開かなかった。開いたとしても、この人は木の匙で鍋の縁を叩いて、話を切ってしまうだろう。
息が荒い。わたくしのではない。
この人は、四十を越えている。
薬草と酢の匂いのする部屋で、目を開けた。
長椅子の硬さで、そこがどこか分かった。
「前より重い」
先生は、わたくしの瞼を指で押し上げて、覗き込んでいた。
「三皿目のあとから、手が震え始めましたね。前は半刻あとに一度に来た。今度は、早く始まって、ゆっくり進んだ」
わたくしは何も言えなかった。
「二度目です」
先生は指を離して、薬箱の蓋を開けた。
「一度目より軽ければ、慣れたのだと言えます。重ければ、そうではない」
「重いのですか」
「重い」
言い切られると、かえって落ち着いた。曖昧に濁されるより、そのほうがいい。
「もっとも、量が違えば出方も違います。同じものが同じだけ入っていたと決まったわけではありません」
量。
毒に量があるのは当たり前のことだ。当たり前のことなのに、その言葉は妙に耳に残った。残ったが、そのときは、それだけだった。
天井の梁を見ていた。この部屋の梁は、廊下より低い。
「三日では足りませんね」
先生が言った。
「七日にしましょう」
「七日、でございますか」
「七日です。家令には言っておきます。俸給は減りません」
薬を煎じる音がした。土の器の底で、湯が細かく鳴っている。
先生はこちらに背を向けたまま続けた。
「間隔を空けましょう」
「間隔」
「務めのあいだを、です。毎晩というのは、あなたの身体には多すぎる」
毎晩でなくてよいのですか、と訊きかけて、やめた。膳は毎晩出る。出る以上は誰かが食べる。誰かとは、わたくしのことだ。
先生が戻ってきて、器を差し出した。温かい。喉を通っていくのが分かる。
それから、わたくしの手首を取った。
指を三本、脈の上に置く。目を閉じて、数えている。
しばらくして、目を開けた。
「あなたは、よく保っている」
顔を上げた。
「前の方より、ずっと」
器を持つ手に、少し力が入った。
褒められた、と思った。この三か月と少しのあいだで、務めについて何かを言われたのは初めてだった。よくできていると言われたことも、足りないと言われたこともない。ベルガーさんは順序を正すだけで、上手下手を口にしない。
わたくしは、うまくやれているらしい。
「ありがとうございます」
言うと、先生は目尻を少しだけ動かした。
「礼を言われることではありません。あなたが保っているのであって、わたしが保たせたわけではない」
部屋へ戻されたのは、夜半だった。
七日の休みが始まる。七日、晩餐の席に座らなくていい。そう思うと、身体の重さが少しだけ引いた気がした。
寝台に横になって、いつもの手順を踏もうとした。
指を折る。八本のうち、薬指の先も怪しい。曲がっているのは見えるが、曲げた感じが薄い。
七本になった。
目を閉じかけて、先生の言葉が戻ってきた。
前の方より、ずっと。
前の方。
わたくしの前にこの席にいた人。二年務めて、三か月前に死んだ人。手首の細かった人。
あの人より、わたくしはよく保っているのだという。
保つ、というのは、どういうことだろう。
長く生きるということだろうか。長く食べ続けられるということだろうか。
それに、と思う。
あの人の名を、わたくしは知らない。
面通しの日に会って、名を訊かれて、答えた。あちらは名乗らなかった。訊けばよかったのに、訊かなかった。
名を持たない人に名を訊くのは、変なことだと思ったからだ。
いま思えば、あの人のほうがわたくしに訊いてきた。
名を持たない者どうしなのに。
あの日、控えの間で、あの人は盆を持つ手を震わせていた。
わたくしは今夜、匙を持つ手を震わせた。
寝返りを打とうとして、うまく力が入らず、途中でやめた。
七日眠れば、戻る。三日で戻らなかったものが七日で戻るかどうかは、考えないことにした。




