第6話 十六年、誰とも
厨房の裏手には、薪を割る台が据えてある。
昼の下がりに、そこで下働きが四、五人固まって休んでいた。斧の柄に寄りかかった男、木屑の山に腰を下ろした娘、桶を伏せて座っている老人。
わたくしは膳のことでヨナスさんに訊きたいことがあって、そこを通りかかった。
誰も口を止めなかった。
三か月と少しで、これには慣れた。名のない者は人数に入らない。人数に入らない者の前では、話を中断する理由がない。
だから、わたくしはこの屋敷でいちばん多くの噂を聞いている。
「――で、閣下がだよ。皿を指して、下げろって」
「見てたのか」
「給仕のマルタが見てた。腰抜かしたって」
斧に寄りかかった男が、木屑を蹴った。
「ありゃ、機嫌が悪かっただけだろう。あの方はもともと」
「もともと、何」
「冷たい方だ」
誰かが笑った。笑ったあとで、声がすぼんだ。
老人が桶の上で身じろぎした。
「冷たいってのはな」
と、その人が言った。
「食わねえからだよ」
「食わないって、飯をか」
「人と、だ」
薪の匂いがした。切ったばかりの木の、湿った匂い。
わたくしには、それが分からない。分からないまま、そこに立っていた。
「あの方はな、人と一緒に飯を食わねえ。夜会にも出ねえ。婚約の話が二度流れたのも、そのせいだって話だ」
「二度も流れりゃ、そりゃ噂も立つ」
「先方が来て、卓に着いて、それで閣下は召し上がらねえんだと。相手のご令嬢がお帰りになってから、一人で召し上がる」
木屑の山に座っていた娘が身を乗り出した。
「それ、失礼じゃないですか」
「失礼だな」
「じゃあ、なんで」
「知るかよ。だから冷たいって言われるんだ」
「そりゃ知ってる。だけど、いつからだよ」
「先代様が亡くなってからだって、みんな言うが」
老人が首を横に振った。
「違うね。もっと前だ」
「どのくらい前」
「わしがここへ来た年には、もうそうだった」
「あんた、何年」
「十六年」
斧の男が口笛を吹こうとして、失敗した。
「十六年、誰とも飯を食ってないってことか」
「そういうことになるな」
「そりゃあ、冷たいとも言われるわな」
誰かが立ち上がって、薪を抱えた。話はそこで終わった。
わたくしは足を動かして、厨房の戸口へ向かった。誰も、こちらを見なかった。
戸口をくぐるとき、背中で娘の声がした。
「じゃあ、毒味の人は」
足が止まりかけて、止めずに歩いた。
「毒味の人は、毎晩ご一緒じゃないですか。あの部屋で」
「あれは食事じゃねえよ」
老人の声が答えた。
「あれは、儀式だ」
ヨナスさんに用件を伝えて出ると、廊下の先でベルガーさんに呼び止められた。
「毒味」
立ち止まって、頭を下げる。
「昨夜の儀でございますが」
「はい」
「三皿目と四皿目の順が、前後しておりました」
覚えがあった。汁物の器が手前に置かれていて、そちらへ先に手を伸ばした。
「申し訳ありません」
「膳は供された順に。判ずるのは代毒者の務めではございませぬ」
「はい」
ベルガーさんは帳面を小脇に抱え直した。行ってしまう前に、口が勝手に動いた。
「あの」
「なんでございますか」
「閣下は、どうして誰とも食事をなさらないのですか」
廊下の空気が、動かなくなった。
ベルガーさんは、こちらを見なかった。壁のほうを向いたまま、帳面の角を指でそろえている。
そのまま、一つ数えるほどの間があった。
「存じません」
声には何もこもっていなかった。それが、かえっておかしかった。
この屋敷に四十年いる人が、主人のことを存じないと言う。
知らないなら、少しは考える間があるはずだ。あの方は考えなかった。答えを探さずに済む問いだったということになる。
「代毒者は、問いを持ちませぬよう」
それだけ言って、ベルガーさんは行った。
靴音が石を打つ間隔が、いつもより少しだけ速かった。
その晩、わたくしは初めて、閣下を見た。
これまでは見なかった。見てはならないと教わったわけではないが、見る理由がなかった。わたくしの仕事は皿と自分の身体を見ることで、上座に用はない。
閣下は、速く召し上がる。
匙を運ぶ間隔が短い。噛む回数も少ない。皿から皿へ移るのに、迷いがない。
味わっておられないのだと思った。仕事をこなす手つきに近い。わたくしが五つの皿を順に片づけていくのと、あまり変わらない。
それから、もう一つ気づいた。
あの方は、わたくしが食べているあいだ、一度もこちらを見ない。
三か月と少し、それを「関心がない」のだと思っていた。無関心なら、視線は素通りする。壁を見るのと同じように、たまたまこちらを向くこともあるはずだ。
そうではなかった。
わたくしが匙を上げると、閣下の目が卓に落ちる。わたくしが飲み下して、三十を数え始めると、視線が戻ってくる。次の皿に手を伸ばすと、また落ちる。
三度、確かめた。三度とも同じだった。
合わせないのではない。避けている。
しかも、避け方が正確だった。わたくしの手の動きに合わせて目を伏せるには、こちらを見ていなければできない。見ないでいるために、ずっと見ている。
五皿目を終えて、三十を数えた。何も起きない。
「毒味、終わりましてございます」
立ち上がって、一礼した。
閣下は杯に手を伸ばしておられた。手袋の革が、卓の上で擦れる。
部屋に戻って、寝る前の手順を踏んだ。指を八本折る。舌を上顎に。水を一口。
何も起きない。
寝台に横になって、天井の梁を見上げた。
あの方は、わたくしが食べるところを見たくないのだ。
なぜかは分からない。気味が悪いのかもしれない。目の前で人が毒を飲むのを、毎晩眺めていたい人間はいないだろう。
目を閉じかけて、うっすらと、別のものが浮かんだ。
十六年。
わたくしの前にこの席にいた人は、十六人。
薪割り台の老人の声が、耳の裏に残っている。わしがここへ来た年には、もうそうだった。
同じ数だ。
目を開けて、天井の同じ場所を見た。
人が入れ替わるのに何年かかるかなど、数えたことがない。二年の人もいれば、半年の人もいるだろう。十六年で十六人なら、一人あたり一年ということになるが、そんなふうに揃うものだろうか。
揃うわけがない。だから、これはただの偶然だ。
それに、あの老人が来た年に閣下がもう人と食べていなかったというだけで、十六年前に何かがあったと決まったわけでもない。もっと前からかもしれない。数え方によって、どうにでもなる。
寝返りを打った。藁が鳴った。
偶然だと思うことにして、目を閉じた。
閉じてからも、しばらく数字が瞼の裏に残っていた。




