第5話 呼び名を、考えておきます
朝、ボタンが留まらなかった。
喉元の小さなものを、指で摘まむ。摘まんだはずが、穴に入らない。手元を見れば、指はちゃんとボタンを持っている。持っているのに、持っている感じがしない。
二度失敗して、三度目でようやく留まった。
残りの四つは、爪の側面を使って押し込んだ。そうすれば、目で確かめながらできる。
窓の外は白んだばかりで、中庭の霜が薄く光っていた。
あの晩から三日が過ぎている。閣下は、あれきり何もおっしゃらない。膳は五つに戻った。茸の煮込みは年に一度のものだと、ヨナスさんが言っていたとおりだ。
指先を口元に当ててみた。
唇に触れているのは分かる。触れられている感じは、薄い。
先生は、じきに引きますと言った。六日になる。
試しに、卓の上の水差しを持ってみた。持てる。重さは分かる。
次に、髪を結う紐を摘まんでみた。細いものは駄目だった。摘まんだつもりで、指のあいだに何も挟まっていない。
手のひらで押さえて巻きつければ結える。やり方を変えればいいだけの話だ。
数えるのをやめた。
数えたところで、増えも減りもしない。
昼、洗濯場の脇を通ると、籠を抱えたティナが追いついてきた。
この娘は、まだ誰にも教わっていないらしい。廊下でも、階段でも、見つければ寄ってくる。
「聞きましたよ、閣下のこと」
籠を腰で支えて、声をひそめる仕草だけは一人前だった。
「皿を下げろっておっしゃったって。厨房の人がみんな言ってます」
「そういうこともございます」
「そういうことじゃないですよ。三年いる人が、初めて見たって言ってました」
三年。ティナの二か月より、ずいぶん長い。それでも、この屋敷の代毒者はその三年のあいだに何人か入れ替わっているはずだった。
ティナは籠を抱え直した。
「あの、わたし、考えてたんですけど」
「はい」
「呼び名です」
足が止まった。
「毒味さまは、やっぱり変です。だって、それ、お仕事の名前じゃないですか。厨房の人を鍋さまとは呼ばないでしょう」
鍋さま、と口の中で繰り返してしまった。
「だから、なんかこう、別の呼び方を」
「宗務院の定めでございます」
「定めって、呼ばないでくださいって書いてあるんですか」
「名を呼んではならぬと」
「じゃあ、名前じゃなければいいってことですよね」
理屈になっていない。なっていないのに、返す言葉が出てこなかった。
ティナは籠を地面に置いて、指を折り始めた。
「えっと。お姉さま、は違うし。先輩、も違うし」
「わたくしは、あなたより先に入っただけでございます」
「三か月も先じゃないですか。三か月は先輩ですよ」
三か月。この娘の物差しでは、それが長さになるらしい。
「あ、うちの村では、名前が長い人を最初の音だけで呼ぶんです。わたしの母はティルダなんですけど、みんなティって呼んでて。だからわたしがティナで、ややこしくて」
最初の音。
喉の奥が、少しだけ動いた。
わたくしの名の最初の音を、この娘は知らない。知らないから、そこには辿り着けない。
「それも、名でございます」
「あー。そうですね。そうか」
ティナはしばらく指を折ったまま黙って、それから籠を持ち上げた。
「難しいですね」
「はい」
「考えておきます」
考えておきます、と言った。
諦めたのではなく、また明日も考えるという顔をしていた。
籠の縁から、洗ったばかりの布が一枚落ちた。拾って渡すと、ティナは礼を言って、それから急に思い出したように付け足した。
「あ、あと、走るなって家令さまに叱られました。三回目です」
「お気をつけて」
「はい。気をつけて走ります」
走っていく背中を見送りながら、わたくしは自分の指を握ってみた。八本には、握った感じがある。
その晩の膳は、五つだった。
根菜と、干した肉と、麦の粥と、卵を落とした汁と、酢に漬けた魚。菓子が出るのは月に二度ほどで、今日はない。
膳が並べられ、先生が皿の上に手をかざしていく。五つ目まで終えて、顎を引いた。
「結構です」
一皿目に手を伸ばした。
伸ばしたところで、妙な感じがした。
顔を近づける。
湯気が頬に当たる。温かい。
それだけだった。
もう一度、深く息を吸ってみた。
何もない。
汁物のはずだ。酢に漬けた魚もある。酢は、鼻に来るものだ。着任した頃は、厨房の前を通るだけで魚の日だと分かった。
卓の端に、花が活けてあった。冬の入りに温室から上げてくるもので、白くて、小さい。
顔を寄せた。
近づいても、何も来ない。
給仕が皿を置く。目は合わない。誰もこちらを見ていない。それを確かめてから、もう一度、花に鼻を近づけた。
白い花弁が、息で少し揺れた。それだけだった。
いつからだろう。
今朝、厨房の裏を通ったとき、何も感じなかった。昨日も、その前も。気づいていなかっただけで、たぶん、もっと前からだ。
わたくしは一皿目を口に運んだ。
舌の上で、温かいものが広がる。喉を通っていく重さ。それは分かる。
匂いが抜けたぶん、口の中の手触りだけが濃くなった気がした。粥のざらつき。魚の繊維が歯のあいだに挟まる感じ。干した肉の、噛むほどに固くなっていくところ。
三十を数える。何も起きない。二皿目へ移る。
五つを終えた。
「毒味、終わりましてございます」
立ち上がるとき、閣下のほうを見た。
あの方は、卓に視線を落としておられた。あれきり、一度もこちらを見ない。
あの晩に指を上げたのは、何かの間違いだったのかもしれない。祝いの日で、蝋燭が多くて、屋敷が浮ついていた。そういう日には、人は普段しないことをする。
部屋に戻って、寝る前の手順を踏んだ。
指を折る。八本。舌を上顎に押しつける。痺れはない。水を一口。詰まらない。
匂いのことは、誰にも言わないと決めた。
言えば先生に診せることになる。診せれば休養になる。休養が長くなれば、宗務院が務めを解くかもしれない。解かれれば俸給が止まる。
ソフィの手紙には、母が屋根を直させたと書いてあった。直させた分の払いは、来月の俸給から出る。
それに、と思う。
匂いが分かったところで、何も変わらない。
毒に匂いがあるなら、この国の医者はとっくに見分けている。見分けられないから、わたくしがここにいる。
鼻が利いても、利かなくても、わたくしは同じように食べて、同じように三十を数えるだけだ。
蝋燭を消した。
薪の匂いは、もうしない。




