第4話 その皿を、下げろ
三日の休みが明けた朝、厨房の戸口で足を止めた。
鍋の湯気で天井が白く曇っている。油の爆ぜる音。刻んだ根菜が板を叩く音。そのなかを、料理人が背中を丸めて動いていた。
ヨナスさんという。四十を越えているはずだが、腕がまだ太い。
わたくしが立っていることに気づくと、匙を鍋に入れて、掬って、口に含んだ。それから塩壺に手を伸ばして、伸ばした手を途中で止めた。
止めたまま、火を落とした。
「今日のスープは薄い」
こちらを見ずに言った。
「文句はあとで聞く」
厨房の者は、代毒者に話しかけない。それが決まりというより、癖のようなものになっている。ヨナスさんは決まりを破っているわけではなかった。膳のことを膳の担当に伝えているだけで、話しかけてはいない。
塩を控えれば喉の負担が減る。倒れた翌日にそうしてくれる人がいることを、わたくしは知らなかった。
いや、知らなかったのではない。気づいていなかっただけかもしれない。着任して間もない頃にも、汁の薄い日が何度かあった。あのときは味付けを失敗したのだろうと思っていた。
三日前の夜、廊下からわたくしを運んだのはこの人だと聞いた。
礼を言おうとして、口を開いた。
「ヨナスさん、あの」
鍋の縁を叩く音が返ってきた。木の匙が三度。話を切るときの合図だと、あとで知る。
「膳は六つだ。今日は一つ多い」
「六つ、でございますか」
「祝いの日だからな。茸が入る。年に一度だ」
それだけ言って、次の鍋の蓋を開けた。湯気が顔に当たる。
「食えとは言わねえ」
背中が言った。
「ただ、うまく作った」
それきりだった。厨房を出るまで、こちらを一度も見なかった。
その晩の膳は、六つあった。
いつもは五つだ。ベルガーさんが皿の数をあらためて、給仕に順を確かめさせている。増えた一つは、秋の終わりの祝いに出す茸の煮込みだと聞いた。年に一度のものらしい。
膳が並べられ、先生が皿の上に手をかざしていく。六つ目まで終えて、顎を引いた。
「結構です」
わたくしは席に着いた。
一皿目。二皿目。三十を数えるあいだ、指先の痺れは変わらない。三日経っても引いていない。
三皿目に手を伸ばしたところで、上座から声がした。
「――その皿を、下げろ」
匙が止まった。
大食堂の音が、いっせいに消える。給仕は皿を持ったまま動けなくなり、壁際の先生も顔を上げた。
閣下が、四皿目を指しておられる。手袋をした指だった。
三か月と少し、あの方が晩餐の席で口を開かれたのを聞いたのは、これが初めてだった。
ベルガーさんが一歩前に出た。
「閣下」
「聞こえたはずだ」
「なりませぬ」
家令の声には、震えも力みもなかった。四十年その言葉を言い慣れてきた者の言い方だった。
「儀は儀でございます。膳が調えられた以上、代毒者はすべての皿を口にいたします。一つでも欠ければ代毒は成らず、成らねば閣下は召し上がれませぬ」
「下げろと言っている」
「下げれば、この者が皿を選んだことになります」
ベルガーさんは、わたくしのほうを見なかった。閣下だけを見ていた。
「代毒者は判じませぬ。判じる者は器たりえぬと、宗務院が定めております。皿を選ばせることは、この者の務めを断つことでございます」
沈黙が落ちた。
蝋燭の芯が一つ、音を立てて折れた。
給仕の娘が、盆を胸の高さで持ったまま固まっている。腕が細かく震えていた。壁際では先生が両手を前で組み、何も言わずに成り行きを見ている。
この屋敷で、家令が主人に「なりませぬ」と言うのを、わたくしは初めて見た。それを言えるのは、儀が閣下のものではないからだ。宗務院が定め、宗務院が代毒者を寄越し、宗務院が侍医を置く。閣下の卓の上でありながら、閣下の持ち物ではない。
閣下の手は、まだ四皿目を指したままだった。指の先が、わずかに動いている。
わたくしはその手を見ていた。
なぜ、その皿なのだろう。
六つのうち、なぜ、あれなのだろう。
閣下が手を下ろされた。
椅子の背に体を戻し、視線を卓に落とす。それきり何もおっしゃらなかった。
ベルガーさんが一礼して、元の位置へ戻る。給仕の娘が息を吐いて、盆を卓に置いた。
ベルガーさんがわたくしに目で合図をした。
三皿目を終える。三十を数える。何も起きない。
四皿目に手を伸ばした。
茸の煮込みだった。汁が濃くて、匙の上でとろりと重い。喉を通るときに、少し引っかかる感じがした。
飲み下す。
三十を数える。
一つ。二つ。三つ。
閣下がこちらを見ておられるのが、視界の端に入った。
十。十一。
喉の奥に、まだ汁の重さが残っている。引っかかる感じが消えない。それが茸のせいなのか、そうでないのかを、わたくしは判じられない。判じてはならないことになっている。
十七。十八。
まだ見ておられる。
指先を確かめる。痺れているほうの二本は、はじめから何も伝えてこない。だからこの二本は数に入らない。残る八本で確かめる。
二十九。三十。
何も起きなかった。
五皿目、六皿目と続けて、いつもどおりに終わった。
「毒味、終わりましてございます」
閣下が匙を取られる。金属が皿に当たる音がして、そこで務めが終わった。
立ち上がって、一礼して、下がろうとした。
卓の脇を通るとき、視界の隅で何かが動いた。
顔を上げておられた。
こちらを見ておられた。
三か月と少し、一度もなかったことだ。
目が合ったのは、数を数えるほどの間でもなかったと思う。閣下はすぐに視線を外され、杯に手を伸ばされた。手袋の革が、卓の上で擦れる音がした。
わたくしは大食堂を出た。
廊下の石は、いつもどおり冷たかった。三本の蝋燭を数えながら歩く。手のひらを壁に這わせても、指先の二本だけは何も伝えてこない。
部屋に入って、扉を閉めて、そこでようやく息を吐いた。
あの方は、皿を下げろとおっしゃった。
下げさせて、わたくしに食べさせないつもりだった。ベルガーさんに止められて、下ろされた手が、まだ目に残っている。
憐れんでくださったのだろうか。三日前に廊下で倒れたことは、屋敷じゅうが知っている。弱った者を気の毒に思うのは、おかしなことではない。
それにしては、と思う。
気の毒に思うだけなら、全部を下げさせればよかった。あるいは、数を減らせと家令に命じればよかった。閣下ならそれくらいはおっしゃれる。
六つ並んでいた。茸の煮込みは四番目だった。
閣下は、六つのうちのあれを指した。
どうして、あれだったのだろう。




